第156回国会 憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会  第2号(2003年3月6日)

これは、2003年3月の第156回国会(常会)における憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する小委員会第2号「最高法規としての憲法のあり方に関する件(象徴天皇制)」の議事録です。

この回には参考人として元最高裁判所判事の園部逸夫が出席し、主に天皇の行為(「国事行為」とその他の行為)、皇位継承問題、女性天皇問題等について自説を展開し、各委員との質疑応答がなされています。

衆議院のHPhttps://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/0126_l.htmで参照できる資料できます。

*敬称や敬語、年号等に、本サイトの編集方針とは異なる表記がありますが、議事録原文のまま掲載します。

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第156回国会 憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会
第2号 平成15年3月6日(木曜日)

会議録本文へ
平成十五年三月六日(木曜日)午後二時開議
出席小委員
小委員長 保岡 興治君
奥野 誠亮君    近藤 基彦君
中曽根康弘君    葉梨 信行君
平井 卓也君    森岡 正宏君
大畠 章宏君    島   聡君
中野 寛成君    中村 哲治君
伴野  豊君    斉藤 鉄夫君
藤島 正之君    山口 富男君
北川れん子君    井上 喜一君
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憲法調査会会長代理    仙谷 由人君
参考人
(元最高裁判所判事)   園部 逸夫君
衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
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三月六日
小委員北川れん子君二月十三日委員辞任につき、その補欠として北川れん子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員大畠章宏君同日委員辞任につき、その補欠として中村哲治君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員赤松正雄君同日小委員辞任につき、その補欠として斉藤鉄夫君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員中村哲治君同日委員辞任につき、その補欠として大畠章宏君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
小委員斉藤鉄夫君同日小委員辞任につき、その補欠として赤松正雄君が会長の指名で小委員に選任された。
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本日の会議に付した案件
最高法規としての憲法のあり方に関する件(象徴天皇制)

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○保岡小委員長 これより会議を開きます。
最高法規としての憲法のあり方に関する件、特に象徴天皇制について調査を進めます。

本日は、参考人として元最高裁判所判事園部逸夫君に御出席をいただいております。この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にしたいと存じます。

本日の議事の順序について申し上げます。
まず、園部参考人から象徴天皇制について、特に天皇の権限・国事行為等を中心に御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

御発言は着席のままでお願いいたします。
それでは、園部参考人、お願いいたします。

○園部参考人 御紹介いただきました園部でございます。
本日、この席に参考人として御招致いただきましたこと、まことに光栄に存じます。よろしくお願いを申し上げます。

なお、私の意見の中で、天皇陛下初め皇室の方々について、制度としてお話を申し上げるときは、敬称、敬語は用いませんので、あらかじめ御了承を願います。

レジュメに沿ってお話を申し上げますが、まず第一に、天皇制度の憲法上の位置づけということでございます。これに関連して、象徴天皇制度の背景と現行の皇室制度全般について、その概要を説明申し上げます。

日本国憲法は、形式的には、旧憲法の改正という形で制定されましたが、実質的には、新しく生まれ変わった日本国の組織と運営の基本法として機能しているのでございまして、国の他の制度と同様、天皇制度も、新憲法の制度の理念に基づいて規定されていると見るのが妥当でございます。

しかしながら、新憲法は、日本の長い歴史の中で形成されました独特の制度である天皇制度のもとでの実在の天皇と皇室を存続させるということを基盤としております。したがいまして、憲法に天皇の条項を置くことが国民の総意である限り、憲法上の天皇の制度の現実の背景となっている事柄を無視することはできません。

すなわち、天皇の制度は、他の国家機関と異なり、法定の権限を一定の任期中行使すべきであるという国家機関権限法と申しますか、そういう国家機関権限法的な観点からのみ律することはできないという特殊な制度でございます。しかも、天皇の地位は、統治権の総攬者としての天皇をいただくという意味での君主でもなければ、いわゆる大統領でもない、象徴天皇という独特の地位でございますから、比較法的な研究だけでは、そのあるべき理想の姿を描くことができないという問題がございます。

従来の研究は、天皇の地位を旧憲法時代の姿にできるだけ近づけるか、あるいは、そうではなくて、憲法における天皇の地位の存在意義をできるだけ過小評価するか、その間を行き来する議論が多かったと思います。私の意見は、天皇という現実の存在とその行動に着目しつつ、象徴天皇の憲法上のあるべき姿を探求するということにございます。もとより不十分でございますので、本日の御質疑を伺って、なお研究を続けたい所存でございます。

次に、レジュメに書いてあります天皇制度の背景、それから歴史的変遷における多面性について申し上げます。

天皇の制度は、その歴史の中でさまざまな役割を果たしてきております。

まず第一に、統治機構の基軸といいますか、あるいは政治的権威の源泉といいますか、そういうことがございます。

歴史上、天皇がみずから政治的権力を振るった時代は、御案内のとおり、奈良時代や後醍醐天皇の時代など短い期間でございました。ただ、統治機構から全く外れることはございませんで、藤原氏であってもあるいは武家の時代であっても、その権力の正統性は天皇から与えられたものでございました。このような意味で、天皇は、統治機構の中で、権力に対してその正統性を付与する権能を持っていましたが、現在の憲法上の天皇の権能について申せば、このような権威づけの権能を国民から天皇にゆだねたものと解すべきでありまして、天皇の政治的権力からの距離はさらに遠くなっていると申せます。

それでは、なぜ国民がみずからの権能の一部を天皇にゆだねているのかと申せば、それは、憲法が象徴天皇制度を採用しているということ、そして、天皇という制度には以上のような歴史が背景にあるからという説明をするのが妥当ではないかと思っております。

次に、社会規範の具現、社会的弱者への思いということがございます。

この社会規範の具現というのは、ちょっと誤解を招きやすいのですが、中身を申し上げますと、皇室は、常に国民の幸福を願い、祈るという立場を維持されまして、国民のさまざまな苦しみや悲しみに思いをいたし、国民と苦楽をともにするという気持ちを抱いてこられました。そのような気持ちや行動を通して、社会的弱者、例えば、病気で苦しむ人や、災害に遭って悲しみ、苦しむ人に対する思いやりの気持ちの大切なことを折に触れて示してきたのであります。

三番目に、文化、学術の伝承と体現ということでございます。

皇室の歴史の中で、学問、文芸に秀でた天皇は、御承知のとおり少なくございません。歴代の天皇は、文化、学術の発展に深い理解を示しています。このことは、過去の歴史上、武芸に秀で、軍事に関心を持った他国の、すべてとは申しませんが、他国の君主の例とは大きな違いがございまして、明治以後のある時期に不幸な時代があったとも言われてはおりますが、総じて、天皇の制度が、いわば平和の象徴として、昔から長く国民の信頼と支持を受けてきた理由でもあります。

四番目に、祭祀の継承でございます。

皇室では、祭祀は大切なものとして受け継がれております。そして、常に国家国民のために祈るという伝統が、過去においても、国民統合の象徴としての機能を果たしていたのでございます。

そこで、次に、日本国憲法が定める天皇の地位について簡単に御説明を申し上げます。

まず第一が、象徴たる地位でございます。レジュメにもそのように書いておきましたが、これは、憲法第一条の定めるところでありまして、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されております。

第二に、世襲による地位であります。これは、憲法第二条の定めるところでありまして、皇位は世襲のものであると規定されております。

三番目が、国民の総意に基づく地位ということでございます。これは、憲法の第一条と第二条の定めるところでありまして、象徴たる地位は主権の存する日本国民の総意に基づくこと、皇位の継承は国会の議決した皇室典範の定めるところによると規定されております。

次に、天皇の地位、権能と皇室諸制度について御説明を申し上げますが、以上のような三つの天皇の地位を維持するために、憲法、法律は具体的な制度を定めております。その概要を申し上げます。

第一に、国事行為制度でございますが、天皇の象徴としての活動の基本として、国事行為制度、摂政制度、臨時代行制度が設けられております。国事行為制度が天皇の象徴たる地位と関連があるという点につきましては、特に政治との関係をどう解するかという点についてさまざまな議論がございます。しかし、天皇が象徴であるとするためには、国事行為は重要な意義を有するものと考えております。

第二に、皇位継承制度でございます。皇位が世襲によるものであるということから、その具体的内容、すなわち、皇位継承資格、皇位継承順序、皇位継承原因について皇室典範の一章が定めております。

第三に、皇族制度でございます。皇族制度は、世襲の観点からも、皇位継承資格者の範囲を定めたり、あるいは配偶者の位置づけを定める意味で重要でございますが、天皇の象徴たる地位、権能に関連して、その役割を補完する立場にある特別な身分を有する存在を定める制度という意味でも、重要な意義のある制度でございます。皇族の範囲の問題についても、皇族制度の意義を前提に、場合によっては皇位継承制度のあり方ともあわせて十分に考えることが必要ではないかと思います。

四番目が皇室経済制度でございます。皇室の諸活動の経済的基盤のあり方を定めるのが皇室経済制度でありまして、このあり方についても、天皇が象徴であることからさまざまな特別な制度、皇室用財産であるとか皇室費その他ございますが、これらの点につきましては、私は現在なお研究中でございまして、ここでは皇室経済制度も天皇の象徴たる地位、権能に関連して極めて重要であるということを申し上げるにとどめます。

なお、以上の二、三、四につきまして、第一に、現行皇室典範の定める制度、男系男子による継承ということで問題はないか。第二に、皇族制度は十分であるかどうか。すなわち、現行の制度は世襲制度維持のための面が制度化されておりますが、象徴の親族としての行為のあり方について規定が必ずしも十分でないのではないか。それから第三に、皇室経済制度のあり方についても考えるべき点はかなり多いのではないかと思います。

そこで次に、天皇の権能と行為。このレジュメの二枚目でございますが、象徴天皇と天皇の行為との関係について総論的な説明を申し上げます。

第一に、権能及び行為のあり方。これは、象徴の積極性と消極性という観点からお話を申し上げます。

天皇については、その御存在だけで十分象徴であるという考え方、あるいは、天皇は受動的、消極的であるべきであり、特段の行為は必要がないという考え方もございます。私の見解は、天皇の象徴性には、そのような消極的側面があることを肯定しつつ、象徴としてふさわしい行為のあり方を、国事行為その他の行為について実情を考慮に入れつつ、積極的側面からも探求すべきではないかという立場を前提にしております。

そこで次に、天皇の権能、行為の制度上の基準でございますが、初めに申し上げました日本国憲法が定める天皇の地位に関する三つの柱に沿って、次のような基準を挙げたいと思います。

第一に、国民主権から導かれる基準がございます。これにより、天皇は国民のために、憲法第七条にはそのように書いてありますが、英語の原文と申しますとちょっと語弊がございますが、英語でオン・ビハーフ・オブとなっております、これは、国民の利益のためにとか、あるいは国民の信託に基づいてとか、あるいは国民にかわってとか、そういうような意味であると思いますが、要するに、そういう意味で国民のために国事に関する行為を行うということになっております。

また、国民主権から直接導き出されるとまでは申せませんが、国事行為について内閣がその内容の決定を行うことによりまして、国事行為が最終的に国民の意思に沿うものとなるような制度になっていると考えられます。

次に、第二でございますが、象徴制度から導かれる基準がございます。これによりまして、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」憲法四条一項でございますが、そのように定められております。

これは、天皇が象徴であるから国政に関する権能を有しないとされるのか、あるいは、国政に関する権能を有しない地位であるから象徴と称するのか。これは、いずれにいたしましても、象徴たる地位の権能として、狭義の政治、私は広義と狭義に分けておりまして、天皇が政治に全く関係ないということは、これはちょっと言いがたいのでございますが、ここで言うところの国政に関する機能を有しないという意味は、狭義の政治、すなわち、国家の統治、秩序に関する事柄であって国民の間に意見の対立がある事柄につき、その帰趨に影響を及ぼす可能性のある作用、そういう政治にかかわりを持つことは適当でないという制度になっているものと理解をいたしております。

第三に、世襲制度から導かれる基準がございます。天皇の地位が世襲のものであることから、天皇の権能、行為に関しまして直接制度化されているものは憲法上はございません。しかし、国事行為に関しまして摂政、これは憲法の五条と皇室典範の三章でございますが、それから最近も例がございました国事行為の臨時代行受任者、これは憲法四条二項と国事行為の臨時代行に関する法律の二条でございますが、これらはいずれも皇族が就任資格を有することになっております。皇室典範の十七条あるいは国事行為の臨時代行に関する法律二条がそのことを定めております。

このような制度の背景には、天皇の地位が世襲のものでありますことから、摂政の場合は天皇の名で、それから国事行為の臨時代行の場合は、天皇から委任を受けて国事行為を行う、その国事行為を行う者として、天皇の親族である皇族に限る制度となっているものと考えられます。

