天皇制と道徳の教科化

*これは2018年、「道徳」が教科化されるという状況下、北村小夜さんが反天皇制運動連絡会のニュース “Alert” に書かれた文章です。[ ]内は掲載にあたり編集部で捕捉しました。

北村小夜(元教員)

■やっぱり「おことば」は「勅語」だった

小学校で執拗に教えられたので決して忘れることはない。天皇が国民に言った〝ことば〞が勅語で、書いたものは詔書と。

2016年7月13日、NHKのスクープに始まり、8月8日には「ビデオメッセージ」(おことば)が流れて、退位の意向が示されると、70年経っても主権在民が身に付かない国民の支持に押されるように、無法は無視され、政治が実現に向かっていった。こんなことができるのは大日本帝国憲法下の天皇でしかない。まさに「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」ではないか。

2018年4月から小学校で、道徳が教科化された。2006年改悪教育基本法の「伝統文化を尊重し、わが国と郷土を愛する……」を掲げ、22の徳目ごとに教材で具体化した検定教科書による授業が始まっている。教科化に対しては教育勅語・修身の復活と言って、1958年の導入以来60年にわたって反対してきた。私たちが使った第3期国定教科書修身の一年生の初めは、「テンノウヘイカバンザイ」であった。当時に比べれば天皇・皇族は身近にある。よく歩き回り、新聞やテレビに現れない日はない。歩き回った跡には碑や看板ができる。興味本位な情報もあふれている。自民党憲法改正草案には元首化を目指している。いまこの国で生き方を学ぶには天皇制については真剣に議論しなければならない。しかし、道徳教科書は天皇や元号に全く触れていない。大抵の教材は背景に置くことくらいは容易に見える。書く条件は揃っているのに書かないのはきちんと書くのは憚られ、中途半端に書けば、左右からの攻撃を受けることを恐れているからであろう。私たちも天皇・国旗・国歌などの記述は少ない方が良いという消極的な対応しかできていないのが現実であるが、次回からは本性が現れるだろうし、道徳の性根が明らかになったのだから、覚悟してかからなければなるまい。

■忖度

政権の不祥事が次々に続き、内閣支持率は下落するのに、野党の支持率は上がらない。不祥事を起こすのは税務省などの官僚機構であるが、そこには安倍総理への忖度がある。森友学園問題--国有地が森友学園に破格の安値で払い下げられたこと、さらに財務省が関係文書を改ざんした事件でも官僚たちが首相意向を忖度してのことであることは明らかである。官僚たちの違法行為も辞さない忖度が、一人の人間を自殺に追い込んでいる。

国家に違法行為を強いられて自殺したということは、犯罪国家に個人が従わされるという全体国家状況が作り出されているということである。この国では、もう安倍の意向を忖度することが、安倍政権統治下での基本ルールになってしまっている。

道徳の教科化こそその最たるものの一つではないか。

2018年4月から小学校において実施されている道徳の教科化は、教育勅語の復活と言われているように、国家による価値観(愛国心)の押しつけという大きな問題であるけれど、世間はすんなり受け入れてしまっているという大問題である。教科化によって評価が行われることになり、個人の道徳性について学校と言う公的機関が判断するわけだから「大問題」である。新たに教科書が作られ、文科省による検定、教育委員会による採択をへて、児童に配布されている。その検定過程は女性週刊誌にも載り、文科省の指示に従って、教科書会社が、パン屋を和菓子屋に、[公園の]アスレチック[の写真]を和楽器屋[の写真]に変更したように巷の話題にもなり「伝統文化や愛国心を教えるのに和菓子屋・和楽器にすがるとは情けない」と揶揄されたりしたが、文科省は「『伝統文化の尊重、国や郷土を愛する態度』の扱いが不適切」という意見を述べただけで、変更はもっぱら教科書出版会社の「忖度」「自主規制」によるものであった。教科書は商品である。商品になるためには検定に合格しなければならない。商品は売れなければならない。売れるには教育委員会に採択されなければならない(教師の採択権は無償化と引き換えに奪われている)。教科書出版会社は2004年のN社の倒産を忘れない。かつて多くの学校で使用されていたN社版歴史教科書は「新しい歴史教科書を作る会」などの跋扈の中でも、「従軍慰安婦」も「侵略の歴史」もきちんと記述し続けた。結果、検定は通り現場の期待は高かったが、「自虐」攻撃を受け、混乱を恐れる教育委員会に全く採択されず倒産に陥った。
〜こうして教科書は政権の思うままになってきた。

小学校道徳教科書は戦後初めての道徳教科書の検定ということもあって、不合格を恐れて8社とも自社の特性を出すことなく必要以上に学習指導要領・解説の意を尊重に忖度した結果、どれも似たり寄ったり、22の徳目は修身を彷彿とさせる。予想された育鵬社は出さなかったが、育鵬社から流れてきたメンバーが加わった教育出版社が代わりを果たしている。国旗・国歌を異常に大きく扱い、オリンピックで使われる旗・歌が、国旗・国歌に限られているように書き、君が代斉唱時の起立・礼の行動を写真入りで説明したり、安倍を含む政治家の写真を必然性もなく取り上げたりで問題が多く採択の争点になったが、採択冊数は57万1338冊、割合では8・6パーセントである。57万人の子どもが学ぶわけである。その問題の教育出版社であるが、6年生用にアイヌについての記述がある。全教科書66冊の中でただ1篇なので、とりあえずよくぞと思う。「アイヌのほこり」と題して「アイヌとは、遠い昔から北海道を中心にした地域にもともと住んでいた人たちのことです。明治時代以降、アイヌは、住む土地をうばわれるなど厳しい差別をうけてきました」と前置きも。内容としては伝統文化を伝える活動をしている宇佐照代さんを紹介するものである。これについて北海道教組は、政府のアイヌモシリ侵略・植民地主義などを不問に付し、アイヌ復権を文化面だけに留めていることは、新たな同化主義に陥る危険があるのではないか、と指摘している。