そこで次に、三の権能、行為のあり方と運用上の基準の問題でございまして、これを行為分類論と言っております。

行為分類論は、天皇が象徴であるための行為のあり方につきまして、従来、それぞれの象徴天皇論の立場から幾つかの行為分類論が説かれております。大別して三つありますので、まずそれを御紹介いたします。その後で、私の見解を補足的に申し上げまして、御参考に供したいと存じます。

第一は、国事行為と私的行為という二分説でございます。
本日、お手元にございます「「衆憲資第十三号 象徴天皇制に関する基礎的資料」補遺」というところに、私の書物の中から整理をしていただいたものがございますが、これをごらんいただいても結構でございます。そこの二分説は、国事行為と私的行為という二分説でございます。

これは、憲法の国事行為の規定をそのまま適用するものでございまして、純粋の憲法規範説と申してよいのではないでしょうか。しかし、国事行為の規定は、天皇は国政に関する権能を有しないという憲法上の制限に対応して定められているものでありまして、この点については、私も、国事行為の解釈適用または国事行為に関する立法論は厳格なものでなければならないと考えます。しかし、天皇は、戦後、私的行為は別といたしまして、国政以外の場で事実上象徴としての役割を果たしてきておられます。これをどのように認識し評価するかが、今日の行為分類論の大きな目標であろうと思います。

二分説につきましても、準国事行為説やあるいは憲法習律説など、補足的な修正論が出ておりますのも、二分説と天皇の行為の現実との調整から生まれたものと理解できます。

さて、第二と第三はどちらも三分説でございますが、国事行為のほかに公的行為を認めるという点で一致しております。この点で二分説とは異なります。公的行為と申しますのは、国事行為のように内閣の助言と承認を要しない行為です。しかし、なお象徴としての地位に基づく行為として評価できる行為のことであります。

ここで、第二の三分説といいますのは、国事行為と公的行為のほかは天皇の私的行為であるとする説であります。それから第三の三分説は、国事行為と公的行為以外の行為をその他の行為といたしまして、このその他の行為の中に、純粋に私的なものと、公的性格あるいは公的色彩があるものとが区別されるであろうという見解でございます。

第二説、つまりこの第三分説の一、国事行為、公的行為、私的行為に分けるのは学界の通説でございまして、第三説の国事行為、公的行為とその他の行為というふうに分ける説は内閣法制局の見解でございます。

ついでに申しますと、私は五分説を提唱しております。
これは、公的行為とされてきたものを一応、公人行為、これは公的行為でもよろしいのですが、多少紛らわしいので公人行為としております。その他の行為のうちで、象徴としての地位を背景に有しつつ私人として行う行為を社会的行為、私人としての地位で皇室を構成する者として行う行為を皇室行為、私人としての地位で純粋な私人として単独で行う行為を私的単独行為と分類いたしました。天皇の行為の実態に即して分析し、象徴性に由来する価値との関係を考察することが眼目でございます。

一々挙げられないのですが、お手元にあります天皇による行為の分類及びその概念の各行為の概念のところをごらんいただきますと、公的行為の一番右側に、君主的な側面としてこれこれのものがある。これはいずれも国事行為ではございませんが、例えば、国会開会式への行幸であるとか、認証官任命式への御臨席であるとか、各種の拝謁、国賓行事、外国訪問、国際的大会の名誉総裁就任、国家的行事への臨席、天皇誕生日祝賀行事等の主宰、社交的行事の実施、こういうのがございます。

それから、伝統的な側面では、歌会始、講書始の主宰、地方行幸中の公式行事以外の日程、福祉活動の奨励、ねぎらいの行為、災害見舞い、文化、産業の奨励、これが公的行為と言われるものであります。

その下に私的行為とございまして、私はこれを社会的行為と皇室行為に分けました。社会的行為というのは、もう少し砕けたものでございまして、例えば、個々の福祉活動、芸術鑑賞行為、宗教活動、スポーツ、音楽、文芸活動の会合や研究会等への参加、友人との会食、学校行事への参加、私的旅行、静養先での外出。

それから、こういうものはそれでは全く私的じゃないかとおっしゃる方もおられるかと思いますが、実は、これだけの活動を天皇が皇居の外へ出てなさいますと、それが象徴としての行為であるかのようにどうしても思われるわけでございまして、申しわけないことですが、そう簡単に、こっそりどこかへ出かけられるというわけになかなかいかないわけでございまして、やはり、社会的行為として評価されるのではないか。したがって、これにつきましても、費用等の点で、あるいは警護の問題であるとか、その他いろいろな準備の問題であるとか、いろいろあるわけでございまして、私がそのあたりを散歩するのとは大分違うわけでございます。

それから、皇室行為は、皇室内部の諸行事の実施、これはちょっと外からはうかがい知れませんが、そのほかに、非常に数多く行われております宮中祭祀の主宰ということがございます。

それから、純粋に私的な単独行為。これこそ外側から全く拝見できませんが、私室での読書であるとか研究であるとか芸術鑑賞であるとか、それは私的単独行為である、こういうことになります。

これにつきまして、例えば皇室費の中から宮廷費を出すか内廷費を出すか、あるいは宮内庁費を出すかとか、そういういろいろな経済的な問題もここに絡んでくる。あるいは、もっと申せば、こういうたくさんのお仕事をどういう根拠でどういう形でなさるようになってきたのか。また、これからこれがふえていくのか。また、御高齢になるにつれてこれだけのお仕事がこれから同じように続けられるか。いろいろな問題点はあると思いますが、一応、天皇のお仕事の中の性質に従って、一通り分類をさせていただいたということでございます。

そこで、あと余り時間がございませんので、最後の国事行為等について。これはまた御質疑の中でもお返事を申し上げますが、国事行為につきましては、政治と儀礼とその両面から分類したものを説明いたします。

国事行為の中で、国政に関する行為ではありますが、その実質的な決定権が天皇以外の国の機関に帰属し、その結果儀礼的なものになっている、それを並べましたのが、私のレジュメの二ページの下の方に書いてある。これは全部憲法に出ております。内閣総理大臣の任命、最高裁長官の任命、憲法改正、法律、政令及び条約の公布、国会の召集、衆議院の解散、国会議員の総選挙の施行の公示、これは参議院も入ることになっておりますが、栄典の授与、国事行為の委任。

今度は、天皇以外の国の機関による決定を天皇が認証するものがございます。これは、国務大臣等の任免、信任状等の認証、恩赦の認証、批准書その他の外交文書の認証がございます。

次に、儀礼的な性格の事実上の行為といたしまして、外国の大使、公使の接受、儀式の挙行。つまり、国政に関する行為であるけれども、それがどういう形で実際には行われているかという意味での分類でございます。

次に、具体的な儀式を伴うか儀式を伴わないかという分類がございます。
これはレジュメの三ページに書いておきましたが、儀式の有無による分類としては、まず、儀式を伴うもの、または関連儀式が行われるもの。これは、内閣総理大臣の親任式、最高裁長官の親任式、国務大臣等の認証官任命式、それから栄典の授与、勲章親授式、それから外国の大使、公使についての信任状奉呈式、それから新年祝賀の儀等の儀式の挙行というものがございます。

それから、儀式を伴わないものといたしましては、憲法改正、法律、政令及び条約の公布、国会の召集、衆議院の解散、国会議員の総選挙の施行の公示、恩赦の認証、批准書その他の外交文書の認証、国事行為の委任とございます。

これは、お手元にございます「象徴天皇制に関する基礎的資料」の中に、その具体的な方式といいますか形式といいますか、どういう形でそういうものが発せられるかという具体例が五十ページあたりから出ておりますが、こういうぐあいに二つに分けることができます。

そこで、これはまた後で申し上げる機会もあるかと思いますが、儀式を伴うか伴わないかは、これは、まだ一度もそういうことに立ち至っていない。例えば、憲法の改正というようなときには全く儀式なしでやるのかというような問題もございまして、それはまたこれからの課題でございます。

そこで、次に、こういう儀式の有無による分類ということになりますと、あるいはそうでなくても、すべて、天皇が象徴であるということの関係において、これを天皇の行為とすることに意味があるということで国事行為とされているのでございますし、それからまた、儀式や儀礼を伴うということは、国事行為の有する意義を象徴的に、あるいは可視的にといいますか、目に見える状態で示すというところに意味がございまして、国家国民の象徴たる地位との関係で重要な意味を持つものと考えられるのでございます。

これら国事行為は儀式の有無にかかわらずそれぞれの意義を有しますが、儀式を行うことによって、例えば、内閣総理大臣は、国会の指名に基づいて、国民のために、国民にかわって、国民の信託に基づいて、国民の総意に基づく地位である象徴天皇が任命するということが、国民に明らかになるという意義があるのではないかと思われます。そのほか、認証官任命式に天皇が御臨席になることや、勲章親授式や信任状奉呈式を行うことも、儀式を執行することには同様な意義があると考えられます。

そこで、最後に、象徴たる地位と国事行為等について簡単に申し上げます。

国政に関する行為の意義と評価でございますが、天皇が象徴たるためには、天皇は国の統治機構の権威の源泉、最終的な権威の源泉は国民にありまして、天皇は国民から象徴として統治機構における権威の源泉たる地位をゆだねられているというふうに考えられまして、そういう意味で、権威の源泉としての行為が重要な意味を持つことになります。

したがいまして、天皇の行為は、狭義の政治に関連することがないように注意しつつ、国の機関として、さまざまな儀礼を通じて統治機構の中で象徴としてふさわしい行為を行うべきと考えます。現在の国事行為は、そうした意味で重要な意義を持つものと考えます。

次に、国事行為の態様でございますが、天皇が象徴として、儀礼を通して、その制度が持つ意義を象徴的に示すことは、天皇の象徴としての機能を発揮するためには有意義であります。儀礼には、当該制度の意義をわかりやすく国民が理解することになるという利点があることは言うまでもありません。

これは、国民のために行われる行為が国民に十分に知られないままに行われることは、国事行為の趣旨からしていかがなものかという観点からの考えでございますが、もちろん、儀式などの執行のあり方にはさまざまな工夫も必要でございまして、知恵を出す必要があります。

最後に、象徴たる地位と公的行為でございます。

天皇の象徴たる地位については、以上のような性格を持つ国事行為のみならず、いわゆる公的行為により、天皇の象徴性を発揮することは大切であろうと考えます。こうした意義を持つ公的行為については、その時々の天皇の個性は生かされてしかるべきと考えます。ただ、天皇陛下みずからの努力だけに制度運用を頼ってよいのかという問題もありますし、内閣としてその執行に責任を負うべき点も多々あるのではないかと考えるし、それは当然なことと存じます。

その意味で、公的行為について、その意義にふさわしい制度上の位置づけは、今、法律にも憲法にも規定されていないわけでございますから、一般的な基準であるとか事務的な対応のあり方であるとかいうことを考えることは、全く不可能ではないと存じます。しかし、それには慎重な配慮が必要でございまして、具体的に公的行為の内容を法律によって限定列挙することはなじまないことではないかなというふうに考えております。

あと一分だけちょうだいしまして、行為の代行を一言だけ申し上げます。

天皇みずからが国事行為を行うことができない場合の制度として、摂政制度と国事行為の臨時代行の制度があるということでございます。

両制度の違いとして一つだけ述べておきますと、摂政は天皇の意思とはかかわりなく設置される。例えば、天皇が未成年の場合に設置される、それから、天皇が国事行為をみずからすることができないときは皇室会議の議によって設置されるということになっております。皇室典範の十六条が定めております。国事行為の臨時代行と申しますのは、内閣の助言と承認によって天皇が委任をすることができるということになっております。最近も、天皇の御病気の間、皇太子殿下が天皇の委任を受けて国事行為の臨時代行をなさったということがございます。しかしこれは、いずれも内閣の助言と承認によるものであるということは申すまでもございません。

以上、ちょうど二時四十分になりましたので、不十分ではございましたが、与えられました課題につきまして、愚見を申し上げました。御清聴を感謝いたします。

どうもありがとうございました。(拍手)

○保岡小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

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○保岡小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平井卓也君。

○平井小委員 参考人、きょうは、大変勉強になるお話を聞かせていただきまして、どうもありがとうございました。

憲法第一章に関しては、過去のいろいろな議論を踏まえても、ここにいらっしゃる政党の皆さんも含めて、多少のニュアンスの違いはあろうかと思いますが、いずれの政党においても、基本的に改正する必要はないと考えていると思います。また、天皇制は日本の国の文化であり、私は、ナショナルアイデンティティーである、また我々がこれから守っていかなきゃいけないものだというふうにも考えているわけであります。

今、皇室は、大変すばらしい求心力といいますか統合力というものも実際にお持ちのように私は感じています。ですから、基本的には、自国のアイデンティティーとして、その反省を欠いたような憲法論というのは余り意味がないのかなというふうに思うんです。

先生最初におっしゃいました、天皇は君主でもなければ元首でもない、大統領でもない、象徴だということですが、私は、個人的には、君主とは国家元首の地位を世襲する者を指して、天皇陛下は、現行憲法下においても対外的に我が国を代表するとともに、日本国及び日本国民統合の象徴としての国家の尊厳を体現しているということを考えると、また、天皇の皇位の世襲は、憲法第二条でその世襲ということが明記してあるわけですから、これは、どう考えてもやはり元首であるというふうに考えた方がすっきりするのではないかと思うのですが、御意見いかがでしょうか。

○園部参考人 私は、元首という言葉は、歴史の発展に伴いまして各国とも言葉の使い方が変わってきていると思います。

英語でヘッド・オブ・ステートと申しますが、戦前の統治権の総攬者としての天皇陛下は、これは明らかに君主、立憲君主であった。これはだれもが認めるところであります。

それからまた、イギリスのように、あれはキングダムと言っておりますが、キングやクイーンが一応元首の地位にあって、これはヘッド・オブ・ステートになっております。それで、総理大臣はヘッド・オブ・ガバメントと普通申しておりまして、その辺が区別されている。それから、アメリカの場合は、大統領がヘッド・オブ・ステートとヘッド・オブ・ガバメントを両方兼ねている。

リパブリックであるかモナーキーであるか、あるいはキングダムであるか、いろいろな国体がございますが、日本は、外国には大体モナーキーであるというふうに紹介をされております。それで、ヘッド・オブ・ステートはだれかということは余りはっきり外には出しておりませんが、元首的な行為をなさっておられること、これはもう間違いない。

しかし、国内的には、元首というよりは、もう少し広いお仕事をなさっておられるのではないか。これを元首とはっきり定めてしまいますと、今なさっておられる事柄が多少制限されることになるかなと。むしろ、象徴という基本的なお立場の中で、外国に対する代表として、あるいは国内に対するヘッド・オブ・ステートとして活動されるものがあるという理解が必要でございまして、象徴をやめて元首にしてしまうということにはちょっと抵抗を感じるということでございます。

元首であると、例えば総理大臣は元首かと言われれば、ちょっとそれは違うのじゃないかと思いますが、そういう意味で、例えば首相公選制等で大統領的な首相ができれば、これまたそちらの方の仕事、役割と天皇との関係がまた難しくなってまいります。

そういう意味で、この元首の解釈いかんによっていろいろ違ってまいりますので、従来どおりの意味で元首という言葉をそのまま使っていいかどうかという点が、ちょっと私のひっかかることでございまして、元首である側面があることについては否定はいたしません。
以上でございます。

○平井小委員 確かに、言葉の定義の問題がいろいろとこれからやはり議論すべきものでもあるかなと思っています。きょうのお話のテーマの中心でありました国事行為に関して、ちょっとお伺いをさせていただきたいと思います。

これは、さきの小委員会でも高橋参考人にもお伺いしたことでありますが、現在の象徴天皇制のもとでは、天皇は、憲法が規定する国事行為については、みずからが決定して行うものではないということであります。したがいまして、第六条及び第七条に掲げられている天皇の行為は、すべて内閣の助言と承認に基づいて行われる、受動的かつ儀礼的なものであるということになるわけであります。

しかしながら、二点目として、内閣総理大臣その他の国務大臣や人事官などの任命を承認するに際して、助言と承認に用いられる文面では、「右謹しんで裁可を仰ぎます。」との文言が使われています。通常、裁可といえば、裁可の権限を行使する者に決定権があると考えられるわけですが、これではちょっと、あたかも天皇が任命権者であるような誤解を与えるような危惧を抱くのですが、いかがでしょうか。

○園部参考人 これはもう全く言葉の問題でございまして、形として助言と承認、こういうことになっておりますから、一応助言を申し上げる。それについて、陛下のそういう助言に対する御確認といいますか、よろしいであろうということは、そこに、この文章等にあらわれる、つまり御名御璽と押すわけですから、それは、天皇の意思が、裁可の申請に対してよろしいという返事があったというふうに見ることにはなりますけれども、これは極めて形式化されておりまして、これを一々、これは裁可しないというようなことになっているかというと、それはもう全然なっていない。

また、そういうことができるかというと、これも事実上、伝統的に戦後はできないことになっている。しかし、ある日突然、そういうことについて、何か裁可を求めているんだけれども裁可しないというような天皇が仮に出てこられたとすれば、これは非常に憲法の趣旨に反するわけでございます。

しかし、今先生がおっしゃったように、そういう言葉を使うこと自体が、何か戦前の言葉をそのまま使っているのではないかということであれば、それは表現の問題でございますから、もう少し言葉を、このように助言を申し上げますとか、何かそういう程度の言葉にした方がいいという考え方はございますが、今までのところ、余りそういう議論がございません。むしろ、こういう資料が表に出てきて、なるほど、こういう形でしているのかということがわかったわけでございまして、これは、ある意味ではこの問題を議論する一つの大きな契機になるか、そのように考えております。

○平井小委員 私もそのように思います。
先ほど、二分説、三分説、五分説をお話しになりましたが、費用の負担の問題も含めて先生は五分説を主張されておるというふうに私は感じたんですが、五分説にすべきであるというその一番の理由は何でしょうか。

○園部参考人 これは、今のところは内閣法制局の案である三分説が、従来私的行為である中に、公的性格ないし公的色彩のある行為を取り上げる、特にそこに着目いたしましたのは、やはり皇室費をどういうふうに支出するかということに関連してのことでございました。そういう点では、公的性格ないし公的色彩のある行為という言葉はあいまいな面もございまして、例えば大嘗祭の問題であるとか即位の礼の問題であるとかいろいろと、どこまで国の費用を、内廷費ではなくて宮廷費その他から出すかというような問題もございまして、それはその時々に対応してきた問題でございます。

したがいまして、もう少し行為を分類して、もう少しそれに対応した費用の支出ということを考えていけば、何か事が起きたときに、そこで頭を悩ます必要もないのではないかという意味で、これは一つの提言として申し上げているわけでございます。

天皇並びに皇室の行為というのは、本来は法律でもって全部基本的に決めておくのが一番望ましいのでございますけれども、何しろ皇室典範は、多くは皇室の御家法に関する問題でございまして、実在の人物を一々念頭に置いて考えなきゃなりませんので、余り通常の法律のように抽象的な規定を置くということが非常に難しい。

しかし、それにしても、ここまで天皇の行為がいろいろあるものですから、これが無限大に広がるというようなことも困りますし、それに対して国の費用をどう出していくかということについても、ある程度の基準があっていいのではないか。その基準を考える上で、この五つの分類はある程度の参考にしていただけるのではないかという趣旨で提唱しているわけでございます。

○平井小委員 時間が来ましたので、これで終わります。ありがとうございました。

○保岡小委員長 次に、中野寛成君。

○中野(寛)小委員 民主党の中野寛成でございます。園部先生には、きょうは貴重な御意見をありがとうございました。若干の質問をさせていただきたいと思います。

先ほどの質問にもありましたけれども、元首という言葉に対するノスタルジーか思い入れかわかりませんが、今なお、天皇を元首とすべきであるという意見を持つ方はそれなりに多いと思いますが、私は、前回のこの委員会でも、元首という言葉はそろそろ死語になってもいいのではないか、こう申したのであります。

先ほど園部参考人の御答弁で、象徴としての天皇制のあり方について、大変明確にお答えになられましたので、私、全く同感だなと思ってお聞きをいたしておりました。対外的には元首的な仕事、役割をしておられる、しかし政治的に、国内的に国を代表する権限を行使しているわけではない、そのありのままの今の象徴天皇の姿を表現されたと思うのであります。

国の形というのは、例えば立憲君主国もあれば民主国もある。また、国家の経緯も、国民国家という言葉があり、また統治国家という言葉がある。いろいろな歴史と生い立ちをそれぞれの国は持っているだろうと思います。日本は、日本独自の考え方とシステムがあって何ら差し支えないというふうに思うわけでありまして、現段階においては、象徴天皇制というのは、国民の間に支持され、また定着をしている、ここに改めて象徴天皇制をその権能等の上に置いて変更する必要はないと私は思っておりますが、もし国には元首という言葉、肩書を持つ人がなければならぬ、そうしなければ不都合があるということがありましょうか。あえてお聞きをいたしたいと思います。

○園部参考人 これは、英語で言うヘッド・オブ・ステートというのがいろいろな国でいろいろな形で使われておりまして、君主制の国では、大体君主はヘッド・オブ・ステートになっている。しかし、そのヘッド・オブ・ステートが実権を握っていろいろな仕事をしている国はほとんど今ございません。むしろ、君主という名前のつかないヘッド・オブ・ステートの方がもっとすごいことをしておられるような感じもするのでございまして、元首と君主というのは必ずしも結びつかないわけでございます。

ただ、国という姿がある限り、その一番ヘッドにだれがいるのだということを考えていく上には、元首という言葉がいいかどうかはわかりません、これはまた別の言葉を使ってもいいのじゃないかと思うのですが。

我々が長年元首という言葉で抱いていたイメージというのは、どうも統治権の総攬者という感じのことが頭にこびりついているものですから、今の若い人たちが元首という言葉にそれほどこだわりがないのであれば、それはそれでもよろしいのではないかと思います。特に元首という言葉を外国に対して発信しなくても、現実にもう元首として行動しておられる部分がたくさんこの国事行為の中にございまして、それを元首とは言わなくても、日本はそれを象徴、象徴というのはちょっと非常にまた誤解を受ける言葉でございますけれども、もしそういういい言葉があれば、それに変えられても結構だと思います。

元首論の問題はちょっと私のきょうの課題とずれておりまして、十分に検討していない部分もありますが、今のところはその程度のことを考えているということを申し上げておきます。

○中野(寛)小委員 ありがとうございました。それから、皇位継承についてはきょうは余りお触れにならなかったのでございますが、先般もちょっとそのことでは議論をいたしたところでございます。

いわゆる女帝制度、是か非かという話は最近少々クローズアップされているところであります。私自身は、それはむしろすばらしいことだと。男女にこだわらない、そして長子、第一子が継承をする。これは、別の基準を設けますとまた混乱を生じてはいけませんので、単純に第一子ということでいいのではないかというふうに思っております。しかし、その場合に、この皇室、いわゆる宮家の創設だとかいろいろな、男性と女性によって今のシステムでは不都合が生じるようなことがあるとすれば、そのようなことがあり得るや否や、そしてまた、それを是正するとすればどういうことが必要かということにつきまして、お考えがあればお聞かせいただきたいと思います。

○園部参考人 これが一番また悩ましい問題でございまして、先ほども申し上げましたように、皇室典範は法律でございますから、あらゆる状態をあらかじめ想定して規定を置くということが必要ではあります。

しかしながら、同時に、戦前は皇室典範は法律でもなかったわけでございまして、天皇家の御家法としておつくりになったものでございます。したがって、今でもその皇室の御家法的な部分と、それから法律的な部分とが混在しておりまして、法律的な部分でどんどん攻めていきますと、どこかでぱたっと話がとまってしまう。それは具体的実在の人物のところでとまってしまうわけでございまして、これが非常に女帝制度といいますか、女性天皇制度の議論の難しいところでございます。

また、今ここでその話を申し上げるのが適当かどうか、その時期であるかどうかということもございますが、一般論として申し上げますと、日本の長い伝統の中で女系の天皇というのは、女性の天皇はございましたけれども、女系で天皇が続いたことはございません。女系で続くということは一体どういう意味があるかということを十分考えなければならないということが一つでございます。

それと、男系の男子ということは世襲という憲法の規定の中に当然のごとく盛り込まれているのではないかという理解もございまして、それでは男系の男子がいない場合はどうするかということで、今はたと話がとまっているわけでございますが、何分にも具体的な方々のことを念頭に置きながら議論するわけでございますから、昔で申せばまことに恐れ多いことでございまして、そういうことは余り申し上げにくい。

しかし、女性天皇論を私はいわゆる人権論からは引き出さないんです。なぜならば、天皇のお仕事というのは、これはもう大変なお仕事でございまして、これを、そういう天皇になる権利があるというような形で女性にもそれを与えるべきだというような理屈は、ちょっと憲法十四条との関係とは違うのではないかと私は思っております。