いま(2016年6月)、来年度から使用される中学校の道徳教科書展示会が開かれている。小学校同様八社が参入している。

■教科化に至る経過を紐解くと

第一次安倍政権(2006年9月から2007年8月)は、2006年12月19日、憲法と一体のものとして制定された教育基本法を改悪した。それについて安倍首相は「教育の目標に日本の歴史と文化を尊重することができた」と誇らしげに語り、さらに「わが国と郷土を愛し、文化と伝統を培うとともに、われわれ大人は道徳をきちんと教える責任があるのです」と述べている。この安倍の念願が今回の道徳の教科化の実現に至るわけであるが、もとは第1次安倍政権の「教育再生」政策にあった。首相直属の教育再生会議が「第2次報告(2007年6月)で「道徳の教科化」を提言し、伊吹文明文相が中教審に諮問しているが、当時は、評価や検定教科書作成など問題が多く、正規の教科書に馴染まないとして実現しなかった。それを2011年の大津の中学生がいじめで自殺した事件を利用して浮上させた。第二次安倍政権が2013年1月に設置した首相直属の教育再生実行会議は、わすか3回の議論で「いじめ問題等への対応について第一次提言」を出し「いじめ防止対策推進法」(2016年6月制定)の制定と道徳教育の教科化が必要と主張した。これを受けて下村博文文相は中教審に諮問せず「道徳教育の充実に関する懇談会」を設置。この懇談会に貝塚秀樹ら道徳の教科化を推進者を入れ、2014年2月、「道徳の教科化が必要」という報告を出した。実行会議の提言とこの報告に基づいて下村文相は道徳の教科化について中教審に諮問した。諮問に先立ち中教審の再度の反対を避けるため桜井よし子らを中教審委員に任命していた。そうして中教審道徳教育専門部会が「特別の教科道徳」として正規の教科に格上げするという答申を出し、答申は、道徳教育は教育の中核をなす。①正規の教科として義務化する、②道徳を要(かなめ)に教育活動全体で展開する、③検定教科書を導入する、④数値的ではないが教育の効果や行動面を文章で評価する、というもので、2018年4月からほぼこの通りに施されている。まさに教育勅語の復活である。

振り返ってみればそれまで試案であった学習指導要領が官報に告示され法的拘束力を持つとされたのが1958年、その改訂に道徳が導入されて60年、実態として道徳の授業が行われることはなかった。それは現場の教師たちは勿論、世論として、道徳すなわち修身の復活と拒み続けてきたからである。戦前・戦中、教育は教育勅語に基づいてなされてきた。教育勅語を具体化する修身は首位教科としてすべての教科を支配した。今、同様の戦争への道へ踏み出した。

2015年3月31日告示の新学習指導要領は、子どもが国家・社会に役に立つ人材として身につけるものとして「学力」ではなく「資質・能力」を規定した。その育成すべき資質・能力の頂点に立つのが道徳性とした。それまで指導要領は教育内容だけを決めていたが、新指導要領は指導方法・学び方・評価・学校管理を一体として国が管理することを目指している。

あらためて子どもたちに渡された道徳教科書を見渡すと、今この国で目標にある「道徳的諸価値について理解を基に、自己を見つめ・物事を多面的・多角的に考え自己の生き方についての考えを深める学習」をするには足りないものがある。その一つは天皇制であるが、もう一つが原発問題である。しかし66冊のどこをみてもこのこの重い課題は出てこない。東日本大震災については、2011年3月11日、福島県新地駅に停車中の列車から、無事全員避難できた20分の出来事(学研5)。同日、茨城県日立市における地震に続く津波に伴うボランティア活動(光文5)。東北のK市における支援活動などなど(日本文教)、などいくつかの記述があるもののすべて原子力発電事故の影響のない地域が選ばれている。おそらく「放射能はコントロールされている。東京は安全だ」と虚偽の発言をしてオリンピックを招致した政権による国策であろうか。復興五輪は棄民政策であることが次々に明らかになっているというのに。

教科化のきっかけになった大津市皇子山中学校は文科省の「道徳教育実践研究事業」の推進指定校で文科省発行の道徳副教材「心のノート」や「私たちの道徳」を使って熱心に実践していた。このことからも文科省流に道徳を教科化してもいじめがなくなるわけではないことが分かる。いじめは続いている。

6月1日から来年度から始まる中学校道徳教科書の展示会が行われている。小学校以上に忖度・自粛が多かったようである。出版社ではやはり8社が参入しているが、光文社が抜けて「日本教科書株式会社」なるものが加わっている。日本教科書は日本教育再生機構の理事長八木秀次が代表で、「ヘイトスピーチ本」「嫌韓本」などを出している晋遊舎ビルにあり、事実上一体化の会社で、自己責任、自己犠牲、愛国心を強調し日本会議の求めに応じたものになっており(伊勢神宮、神嘗祭が紹介されるページがあるほか、天皇もさらりとみる)22の項目ごとに四段階自己評価が求められている。また教育出版も小学校版同様偉人伝が多く日本賛美でやはり自己評価(三段階)を要求している。採択に当たっては当面教育出版と日本教科書の二社を採択しない取り組みが必要であるが、基づいているのは同じ指導要領である。ほかの6社が良い教科書ということではない。採択権を取り返す取り組み、ひいては教科化返上をめざそう。

*初出:「状況批評:天皇制と道徳の教科化」”Alert”(反天連ニュース)no.24, 2018.6

 

カテゴリー: 天皇制問題のいま, 教育と天皇制 パーマリンク