そういう意味では、天皇になるということは皇位継承者にとっては非常に重い義務でございまして、その義務を新たに女性に課するということについては、なお非常に重要な課題がございますし、それから、女性天皇になられる方のお連れ合いといいますか、皇配とか皇婿とかいろいろございますが、こういうものも華族制度が廃止された日本において、どのようにしてこれをうまく、そういう方々を見つけることができるかとか、もういろいろな問題が山積しております。

私も随分考えましたけれども、ここで数分でお話しすることは非常に難しゅうございますが、決して否定するものではございません。可能性としてはあり得るし、いろいろなその障害になることを一生懸命探すことも何もないと思います。しかし、それでもある程度、何か事が起きてから決めるのではなくて、やはり十分に議論を用意しておく必要はあるのではないか、このように思っております。

〔小委員長退席、近藤(基)小委員長代理着席〕

○中野(寛)小委員 最後の一言は全く私も同感でございまして、今現実論として、男子御誕生でないということで慌ててどうこうと言うのを、私はそれこそ恐れ多い話だろうと。むしろ、もっと一般的な時期に、日本の国、また国民の象徴としてのありようを考えてどうするかということで議論をしておくことなのではないかという気がいたします。

それから、例えば国際的にも女性の、いわゆる女王、女性の大統領、女性の首相、これはいっぱい出ているわけでありまして、むしろ、よく文学的にいいますと、女王のときには、例えばイギリスですと大変国が発展をしたといって縁起のいいことにされていたり、それもひっくり返しますと、それだけ女王のときには戦争が多かったということにもなりかねない。何か平和の女神と言うけれども、私は逆に、戦争の女神と言った方がいいのかもしれないと思うぐらいに、クレオパトラの時代から、女王とか女性の首相が出たときには、大体その国はその期間内に、任期中に戦争をしているという現象があるような気もいたしまして、これは別に男女を差別して言っている話ではないのですが。

言うならば、男であれ女であれ、少なくともその象徴であるとか権力者であるというときに、その男女の差というのはそれほどない話なのではないかという気がいたしておりまして、これからも、親王が生まれるかどうかということとは無関係に、一般論としてやはり議論しておくべきではないかという気がいたしております。

時間が来ましたので、では、今の考えについて、一言。

○園部参考人 おっしゃるとおりでございまして、準備は十分にしておかなきゃいけませんが、余り表立って議論をするということは今のところは差し控えたい、私はそう思っております。

○中野(寛)小委員 ありがとうございました。

○近藤(基)小委員長代理 次に、斉藤鉄夫君。

○斉藤(鉄)小委員 公明党の斉藤鉄夫です。きょうは、大変ありがとうございました。早速、質問させていただきたいと思います。

天皇は権威の源泉であるというお話が最初にございましたが、その権威の源泉のよって来るところが、今の日本国憲法では、まさに国民主権というところにあるということだと思いますけれども、実態としては、やはり天皇制度そのものに権威の源泉があるのではないか、そのどちらなんだろうかという問題意識で、まず最初に御質問させていただきます。

先生のレジュメの最初、統治機構の基軸、天皇制度は統治機構の基軸であった、権威の源泉であり、権力の正統性を付与する、こういう権能があった、こういうお話がございましたが、今のその御説明は、現憲法下においてもそういう性格があるんだ、こういうふうにとってよろしいんでしょうか。

○園部参考人 これはやはり、戦前の例えば明治天皇、大正天皇、昭和天皇の時代とは非常に違うと思います。

違うとは思いますけれども、この天皇制度を置いてある以上、それでは何のためにこれを置いているかという根本から考えますと、やはりいろいろな権威の源泉として、どこかでそれをまとめて、だれかがそういう、セレモニーでもよろしいんですが、そこでまとまっていく。

これは、こう言っては申しわけないんですけれども、仮に天皇制度がなかった場合にどうなるかというと、どうしても大統領制度に持っていくわけでございまして、やはり大統領は政治の権威の源泉として存在するのでございまして、アメリカは別ですけれども、大統領制をしいているところではかなり形式的なものになっております。

そういう意味では、やはり国というのは、一つの大黒柱がきちっと真ん中にあって、それでまとまっていくわけでございます。そういう意味で、権威の源泉としての働きは非常に戦前に比べると弱くはなっておりますし、およそ天皇陛下が御自分の御意思で何か政治的権威の源泉としての行動をなさるということは、これまでもなさらなかったし、これからもなさらないであろうという前提と期待のもとにこの憲法の制度を維持していくのがよろしいのではないか、こういうふうに思っております。

○斉藤(鉄)小委員 それでは、最初に申し上げた私の問題意識なんですけれども、現憲法下では、前文に、主権が国民に存することを宣言するということで、主権が国民にあることを言い、そして第一条で、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」このような構成になっておりますので、あくまでも、第一義的には、権威の源泉は主権の存する日本国民であって、そこから派生してきた、派生と言ったらちょっと言葉はあれかもしれませんけれども、第二義的な位置づけとしての象徴というふうな感じになろうかと思うんです。

先ほどの先生のお言葉は、やはりそうではなくて、私もそう思うんですけれども、天皇制度そのものの中に歴史的な背景があり、そこの中にこそ権威の源泉そのものがある、こういうふうに考えるんですけれども、現在の日本国憲法の構成との関連で、この点についてどのようにお考えでしょうか。

○園部参考人 先ほども申しましたように、あくまでも、天皇の行為は国民のためにという言葉がついております。国民にかわってとか国民の信託に基づいてとかいうことで、本来なら国民がすればいいんですけれども、一億何千万の国民がそういうことをするわけにまいりません。したがって、国民にかわって、天皇という制度が、たまたま外国にはない長い歴史を持って、統合の象徴としてその働きをなさってこられた天皇という制度があるわけですから、この天皇という制度に、ひとつ国民のために、そういう政治の源泉としての権威づけをしていただこう、そういう趣旨で天皇が存在するのではないか、このように思っております。

○斉藤(鉄)小委員 それから、これは先生には大変失礼な物の聞き方かもしれませんが、きょうは行為分類論について教えていただいたわけですけれども、大変難しかったんですが、費用をどういうふうに負担するかというふうなことを議論するときに大変大事なこととは思いますが、この行為分類論がなぜ大事かということをちょっとわかりやすく、平易に説明していただけますでしょうか。

○園部参考人 それは、これまでの分類でもよろしいんですよ。せめて国事行為、公的行為、その他の行為程度に分けておけば、その時々に応じて、宮内庁ないし天皇の御側近がいろいろ検討して、それで費用の点等々について検討するというこれまでの慣例で少しも構わないんですが、ただちょっと、公的性格があるとか公的色彩があるというときに、これはそれぞれの人の考え方によって少しずつずれてくる。しかも、昔のように、皇室令とかそういうものがはっきり決められていなくて、大体、昔の慣例に従ってやっているということでございますので、ちょっと、これだけの大きな制度を動かすのには、少し慣例その他に頼り過ぎている面もあるし、もう少しその行為を分類して、これは私の分類がいいと申し上げているのではなくて、そういうことを下地にして何か分類ができないだろうかということを申し上げているわけでございます。

もちろん、費用だけの問題じゃございません。一体、天皇陛下はどういう事柄を象徴としてなさるのが適当であるかということを、ただ、いろいろとあちらこちらから、こちらの大学から創立記念日に出てほしいとか、あちらの展覧会に出てほしいとかというような御要請があった場合に、それでは、前例に従ってどんどんやっていくというようなことを一体どこまでやれるのか、またそれが象徴たる地位にふさわしい行為であるかどうかということを、この機会にできるだけ細分化した分類論で検討する手だてといいますか基準にしてみてはどうだろうか、そういうことを申し上げているわけでございます。

○斉藤(鉄)小委員 大変よくわかりました。ありがとうございました。終わります。

○近藤(基)小委員長代理 次に、藤島正之君。

○藤島小委員 自由党の藤島正之でございます。

我が国に天皇制、本当に私はあっていいなと考えているわけですけれども、象徴天皇とその行為の内容が非常に微妙に結びついていると思うわけです。国事行為から純然たる私的行為まであるわけですけれども、あるいは、もっと、若干政治的なにおいのするものを含めてもいいのかもわからないんですけれども、その点について、今の国事行為について、きちっと憲法上書いてあるわけですけれども、諸外国の例に比して、我が国の場合、今の範囲が本当に適当なのか、あるいは、若干減らしたりふやしたりする、そういう考えもあるのかどうかをお伺いしたいと思います。

○園部参考人 少なくとも現在、国事行為として憲法に定められている行為は、どこの国でも、元首ないし君主ないし大統領等々はこういう行為はしていると思います。これをしないと、いつの間にか最高裁判所の長官ができたり、いつの間にか国会があれよという間に召集されたりといったような、何か区切りのない話になってまいりますから、そのめり張りをつけるという意味では、日本は戦後、大分ハレとケの区別がつかなくなってきておりますが、きちっとした儀式はきちっとやらなきゃいけないだろう、こう思っております。

したがって、現在の国事行為は、天皇の象徴たる地位に基づいてなさる行為としては極めて有意義なものでございまして、これを、特にこのままで、これ以上に国事行為としてふやさなきゃならないものがあるかというと、どうも私は余りそういうふうには感じません。また同時に、これを減らしてはどうかということも感じません。ただ、儀式の挙行というようなことになりますと、どこまでが儀式であるかどうかとか、これは、解釈論としてこれからまたさらに議論を詰めていかなければならないだろう。

それからまた、事実上、何か非常に不便を感ずることが皇室の関係でおありであれば、それは、ぜひ外に出していただいて、そういう議論を一緒に考えてみるということはいいのではないか。

今の国事行為と定められていることが、もう金科玉条、一切動かしてはならぬ、そういうふうには私は考えません。

○藤島小委員 天皇の行為というか立場、象徴制、あるいは元首との関係なんですけれども、首相公選制との関係なんですけれども、それはどのようにお考えになりますか。

やはり今の憲法のままでは首相公選制はできないんだという考え方もあるし、あるいは、今の憲法下でも首相公選制は十分可能だという考え方もあるわけですけれども、その辺はどういうふうにお考えになりますか。

○園部参考人 中曽根先生のおられる前で申しわけないんですが、私は、中曽根先生が首相公選論を唱えておられたころに、書物が出まして、それについて、ある外国の学者の意見を翻訳して、一緒の冊子に載せていただいたことがございます。

首相公選論というのは、非常に昔からの議論でございまして、それはそれとして大変意義のある事柄であろうと思います。ただ、首相公選論は、今の憲法のままではなかなかそれは難しいのではないかと私は思っております。

それから、公選された首相がどういう地位に置かれるのかということも十分考えませんと、これは、大統領制的な意味を持ってまいりますというと、いわゆる天皇制度との関係が非常に微妙なことになってまいります。大統領制は大体これを元首として働かせておりまして、そうすると、天皇制度はそこにどのように位置づけられるかということも含めて、憲法全体についてもう一遍機構論をやり直さなきゃならないだろう。それは、そんなことしなくてもいいよ、今の難しい憲法改正のもとでは、そんなことを言うとどういう議論もできなくなるということになりますけれども、私は、一つの考え方として、首相公選論はもっと徹底的に議論をしておいて、これが日本の憲法の本来の趣旨とどこまで整合するかということは考えてよろしいのではないかと思います。

私は、首相公選論は非常に難しい問題をたくさんはらんでおりまして、そう一朝一夕に議論はまとまらないだろう、このように思っております。

○藤島小委員 女性天皇の件ですけれども、先ほど中野委員から質問があって、考えても十分いいけれども、今早急に結論を出すことでもなかろう、こういうお話なんです。

女のお子さん一人だけの場合余り問題がないわけですけれども、その後、何人かお子さんが生まれた、男のお子さんが生まれたりしたことを考えますと、やはりきちっとしておかないといけない面があると思うんですね。前回もその議論があったわけなんですね。女のお子さんでも男のお子さんでも長子に定めちゃうということにするのかどうか、途中で何人か生まれた後で決めるとか、そういう場合、非常に、もともと教育とか何かの面で不安定な面が出るというようなお話が前回あったわけですが、そういう点についてはどういうふうにお考えになりますか。

○園部参考人 これは非常に難しい問題でございますけれども、今、現に皇位継承順位というのは男系で定められております。そして、それぞれが、万が一継承することになったらというお気持ちをお持ちになっておられると思います。したがいまして、順序としては、皇太子殿下、それから秋篠宮殿下というふうに通常は動いていくわけでございまして、まず、この順序を変えるということが果たして必要であるか妥当であるかということがございます。男系の継承順位は厳然として決まっているわけでございますから、今、皇太子殿下のお子様について議論をするより、もう一つ前に、御長男の直系でいくべきか御次男の直系でいくべきかという議論は、これは必ず出てくるわけでございまして、そういう意味で、非常に議論がしづらい面がございます。

それで、まずそういう点を除いて、とにかく今の皇太子殿下の直系で決めていくのだということを皇室典範の改正によってお決めになるということであれば、その次に、皇太子殿下のお子様の問題について、これをどういう順序で皇位継承順位を決めていくのかということになるわけでございまして、考えなきゃならない面がいろいろございますので、私はここではあえて差し控えますが、そういう点では、もっと議論を進めていくことはよろしいのですが、何分にも具体的に何人もいらっしゃる宮様のことを考えながら検討していくわけでございますので、皇室典範は法律であるといいながら、なかなかそれが公の席上でざっくばらんな議論をしにくいということをぜひ御理解いただいて、私もそのように考えておる次第でございます。

○藤島小委員 最後にもう一点。やはり天皇ももちろん大事なんですが、皇族も大変大事だと思うんですけれども、現在の制度で皇族の制度はよろしいんでしょうか。その辺、御意見を伺いたいと思います。

○園部参考人 皇族というのは、一つは、天皇のお仕事を助ける、例えば摂政であるとか臨時代行の制度であるとか、そういう準備要員を置かなければならないということが一つございます。それからもう一つは、皇位継承者を相当数確保しなきゃならないということがございます。

そこで、戦前は御承知のように随分たくさんの皇族がおられたわけでございますが、戦後、これがGHQのサジェスチョン等によりましてうんと減らされてしまったわけでございます。それよりも、もう一つ問題なのは、皇族のほかに華族がございましたが、この華族を全部廃止してしまった。したがって、皇室、皇族と国民との距離が非常に遠くなって、何をするにもその遠い間でもって議論をしなきゃならぬということもございます。

やはり皇室という存在の周りに、それを助ける人たちが戦前のようにある程度備わっておりますと、余り一々細かいことを心配する必要はなかったんですが、そういう点では、今の皇室は、非常に数も少のうございますし、また、男性の後継者も少ない、こういう状況のもとでございますので。

ただし、残念ながら、現在の状況では男子の後継者がおられないわけでございますので、このままでふやしていくということが非常に難しい状況にございます。皇族は、余りふえ過ぎるといけないというので皇族を減らすことは、もしふえ過ぎれば減らすことはできますけれども、もう少し欲しいなというときになかなかそううまくいかない、そういう面がございまして、それも、伸縮自在というわけにはいかない。これもなかなかいわく言いがたい面がございます。

○藤島小委員 ありがとうございました。終わります。

○近藤(基)小委員長代理 次に、山口富男君。

○山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

きょう参考人は冒頭に、今の憲法が、明治憲法の改正という形をとったけれども、実質的には新しく生まれた基本法である、象徴たる地位というのも新憲法の理念に基づいて規定されたものだというお話をされたんですけれども、参考人の考える新憲法の理念に基づくという場合は、大体どういう内容をもってそういうふうにおっしゃっているんですか。

○園部参考人 新憲法の理念は、あくまでも国民主権ということに尽きるのではないでしょうか。

○山口(富)小委員 象徴規定にかかわるものも、今おっしゃいましたように、主権在民の、国民主権の原理をこの分野で具体化したものだというふうに思うんです。その点では、権威の源泉としての地位を憲法規範上見ることはできないというふうに私は思うんです。

さて、もう一つお尋ねしたいのは、きょう、比較法的に、象徴たる地位というのはなかなか言えない独特のものなんだというお話もありました。それは、第四条なんかに示されている「国政に関する権能を有しない。」というところにもあらわれていると思うんですけれども、今の憲法が天皇に対して「国政に関する権能を有しない。」という厳格な規定を置いた意味についてはどのようにお考えですか。

○園部参考人 これは、新しい憲法をつくるときのいろいろな議論の中で、天皇制度を存置するかしないかということも含めて、いろいろ議論はあったと思います。しかし、日本の制度の中から天皇制度を廃止するということは極めて困難である、将来思わざる事態が生じないとも限らないということで、天皇制度を置くことになりました。

したがいまして、これはあくまでも象徴であると。象徴という言葉を探すのに随分苦労したようでございますが、イギリスのウエストミンスター条例などを参考にして、象徴という言葉があった、これは象徴がいいじゃないかということで、置くことは置くけれども、戦前の旧憲法時代の天皇とはもう基本的に違うのだということをそれこそ象徴的にあらわす意味で象徴という言葉を使い、かつ「国政に関する権能を有しない。」という言葉をここに置かないと、私は、昔の天皇制も国政に関する権能は余りなかったように思いますけれども、何か外国の人たちは非常に天皇が率先して日本を率いていたというかのごとく誤解もしていたようでございまして、そういう点から、「国政に関する権能を有しない。」ということをはっきり決めた。

この辺がちょっと、天皇制度の存在について比較法的に理解しにくい面がないとは言えないのですけれども、憲法の解釈としては私が申し上げたようなことで、国政に関する権能がないから象徴なのか、象徴だから国政に関する権能がないのか、その辺のところは堂々めぐりの議論になっているわけでございます。

○山口(富)小委員 参考人が端的におっしゃいましたように、やはり明治憲法との関係で、その再現ではないということを規定したという意味が非常に強いと思うんです。

それで、もう一点、国事行為について、きょう参考人は、国事行為の分類ということで三つに分類されております。それで、初めに、国事行為については厳格に考えるんだというお話がありまして、その点は私も賛成なんです。それで、三つの分類なんですけれども、これは、こういう形で三つに分けてしまうのではなくて、もし共通項をとるとしますと、責任を負うのは内閣である、それから行為の性格というものは形式的、儀礼的なものだというふうに理解して、共通項を見た場合に、そういう理解でよろしいんでしょうか。

○園部参考人 それは、そのとおりでございます。基本的には、まず、天皇みずから決定権がないということと、それから、多少儀礼の仕方には違いがございますけれども、それを儀礼をもってあらわす、この二つが国事行為の特徴であろうかと思います。

○山口(富)小委員 もう一点、五分説の問題なんですけれども、これは、結局、国事行為の問題で、きょう参考人が特徴づけた考え方からいきますと、純粋な憲法規範説的な考え方に立ちますけれども、憲法の規範があって、しかし現実には歴代の政権が天皇にかかわっていろいろな運用の仕方をやってきたわけですね。それだけに、これをどういうふうに現実政治の問題として見ていったらいいのかというところから五分説という議論が出てきたように私はきょうお聞きしたんです。

となりますと、こういうことはないんでしょうか。憲法のいわば解釈上の問題が運用上の基準に繰り込んでくるといいますか、私自身はそういうような印象も受けたんですが、こういう考え方について、例えば学界や参考人の周りで、こういうのは問題じゃないかというような批判とか、そういう指摘はないんでしょうか。

○園部参考人 学界はとにかく、国事行為以外に天皇はなすべきでないという考え方が基本でございますけれども、それじゃ天皇のなさっておられることを全部否定するのかというと、なかなかこれが難しゅうございまして、憲法規範説を徹底することは非常に難しい。

私の申し上げようとしておりますのは、現実論として、既にこれだけたくさんの、国事行為だけでも千何百件もやっておられる、そのほかに、毎日毎日のようにいろいろと公的行為をなさっておられるこの姿が、果たして天皇の象徴としての行為としてどこまで十分に憲法上肯定できる事柄であるかということをもう一度よく検討してみる必要があるのではないか。

天皇御自身の発意に基づいてなさっておられることもありますので、それをどうこう申し上げるわけではありませんけれども、これからの天皇によっては、健康上の問題で、それだけの精力的な御活躍ができない方も出てくるかもしれません。あるいは、非常にそういうことに消極的な天皇が出てくるかもしれません。

ですから、憲法上の問題としては国事行為に一応限っておきますが、ただ、具体的にいろいろなさっておられる方を、これを全部憲法の外側に追い出して、どうもそれは御勝手になさっているのだと言うことはなかなかできないのでございまして、これはやはり、天皇陛下がお動きになるときには、それなりの相当の費用と人員を使って動いているわけでございますから、それを基本的に整理するという方向に、整理するというのは少なくするという意味じゃなくて、秩序あるものにしていく必要があるのではないかと。これは皇室の外側にいる私の勝手な考え方でございますけれども、そういうふうに考えているということでございます。

○山口(富)小委員 私は、率直に言いまして、この五分説で考えますと、大変窮屈な生活になるなというふうに思ったんです。やはりこれは、公的な地位ですから、一種の公職ですね、それに伴う仕事というのは、憲法が定めたとおり厳格なものですから、その仕事があるということと、それ以外という区分けの方が、私は自然なものだなというふうに思うんです。

それからもう一点お尋ねしたいんですが、国事行為の問題で、国政に関する行為という用語もきょうは用いられたんですけれども、これは何か特定の考え方があるんですか、問題意識が。

○園部参考人 国政に関する行為という言葉を厳格に解釈しますと、およそ国事行為というのは全部国政に関する行為でございまして、国事行為をしていること自体が国政行為だというふうに言われる可能性があります。

それで、「国政に関する権能を有しない。」と言いながら国事行為をしているのはどういうわけだ、こういうことになりますので、そこで言うところの国政行為というのは極めて、極めてとは申しませんが、およそ天皇がかかわりを持つべきでない政治的な行為を国政行為としないと、国事行為そのものを否定してしまうことになってしまう。そこでもし国政行為を非常に厳格に解して、広義の国政行為も狭義の国政行為も全部だめだということになると、もう天皇陛下には国事行為は一切なさっていただかないようにしなければならないから、それで、「国政に関する権能を有しない。」と言う場合の「国政」を少し分けて考えることが憲法の解釈として妥当ではないか、このように申し上げたわけでございます。

○山口(富)小委員 どうもありがとうございました。

○近藤(基)小委員長代理 次に、北川れん子君。

○北川小委員 社民党の北川れん子です。本日は、どうもありがとうございました。今の話の関連からいくと、私自身もきょうは参考人が五分説を提案というか提議されたので、少し今戸惑っているわけですね。

というのも、おっしゃったように、公的行為というのは、法的根拠はないと。そして、憲法学界では、三分説さえ疑義をもたらすという声が多く、二分説で厳格にやることで象徴天皇というものをあらわしていくというふうに今憲法学界ではなっていると思うんです。

きょう、あるべき姿として五分説を出されたというところにおきますと、どちらかというと新憲法下ではない、旧憲法下に近い御提示ではないかというふうに思うんですが、その点はいかがでいらっしゃいますでしょうか。

○園部参考人 これはもう全く、北川先生のお言葉ではありますけれども、そういう反動的な意味で申し上げたのではございません。

もちろん、憲法学者というのは規範学者でございまして、正直言って、憲法をそのままに解釈していくということはこれはもう極めて、だれでもできることでございます。憲法にはこう書いてある、ああそうかと。しかし、世の中の事柄というのはそう簡単にはいかないという、私もかなり実務を経験しているものですから、研究室の中で考えているようなわけにはなかなかいかないのではないかということで、もう少し天皇のあり方というものを戦後五十年の歴史に照らして、その動き方をとにかく一遍外に出してみる、その上でさらに憲法規範説に戻るべきであればそれは戻るべきでしょうけれども、一方にそういう具体的現実がありながら、ただやみくもに国事行為以外はだめということを言っていても、結局それは、本当の意味で天皇の行為をきちっと、規範説に基づいてでも規制することができなくなってしまう。

これがやはり、いわゆる理論と実際とのギャップの問題でございまして、私は、あえてそういう問題を提起しつつ、憲法学者の言うような方向に、それでは一体どのようにして戻ることができるのか、実際にどういうふうに考えていけばいいのかということはもちろん頭にあるわけでございまして、その点はいろいろまた御教示をいただきたい、こう思っております。

○北川小委員 実務者として提案していただいたというところを御紹介いただけたんですけれども、私は一九五四年生まれということなんです。国事行為にかかわりのない私的立場の天皇は日本国及び日本国民の統合を象徴するものではない、天皇は、国事行為を行っているときにのみ憲法上の天皇だという。私自身も、一九七三年から教員の採用においても日本国憲法というものが重要視されなくなり、取り扱われなくなったという歴史などの検証をしている中でもう一度見詰め直していきますと、こういう言葉であらわされる部分の方がよりわかりやすいというふうに思っているんですね。

きょう、五分説という中から、より準国事的な行為へ移行するものの範囲が広がるというふうになると、先生は、あえて反動的なことを言っているわけではないとおっしゃったんですが、私にすれば少し、先ほどの話の中にもありました、主権在民ということを推進していくというか努力をしていくという意味合いにおいても、ここの部分というのはより一層あいまいさを次の世代に、私よりももっと若い世代にもたらすのではないかというふうに思うんですけれども、いかがお考えでいらっしゃいますでしょうか。

○園部参考人 おっしゃるとおりです。

ですから、私は、ここまで天皇の公的行為、社会的行為――皇室行為や私的行為は別としまして、公的行為や社会的行為が広がってきた、しかしそれは国民統合という意味での象徴性があるかどうか、これはもう非常に疑問でございます。それから、主権の存する国民の総意に基づいてそういう公的行為やあるいは社会的行為をなさっておられるかどうか、それも疑問でございます。

したがいまして、ここで公的行為、社会的行為と言われているものを国事行為に盛り込もうという気持ちは、現在のところはございません。国事行為は国事行為で、憲法に規定されているとおりでよろしいと思いますが、ただ、それ以外の行為について、これまでハンズオフといいますか、見て見ぬふりをするというか、それでは天皇陛下も余りにお気の毒ではないだろうか。御自分としては一生懸命になって、国民の象徴としての仕事ということでなさっておられることでもございますので、それを無視するわけにもいかないだろう。

だから、規範的には今北川先生のおっしゃったとおりでございますが、どうしてもそこの現実論との関係で、これから考えていかなければならないことがあるのではないか、そのように申し上げているわけでございます。

○北川小委員 そうなってくると、千何百年続いてきたという中からいろいろ生み出されたものがあるわけなんですけれども、よく、伝統という言葉があるんですが、伝統という言葉の中には差別という問題があります。

主権在民の中には、差別や排除というものをできるだけしないような社会を自律的につくり上げようというところに重きが置かれているというふうに私は理解しているんですけれども、なぜ次の若い世代にわかりにくくなるかというと、伝統ということは、差別を正当化するときに、すべてひっくるめて使われていくという危険性があるものですから。

先生はきょう、今の天皇のお仕事を見て、すごく大変でいらっしゃるのではないかということでの五分説の提示をしていただいたんですけれども、それはやはり象徴という言葉がもたらしてきて、象徴の中に日本国民が統合されるという趣旨を規範的に意味するものではないというのがこの憲法辞典にも書いてあるんですが、私は逆に、伝統との絡みにおいても二分説で事柄を説明していく方が、より一層憲法の趣旨に合うというふうに思うんです。

あえてお伺いすることになるかもわかりませんが、もう一度御見解といいますか、御意見をいただけたらありがたいんです。

○園部参考人 御趣旨は十分にわかります。それを理解しないわけではございません。ただ、国事行為は国事行為で憲法上の行為でございますが、それ以外を全部私的行為、御勝手になさっている行為であるというふうにしてしまうことが現実問題としてどこまで可能かということで、もしそういうふうに、今の天皇のお仕事は国事行為以外はすべて私的行為として、国民は、どうぞ御勝手におやりなさい、多少の費用は出させていただきますというようなことでいけるのかどうか。

それでいけるのであればよろしいし、しかしまた同時に、これだけの大きな予算を使って天皇制度を置いておきながら、この国事行為だけのお仕事でこれからなさっていかれるのかなということもございまして、今の御意見は、だんだんと天皇の権能をできるだけ狭めていって、できれば本当に形骸化してしまうという方向への御議論でございますが、国民がもしそういうことを願っているのであれば、またそれはそういう方向での議論もできますけれども、現在は必ずしもそうでないのではないか。

将来へ向けて、私も、何も天皇制が未来永劫に続くとか、そういうことを申し上げているのではございません。今の国民の総意として、これは別に国民投票とかそういうことでなくて、認められている範囲でなさっていることについては、それなりの後押しをしていくのがよろしいのではないか。将来だんだんと北川先生のおっしゃるような方向に行く可能性もそれはあるかもしれません。これは若い人たちの考えることでございますから、私からは何とも申し上げられませんが、旧憲法から新憲法へ、新憲法のまた先へと、いろいろその歴史が変わっていく中で、どういう天皇制のあり方が最も望ましいかということはこれからの大きな課題であろうかと思います。

○北川小委員 時間も参りました。本当にきょうはどうもありがとうございました。

○近藤(基)小委員長代理 次に、井上喜一君。

○井上(喜)小委員 保守新党の井上喜一でございます。きょうは、園部参考人、本当にありがとうございました。

よく、天皇は元首であるかないかというようなことが議論されまして、きょうもそんな質問が出たのでありますが、私は、元首的権限を行使しているのは総理大臣じゃないかと思うんですね。天皇というのはその上にありまして、この憲法で定められた権能を行う、あるいはそれ以外に、天皇の地位としてふさわしい行為ですね、これは、まさに日本の象徴としていろいろなことを天皇が行う、こんな存在じゃないかと私は思っているのであります。参考人の意見に割かし近いのかなという感じもするんだけれども、あるいは若干離れているかもわかりませんけれども、私はそんな感じを持つものでございます。

そこで私、二、三問お聞きしたいんですが、一つは、憲法上の天皇の権能ですね。これは、内閣の助言と承認によりまして国事行為をすることができるのでありまして、それ以外の国政の権能というのはないわけなんですが、この国事行為をするのは、現実の行為としてはもう内閣の助言と承認そのままでやっておられると思うんだけれども、覊束的な行為だとは思うのでありますけれども、多少の裁量の余地のある行為なのかどうかということを、現時点は問題ないんだけれども、法律上はそれはどういうぐあいに解釈すべきなのかというのが一つです。

それからもう一つは、天皇の辞任の問題であります。今、大体、天皇の即位から崩御までずっと天皇が即位をしておられる、こういうことでありますけれども、天皇という制度は、制度であると同時に、やはり非常に属人性の強い制度でありますから、余りそういうことを議論するのは適当でないというようなことで、おおよそ辞任のようなことが全く省かれている、こういうことなのか、あるいは、もっと進んで、そういう規定を置くことの是非についてどんなふうにお考えかというのが第二点です。

それから第三点は、この憲法の第一条、これは非常によくできた規定だと私は思うんですね。本当によく考えて、よく表現をされた規定だと思うのでありますけれども、参考人は、こういう天皇の地位につきましてはいろいろとお考えになってこられた方だと思うので、もっといい表現があるとするならばどんな表現があるのか、そういうことをお考えになったことがあるとすればどんなことをお考えになったのか、お聞かせいただきたいと思います。

○園部参考人 まず、元首というのは英語ではヘッド・オブ・ステートと言いまして、先ほども申し上げましたけれども、例えばイギリスでは、ヘッド・オブ・ステートは、これはやはりクイーン・エリザベスである。それから、ヘッド・オブ・ガバメントがブレア首相である。ヘッド・オブ・ステートというのは、ある意味では極めて形式的、飾り的存在であるように最近はなっておりまして、やはり一番力を持っているのは首相であるとか、そういうヘッド・オブ・ガバメントが力を持っていて、外に出ていろいろ活躍される場合でも、ヘッド・オブ・ステートが出てくる国もあれば、ヘッド・オブ・ガバメントが出てくる国もある。それは国によっていろいろ事情が違います。

天皇陛下の場合は、そういう意味で、今先生がおっしゃったように、ヘッド・オブ・ステートよりももうちょっとお飾り的要素が強い。しかし、それを一体何と呼ぶかという問題がございまして、なかなかその辺が難しいことだなというふうな感じを抱いております。

それともう一つは、昔は京都に天皇陛下がいらっしゃったわけでございまして、まさに、東京のど真ん中にいらっしゃる場合と京都にいらっしゃる場合とでは、天皇へ対する認識というのが大分、戦前の、戦前というか徳川幕府時代までの天皇に対する国民の考え方と現在の国民の考え方では大分違ってきているんじゃないか、こういうようなこともやはり考えざるを得ないと思います。

そこで、退位の問題でございますが、これについては、天皇には定年がない。定年がないということはいい面と悪い面とございまして、これは天皇陛下のことを申し上げているわけじゃないんですけれども、定年がないと、やめてもらいたい人になかなかやめてもらえないということがございます。それから、どんなに元気な人でも、定年があれば、それを理由にして、自分は定年だからやめたんだ、こういうことが言えますが、それがないと、周りからも言いづらいし、本人からも言いづらいということがございます。

定年制度と退位の制度とは同じような意味合いがありますが、歴史を顧みますと、かなり政争の具にこの退位制度が使われたことがございまして、しかも、退位された後のほかの仕事といいますと、名誉天皇というのがあるかどうかわかりませんが、昔は、上皇とかそういう形でいろいろと権力を振るわれた天皇もございますので、その辺の関係が非常に難しくなるだろう。そこで、ある程度お仕事ができなくなってきたという場合は、摂政の制度もございますし、また臨時代行の制度もございますので、当分はそれで何とか賄っていく方が余計な波風を立てなくていいのではないかということでございます。しかし、これも、これから先のことはなかなか予測ができません。

〔近藤(基)小委員長代理退席、平井小委員長代理着席〕

それから、憲法第一条は、これはもうまさにこの憲法の起草者が頭をひねってつくられた言葉でございまして、まず「天皇は、」と来ていることは、既に存在する天皇を確認しているわけでございますね。天皇という制度をつくって、そこにどこからか天皇を連れてきて、これを象徴とするという意味ではないわけでございまして、その点が、日本の憲法のこの規定の極めて、先ほども問題になりました、長い伝統との関係でつくられているちょっと変わった規定ではあるんですね。天皇というのは当然のごとく国民が認識している、その天皇は日本国の象徴なんだ、そういう規定になっているのでございまして、この長い伝統があるよしあしは別として、長い伝統のあるそういう皇室制度のもとでの憲法の規定としては、第一条は、ちょっとこれ以上のことは書けないかなというふうに考えております。

〔平井小委員長代理退席、小委員長着席〕

○井上(喜)小委員 終わります。

○保岡小委員長 次に、森岡正宏君。

○森岡小委員 私は、自由民主党の森岡正宏と申します。きょうは、園部参考人、いいお話をありがとうございました。

先ほど来お話が出ておりますように、天皇制が果たしてきた役割、私は高く評価している方でございまして、山口委員や北川委員とは全く逆の方でございまして、天皇制が果たしてきた役割は、この日本の国柄をつくる上で非常に大きい役割を果たしてきた、したがって、未来永劫、天皇制が続いてほしいな、そういう立場からお話をさせていただきたいと思います。

まず一つは、先ほど参考人が、五分説に立って、今の天皇が大変いろいろな仕事をしてくださっている、国事行為ほか、五分説、聞いておりますと、いろいろな多くの仕事をしてくださっているというお話がございました。

そういう意味で、憲法第四条を見ましたら、「天皇は、」「国事に関する行為のみを行ひ、」こう書いていますね。「のみを行ひ、」というこの「のみ」というのは外した方がいいんじゃないか、私はそう思うわけでございますが、いかがでございましょうか。

○園部参考人 これは、あくまでも「国政に関する権能を有しない。」という規定との対比でつくられておりまして、国政に関する権能は一切ない、この憲法の定める国事行為は、国政に関する権能ではないが、天皇として公にすべき、国家機関としてすべき仕事を七条に列挙している、あるいは六条に規定しているということになるかと思います。

この「のみを行ひ、」というのを外すということは、私の申し上げている意味での公的行為、社会的行為ということを憲法に盛り込むというのとはちょっと違ったニュアンスもございまして、この規定そのものはこれでよろしいのではないか。つまり、それは、「国政に関する権能を有しない。」ということを強調するために、この「のみ」が入っているわけでございます。ただ、ほかの言葉を使うことはできるかと思いますが、この「のみ」に非常にこだわられるとすると、それはひとつまたお考えをいただきまして、私としては、この規定はこれでも、別にこれ以外は何もできないということではないと思います。

○森岡小委員 わかりました。次に、私は、いわゆる宮中祭祀、これについて御質問を申し上げたいと思います。

先生の分類でも、皇室行為という形で第四分類に入っております。また、三分類に分けておられる方は、これは私的行為だというふうに規定しておられる。ところが、私は、少なくとも大嘗祭などはむしろ国事行為として扱うべきじゃないか、そんなふうに思うわけでございます。

昭和天皇がお亡くなりになりまして、そして今の今上天皇が即位された。そのときに、政府の見解では、大喪の礼と即位の礼は国事行為だ、葬場殿の儀と大嘗祭は宗教的儀式だというくくりをされたわけでございます。

ところが、この即位の礼と大嘗祭の関連の訴訟の判決を見ましても、これは平成七年に大阪高裁で出ている判決でございますが、「大嘗祭が神道儀式としての性格を有することは明白であり、国家神道に対する助長、促進になるような行為として政教分離規定に違反するのではないかとの疑義は一概に否定できない」と述べています。また、「即位の礼も、大嘗祭と同様の趣旨で政教分離規定に違反するのではないかとの疑いを一概に否定できず、また、その儀式には国民を主権者とする現憲法の趣旨にふさわしくないと思われる点がなお存在することも否定できない」、こう書いているわけですね。

しかし、いわゆる天皇家がお祭りをしている祖神というものを宗教という形で認めるのか、私は疑問を持っているわけでございまして、明治以降、国家管理のもとに置かれた、軍国主義と結びついて理解されてきたいわゆる国家神道と、古来から天皇家でお祭りしている祖神とは全く違うものではないか、そんなふうに思うわけでございます。

御承知のとおり、昭和二十年の十二月十五日に占領軍によって神道指令が発令されて、国家と宗教の分離が図られた。新憲法のもとで、象徴天皇は国政に関する権能を有しないという存在となったわけでございます。

そんな中で、大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから根づいている収穫儀礼、そして国家安寧と五穀豊穣を感謝する、そういう儀式だ。そういうことを考えると、この日本の文化的伝統行事、天皇家にとっても非常に重要な儀式であると同時に、日本国全体にとっても非常に大きな儀式ではないか、そんなふうに思うわけでございます。一宗教に特権を与えるというような性格のものでもございませんし、天皇家の祖神というものは宗教と言えるものではないんじゃないか、日本の、我々の日本人の精神的支柱と言えるようなもので、国の大事な儀式として、これは少なくとも、私的行為などという形で片づけていいものだろうか、そういう疑問を持っておるわけでございまして、国事行為という形で、憲法を改正したときにきちっとした地位を与えられるべきだ、そんなふうに思うわけでございますが、参考人の御意見をお伺いしたいと思います。

○園部参考人 これも非常に難しい問題でございまして、言葉を一つずつ選んで申し上げないと、いろいろと誤解を招くわけでございます。

私も、宮中祭祀というものの存在については、非常に長い伝統のある事柄であるということと、国家神道として一時国が管理していた神道と基本的には違う面もあると。しかし、どうも、靖国神社等々、宗教法人になりまして以来、神道というのは、仏教やその他のキリスト教などと同様に、一つの宗教として国民が理解している面もございます。同時にまた、鎮守の森のお社というようなことで、余りそういうことを考えないで、長くから自分たちの歴史に根づいた、一種の自然宗教でもございますが、そういう形で受けとめている人たちもおります。

ですから、これは国民によってそれぞれ受けとめ方が違いまして、例えば、初もうでであるとかその他、七五三であるとか、そういうときに、一々宗教の意味を考えながらやっているわけではなくて、一つの習俗として行っているという面もございます。ですから、これは国民によっていろいろな考え方は違うと思います。

それから、天皇家の宗教としてそれではいわゆる神道的祭祀だけであったかといいますと、それは、徳川幕府のころには、京都に泉涌寺というお寺がございますが、そこにたくさんの天皇ないし皇族のお墓がございまして、仏教との関係も非常に強いものがあった。したがって、これも歴史のそれぞれの時代のそれぞれの天皇家のあり方によっても違ってくるわけでございまして、一概に天皇家と祭祀とがすべて密接に結びついているというふうに規定するのもなかなか難しいであろうと思います。

殊に明治以後は、天皇がいわば大祭司として神道について非常に強い関心と行為をなさってこられたことを、これ自体は否定できません。しかし、そのためにそれが何か誤解を受けやすいことになっても困るので、その辺のところは、やはりよく国民に理解をしてもらう必要があるのではないか。

この点がちょっと私の今はっきりとお答えしにくい面でございますが、現にかなりの時間を祭祀に使われている天皇とされては、果たしてこれが国民の象徴としての行為としてされているということを国民が認識しているかどうか。そうでないとしたら、全く私的な、どなたのお宅にも仏壇と神棚はあるわけでございまして、それの大きいのが宮中三殿だ、こういってしまうと、それにしてもやはり相当の費用と手間をかけて維持しておられる、これが全く皇室の私的な行為であるというふうに押し込めてしまうのも困りますし、そこで私は、現実体としての皇室における祭祀のあり方をもう少しクローズアップさせて、それを十分に検討する必要があるのではないか、そういう意味で皇室行為の中に入れている、そういうことでございます。

○森岡小委員 ありがとうございます。

アメリカでは、大統領の宣誓をされるとき、キリスト教の儀式にのっとってやっておられる、アーメンと。そういうこともやっているんだから、日本だって、戦後、占領軍によって宗教法人というもの、靖国神社だってそう決めつけられた。私は、国家神道と軍国主義を頭に置いた亡霊に余りにもおびえ過ぎているんじゃないか、そういう気がしてならないわけでございまして、憲法改正を頭に置いて、憲法のために日本国があるんじゃなしに、日本国のために憲法があるんだという考え方で私たちは処していかなければならない、そんなふうに思っているわけでございます。

時間が参りましたので、終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

○保岡小委員長 次に、伴野豊君。

○伴野小委員 民主党の伴野豊でございます。園部先生におかれましては、本日は、お忙しい中お越しいただき、また貴重なお話を賜りました。本当にありがとうございます。

そうした中で、幾つか時間の許す限り質問をさせていただければと思うわけでございますが、まず一点目は、権能、行為のあり方ということで、レジュメの二枚目に象徴の積極性と消極性ということをお書きになっていらっしゃいます。先生の著書の中にも、現行の憲法下において、いわゆる権能付与的規範プラス消極的象徴、いわゆるネガティブルールみたいなことで規定されているというお話と同時に、可能性として、積極的象徴、とりわけ、天皇は象徴であり続けるためにこれこれの行為をすべきであるという規定をするのが積極的な行為規範というような表現をお使いになっていらっしゃいます。

私も、先生のここで書かれているように、現在の権能付与的規範プラス消極的象徴、いわゆるネガティブルール的な規範の方がいいのではないかと思うわけでございますが、あえて、天皇は象徴であり続けるためにこれこれの行為をすべきであるという積極的な行為規範が考えられるとしたときに、象徴的機能を果たす場の用意が必要であるとお書きになっていらっしゃいますが、例えば具体的にどんな場を想定できるのでしょうかというのがまず一点目の質問なんです。

○園部参考人 私はあえて天皇の君主的な側面と伝統的な側面という言葉を使っておりますが、他国では君主がされるようなことを、日本でも天皇がなさっておられる面がございます。

決して天皇を君主だと申し上げているのじゃなくて、君主的な側面からそういうことをなさっておられるものについては、ある程度基準を設けて、国事行為ではないけれども、こういうところにお出ましになるとか、こういうところに行幸されるとかいうようなことが、ある程度の基準があっていいのではないか。そうでないと、これは国民の要望によってやたらにふえまして、こちらに行ったから、こちらに行かないというわけになかなかいかない。そういう意味で、やはり、少し制限的に、バイ・ローといいますか、結局、皇室典範とかそういうものではっきり決めるのではなくて、そういうことがあっていいのじゃないか。

それから、いろいろな伝統的な側面、歌会始、講書始等々の儀式もございますが、これもかなり国民的な関心のある事柄でございまして、こういうものも、いわば象徴としてこういうものを主宰されることによって、日本の伝統的な文化である和歌であるとか、あるいは学問をいかにして、大体天皇は学問の歴史が非常に長いのでございますが、学問というものを尊重するという国の雰囲気をずっと続けていくためにも、そういうことが何らかの形で公的行為として認知されればよろしいのじゃないか。ただ、あるものをそのまま認めるというよりは、もう少し表に出してもいいのかな、そういうことを考えたわけでございます。

○伴野小委員 ありがとうございました。
続いて、同じ権能、行為のあり方と運用上の基準というところでまたお聞きしたいんですが、幾つかの行為分類をされているわけでございますけれども、私は、その中で、行為というものは、主体からの分類と同時に、行為の受け手といいますか対象からの分類もあってしかるべきではないかなと考えるわけでございます。

とりわけ、時代とともに見直していく中で、よく一般の人間関係でも、自分はそうしたつもりでも相手が受けとめていただけなければそれはコミュニケーションが成り立たないということからするならば、やはり、象徴、シンボリックな存在であるということからすれば、例えば国民がどう受けとめるか、世界がどう受けとめるかという分類のあり方もあっていいのではないかなと思うわけでございますが、そのあたりはいかがでございましょうか。

○園部参考人 どういうふうに段階をつけていくか、その公的行為の重要性ということについて段階をどうつけていくか、これは非常に難しい問題でございますですね。これは、比較法的にももう少し研究をしていかなければならないと思います。

ただ、私は、あえてこの席で申し上げたいと思いますのは、どうも、昔の宮中席次ではございませんが、天皇に近いほど何か上の方であって、遠ざかるほど下であるというような、そういう感じで国民が受け取ると、これは天皇の象徴的な意味が非常におかしくなってくる。だから、決して天皇というのは階級制の最上位にあるのではないということを、もう少しいろいろな形で、天皇陛下御自身も盛んにそういうところは気を使っておられると思いますが、そういう点で、公的行為の段階づけ等についてもそういう角度から考えていく必要があるかな。今の御質問にはちょっとお答えになっていないかもしれませんが、そういうふうに感じております。

○伴野小委員 ありがとうございました。
三点目なんですけれども、先ほど来からも、先生のお話の中でも、天皇のいわゆる国事行為だけでも大変なお仕事だ、私もそう思います。

そう思うだけに、例えば、先ほど積極性というお話がございましたが、天皇は象徴であり続けるためにこれこれの行為をすべきであるというようなことを規定し出すようになると、これは本当に幾つ体があっても大変だ。ですから、逆説的にとらえた場合に、あえて公的職業としての象徴天皇のあり方、可能性というものをいま一度すっきりとした形でやった方が、行為をされる側からする場合にはいいのではないかな。健康上のことも含めて、その方がいいのではないかなと私は思うんですが、そのあたりはいかがでしょうか。

○園部参考人 それは、結局、それぞれの天皇の御性格、それから象徴についてのみずからの御認識等々によって変わってくると思うんですね。

ですから、余り天皇の御自由な御意思によって動かれるというよりは、ある程度の参考基準、これはもう既に宮内庁等では頭の中にあるわけですけれども、それをもう少しはっきりさせておいて、これは非常に重要な問題であるという認識を国民とともに共有されるということが必要ではないか、こう思っております。

○伴野小委員 ありがとうございました。
最後に、これは先ほど平井委員からの御指摘というか質問の中にもあったことと重複するかもしれないんですが、いま一度あえてお聞きしたいんですけれども、いわゆる国事行為について助言と承認という言葉がございます。

先ほど先生も、言葉のことだというお話もあったわけでございますが、内閣の助言という表現は非常にわかりやすい。事前にいろいろアドバイスをするといいますか、そういうとらえ方。

しかし、承認という、逆説的にとらえると、承認しないということはあり得ないだろうというようなことからすると、この言葉も必要ないのかなと思うんですが、そのあたり。具体的に、どちらかというと、要するに、助言をして、なされている行為は、それと同時に承認をされているんだというみなしで考えないことには、後でこの行為を承認するとかといって、否認はできないだろうということなんですが、このあたりはいかがでしょうか。最後に質問させてください。

○園部参考人 それは言葉のあやの問題でございまして、やはり、承認という言葉があって初めて格好がつくわけですね。というのは、必ず内閣が責任を負いますよ、承認した以上は責任を負います、だから、もし何か事があった場合は、天皇に責任があるんじゃなくて、内閣に責任があるんだと。

それから助言というのも、結局は、別に何かを、天皇がなさっていることに対して助言するんじゃなくて、内閣からそういう発案をして、そして最後に天皇がなさったことについて承認をする、そういうことですから、言葉としてはそれでいいのじゃないかな。

ほかにどういうことがあるかなといいますと、助言は、助言しっ放しで、あとはもう知らないというのもおかしな話ですから、私は、この助言と承認というのは一つの言葉として受け入れられるとは思いますが、なお検討して、いいお言葉があれば、それはもちろんこういうのは幾らでも改正できる問題ではないかと思います。

○伴野小委員 ありがとうございました。

○保岡小委員長 次に、近藤基彦君。

○近藤(基)小委員 自由民主党の近藤でございます。私で最後でございますので、大変長時間ありがとうございました。もうしばらくおつき合いをいただきたいと思うんです。

きょうは国事行為についてということではあったんですけれども、継承問題で若干、お触れになった先生もいらっしゃいますので、私も少しだけ。

天皇とお生まれになってというよりは、皇位継承としてお生まれになった男系男子の皇長子という話になりますかね。一般教育だけでは、天皇としてふさわしい人格といいますか、象徴としてお育てになるわけには多分いかないんだろう。しかし、一般家庭教育とはまた違うんだろうと思うので、あえて天皇教育ということになるのかもしれませんが、やはりそれは特別なものを必要とするのかなと思うんですが、その点について、どうでしょう。

○園部参考人 これは、従来の経緯を拝見しますと、必ず、大体小学校に入るころから、そういう自覚と認識を持っていただくという意味で、いわゆる傅育といいますが、傅育というのは、そのそばでいろいろとついて、小さいときからいろいろと教育をされる、また成年に達するころにはしかるべき学者やその他、昔は軍人などもいたようですが、そういう人たちがそばにおつきして、いろいろと、故事来歴から天皇としてのあり方について、常時御進言を申し上げるという制度になっていたようでございます。

ただ、今はそういう、仮に天皇の候補者であるとしても、やはり一家庭のお子様であるので、余り最初から難しいことでいろいろ縛るということは、これは恐らく皇室の皆様も余りお好みにならない面もあるかもしれません。

ここは双方の了解のもとに議論をしていかなきゃいけませんが、やはり昔の天皇と違いまして、そんなに格式張った形でお育てしなくても、自然に天皇としての雰囲気を身につけていただければいいのであって、そういう教育のあり方というのはこれからひとつ考えていただければいいかなと私は思っております。

○近藤(基)小委員 さりはさりとて、男系男子で皇長子、例えば今の皇太子殿下、やはりある程度生まれながらにして御自覚もあるでしょうし、そういうところでお生まれになって、一般社会でいえば跡を継がなければいけないという、そういった責任感も出てこられるだろうと思うんですが、このままでいくと、先ほど個人的な部分に入ってしまうのでなかなか論議がしにくいという話でありましたけれども、敬宮愛子殿下というか、愛子様が大きくなられてくるとして、このままでいけばという状況の中で、やはり、もし愛子様以外にいなくなった、いなくなったというか、こういう話は余りすると悪いのかもしれません、先ほど、昔なら不敬罪だという話もあったんですが。しかし、現実的に考えれば、そう待たずに、そういった御自覚と、そういった多少の一般家庭以上のやはり天皇家としての御教育が必要になってくる時期が出てくるような気がするんですが、余り時間を置かずにそういったものを決めていかざるを得ない時期が、そんなに遠くない時期に来るんではないのかなという気が実はしているんですけれども、その点は、先生、どうお考えですか。

○園部参考人 そういうことは先ほど申し上げたとおりでございますが、具体的実在のお方を想定しながらお話しすることは非常に難しいのですが、皇室典範の規定を議論するときは、かなり抽象的に、かつ、あり得るであろうことをすべて想定して議論はしなければならないと思います。

今おっしゃった点は、少なくとも女性天皇を認める、あるいは女系を認めるかどうか、こういう大きな問題もございますが、そういうことについて十分議論をするということは、ある意味では非常に急がれる問題でもありますけれども、さりとて、そんなことを先にいろいろ議論するということがまた差しさわりになる場合もございまして、余り公の席でないところでいろいろと考えている方々もおられると思いますけれども、それをひとつ、十分に議論したものを、そしてだれから見ても合理的だと思われるようなものを俎上に出してそれを議論する。余りそのときそのときの思いつきで右やら左やら上やら下やらからいろいろなことをおっしゃると、結局まとまりのつかないものになってしまうのじゃないかな、そういう感じがいたします。

○近藤(基)小委員 ちょっと、きょうは、国事行為ということでありましたので、そちらの方に戻させていただきますが、天皇陛下が国会を召集するというのはこれは国事行為でありますが、国会に行幸なされてお言葉をということになりますと、先生の分類では公的行為の範疇に入るんだろうと思います。

かつて、お言葉が論議を呼んだことが、かなり昔でありますがありまして、昭和二十六年の十二回国会で、戦争が終了して平和条約の調印が成って喜びにたえないという発言、これが一部の政党から政治的な発言ではないかという話がありましたけれども、こういった発言については、参考人はどうお考えでしょうか。

○園部参考人 お言葉は、すべて側近ないし宮内庁の方で妥当かどうかということを一応検討して発表されるわけです。ただし、天皇陛下御自身も、お言葉の使い方等々については恐らくいろいろと御意見をおっしゃっていると思います。

したがいまして、これは、ありとあらゆる場合を想定して、国会の席上で天皇がこれを読まれることがどういう効果をもたらすか、殊にこれからの非常に切迫したような状況のもとで何か差しさわりのあるようなことになるのではないかということになりますと、私が申し上げている、そういう意味で公的行為であって、国事行為ではございませんので、できるだけ形式的で、余り実質的でない、一種の本当の意味のあいさつ、祝辞というような方向へ行った方がいい場合もあるのではないか。あえて私見を申せばそういうことでございます。

○近藤(基)小委員 いわゆる国事行為は内閣が責任を持つということになっておりますが、その公的行為の部分、例えば今のお言葉のようなときとか、あるいは公的性格ないし公的色彩のある行為といったところで、実際に例えば問題が発生したときに、やはり内閣が責任をとるという考え方でいいんでしょうか。

また、その責任のとり方の問題なんですが、責任をとる、とるという話は出ているんですが、どういう形の責任のとり方があり得るのか、考えられるのか。もしお考えがありましたら。

○園部参考人 天皇が非常に私的な行為で何らかのちょっと粗相をされた、それによって損害が生じたというような場合は、これは天皇の個人的な問題ですから、その責任を基本的に問う場合もないとは言えないと思いますが、少なくとも、公的行為なり社会的行為で行われた事柄については、全く御自身の意思だけでなさっているということは非常に少ないのでございまして、殊に発言は大変慎重になさっておられると思いますが、万一それによって、何かの弊害が生じたとか、故障が生じたという場合は、これはやはり国の方でそういう事柄についてカバーしていく。

これは別に憲法上の行為ではございませんから、責任問題ということになるとなかなか難しいんですが、少なくとも、天皇を補佐されておられる機関は、その行為の結果が非常に重大なことになった場合には、その責任はやはり問われることになるであろう、それを天皇お一人にのみ負わせるということはできないことではないか、こういうふうに思っております。

○近藤(基)小委員 どうもありがとうございました。

○保岡小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。この際、一言ごあいさつを申し上げます。園部参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

―――――――――――――

○保岡小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。

○奥野小委員 きょうの応答を見て、二つのことについて、私なりの意見といいますか希望といいますか、そういうことを申し上げさせていただきたいと思います。

参考人に対する質疑の中で、参考人が、象徴天皇制を中心とする現憲法の中心はどこにあったかというような意味合いのお尋ねだったんじゃないかなと思うんですけれども、国民主権、こうおっしゃいました。これは誤解を与えるんじゃないかなと思いますし、私の記憶があるいは間違っているかもしれませんので。

私は、マッカーサー総司令部が日本の天皇をイギリスの天皇を頭に置いて改正しようと考えた、こう伝えておられるし、それが本当じゃないかな、こう思っているわけであります。しかし、ヘッド・オブ・ステート、元首と書くことをスタッフに求めたのに対して、それじゃ明治憲法と同じように受け取られるからということで、今の象徴の言葉が出てきたと。それに対しまして、極東委員会のソ連が総司令部に対しまして、この地位は国民の総意に基づく、その「国民」の上へ「主権の存する」という言葉を入れるべきだという主張を強く言うた。極東委員会はマッカーサー総司令部の上にある存在でございますので、日本側の憲法論議の中における修正という形でその言葉を入れられぬかということを求めた。結果的なその修正に応じて、「主権の存する」ということを憲法審議の過程で入れたものだと思います。

やはりこの事実を明らかにしておいた方が、この委員会でも起こっておりますように、天皇の地位が不明確だ、やはり元首という言葉を入れるべきだと。私のように元首という言葉を使うか使わないかは別にして、国民を代表する地位にあるという意味合いの言葉を入れるべきだ、こう私は言っているわけでございます。

そんなこともありますので、事務当局の方で、国会審議の経過を調べればわかることでございますから、ぜひ正確な経過を教えていただくようにしたい、これが一点であります。

もう一つは、応答を伺っておりまして、やはり伝統というものは差別発言を正当化するというお言葉がございました。ああなるほど、そうなのかなと思いながら、私は、もう何を言うてもすぐ差別と決めつけられるので、大変に不自由な世の中になったな、しかし人権は大切だし用心をしなきゃならないなと思っているんですけれども、伝統が差別発言を正当化すると言われてみれば、なるほど天皇制を廃止する主張をしておられるところもあるから、そういうこともあるのかな、こう思ったりしたわけでございます。

昭和天皇は亡くなり、大喪の礼をどう行うか、そして今の天皇が即位されて即位の礼をどう行うか。宮中の伝統が、憲法の規定の「国及びその機関は、」「いかなる宗教的活動もしてはならない。」あれから消されてしまうんじゃないかなという、多くの方々が心配されまして、私のところへもおいでになりましたから、内閣の事務の最高の地位にあるのが官房副長官でございますので、石原君によく話を聞いてくれやと言って聞いてもらいまして、そして、それぞれの行為を天皇家の行為と国事行為とに仕切ったわけであります。それで、天皇家の伝統的な行事を残すことができてよかったなと私は思っているんですけれども、伝統が差別発言を正当化するなんというような意見が出てくるということになりますと、やはり憲法の「国及びその機関は、」「いかなる宗教的活動もしてはならない。」という乱暴な、あれは私は神道をつぶすための底意があってああいう規定になったんだと思っているわけでございます。

国家神道や神社神道は内務省の神社局の所管であり、宗派神道は文部省の宗教局の所管でございました。しかし、国家権力が神道に及び過ぎていた、その弊害はあったと思います。ありますが、いずれにいたしましても、新しい憲法をつくるときには、この辺につきましてはいろいろな周到な配慮が必要だな、何かこれはちゃんとした規定にしておかなければ、また災いを将来に及ぼすな、こんな気持ちを持っていることを申し上げさせていただきます。

○島小委員 きょうは天皇の国事行為、第七条でございますので、私も第七条に関する意見を二点申し上げます。

第七条の第四項の「国会議員の総選挙の施行を公示すること。」とあります。この「国会議員の総選挙」、衆議院の総選挙じゃなくて国会議員の総選挙というふうになっていますのは、これはよく言われる話でありますが、制定過程、ばたばたしていたのでうまく整理できていなかったんじゃないかというところがあります。それが本当にそうなのかどうか、きちんと議論して、ここは国会議員の総選挙ということが本当にこのままでいいのかどうかということはきちんとするべきだと思います。

それから、第二点でございますが、衆議院の解散であります。
この衆議院の解散というのは、きょうの参考人のお話で、国事行為の分類では国政に関する行為であるが、その実質的決定権が天皇以外の国の機関に帰属し、結果、儀礼的な行為となっているものというのがあります。

憲法においては、御存じのように、六十九条において、不信任案が可決されたか信任案が否決されたときじゃないと解散はできないという話になっていますが、現在、皆さん御存じのように、実質は、内閣がその時々考えて解散をするわけであります。

これは極めて政治的な問題であります。極めて政治的な問題でありますから、この極めて政治的な問題を衆議院の解散、これはつまり、国会と内閣というのはいつも対立行為であるので、だから内閣が独自に解散をするということまではきちんと憲法にうたってなくて、天皇の国事行為としてやるということは、これからきちんと議論していくといろいろな問題が出てくるような思いがいたします。

したがって、この第七条の第三項である「衆議院を解散すること。」と象徴天皇と内閣というところのあり方ということは十分整理をしておかないといけないというふうに私は思います。以上です。

○山口(富)小委員 自由討論が参考人のお話を踏まえてということなんですけれども、きょう、マッカーサー・ノートにかかわるザ・ヘッド・オブ・ザ・ステートについて、これは必ずしも元首という意味合いを持たないという趣旨のお話もありました。

実は、その当時の訳語の問題はあるんですが、もう今日ではこれは、頭の位、頭位とか頭部とか、そういうふうに訳したり認めるのが多くの憲法学者や歴史学者の共通の認識になってきていると思うんです。といいますのも、当時のGHQ文書の中に、天皇については、建物の構造や機能に全く影響を与えないその最先端に置かれるものだというような説明があるからなんです。

ですから、私は、マッカーサー・ノートでの記述をもって日本国憲法にかかわるこの元首規定の議論をするのは、今日ではやはり無理があるというふうに思います。

それから、国事行為論につきましては、島委員の方から指摘がありましたけれども、解散規定というのは憲法の六十九条にかかわる問題ですので、七条三項のこの規定と同時に、六十九条とあわせて検討する必要はあるというふうに感じます。以上です。

○保岡小委員長 他に御発言ございますか。それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

午後四時三十一分散会

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