〈2022.4.28集会講演録②〉

象徴天皇制と日米安保体制がもたらした現在の日本を問う

池田五律(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)

1.初期対日方針とウクライナ戦争
今からのお話は、大筋、日米安保の歴史は自衛隊の増強・役割拡の歴史だということです。その淵源を、まず踏まえておきたいと思います。連合国最高司令官総司令部(GHQ)初期対日方針には以下のようにあります。

日本がふたたびアメリカの脅威となり、または世界の平和と安全の脅威となることのないよう保証すること/他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則とに示されたアメリカの目的を支持すべき平和的かつ責任のある政府を追って樹立すること
[連合国最高司令官総司令部(GHQ)初期対日方針(1945年9月22日)より抜粋]

ロシアのウクライナ侵攻は、国連安保(集団安全保障)に反する「違法な侵略戦争」です。「侵略国」は「制裁」という名の「正戦」ということになります。しかし、常任理事国であるロシアは拒否権を行使するので、安保理では非難決議さえ出せません。ですから、国連による制裁措置は実施されません。国連憲章は個別的自衛権を認めています。ウクライナは、それを行使しています。ロシアのウクライナ侵攻の誘因は、NATOの東方拡大です。ウクライナにNATO加盟の期待を抱かせ、ロシアの不拡大要求をアメリカは頑なに拒否しました。しかし、ウクライナはNATO加盟国ではありません。ですからNATOは、これまた制裁措置がとられずとも行使できると国連憲章が認める集団的自衛権を行使できません。そこでアメリカは、総会を利用しました。親米国家が圧倒的多数だった朝鮮戦争期などに多用した手法です。その総会のロシア非難決議によって正当化を得て、欧米はウクライナ支援・対ロ制裁を行い、大量の兵器を供与しています。いわば、「ウクライナ&ウクライナを矢面に立てた米NATO」の戦争を行っています。

欧米以外、中国、日米豪印戦略対話クワッドの一国・インドなど40カ国は、総会でのロシア非難決議を棄権しました。インドは、自衛隊の支援物資の輸送経由地を提供するのも断りました。経済制裁を実施している国は三十数カ国です。しかもその程度にはかなり濃淡がある。中東諸国、イスラエルすら、経済制裁に消極的です。ASEAN諸国も、ラテン・アメリカの多くの国々も、同様です。

対照的に日本は、アメリカに与し、総会決議を根拠にして防衛装備品をウクライナに供与し、経済制裁を行っています。ロシアからすれば「参戦国化」している。ロシアが常任理事国から外され、「今度こそ日本が戦勝国側になって常任理事国になるぞ!」とはしゃいでいるかのようです。自衛隊は防衛装備品を供与し、自衛隊法を変えて「人道的介入」につながりかない外国人のみの避難民輸送も行いました。

こうした現在の日本政府の姿は。まさに初期対日方針の言う「国際連合憲章の理想と原則とに示されたアメリカの目的を支持すべき平和的かつ責任のある政府」ではないでしょうか。

一方、「非武装・中立」といった反戦平和運動が重視してきた価値が貶められている。反戦運動は危機的状況にあります。日米安保によって憲法9条が蝕まれてきたとよく言われますが、国連安保の「正しい戦争」も超えて、憲法9条を活かす道を探っていかねばならないと思っています。

2.象徴天皇制の誕生
初期対日方針の文脈でいうと、象徴天皇制とはアメリカにとって脅威にならない天皇制です。そういう形で天皇制が延命するにあたって、裕仁は沖縄をフル利用しました。「沖縄戦」は、「本土決戦」をした場合、どれほど戦死傷者が出るのか、アメリカに「不安と恐怖」を与えました。そこでアメリカは、沖縄を直接統治して「本土」に睨みをきかせつつ、「本土」については天皇制を利用して間接統治することにしました。一方、裕仁は、8月17日に「陸海軍人に賜りたる勅語」を発して旧軍の武装解除を促がし、自らが利用するに値する権威を有することをアピールしました。

9月27日、裕仁は、マッカーサー訪問しました。いわば抱きついた。これによって、GHQは天皇利用から天皇支持に変わったと言われます。GHQは、強制連行された人たちなど中国人・朝鮮人の「暴動」に直面し、それを布告で抑え込みました。冷戦の兆しも、戦争末期から始まっています。共産化と中国人・朝鮮人を「脅威」とみなす日米共通の「脅威認識」が形成されていったことが、天皇支持の背景にあった。それゆえ、社会的混乱を収拾が優先されることになる。ソ連も加わる対日理事会の関与を回避することも必要になる。そこで、大日本帝国憲法の改正という方式で早期の新憲法制定が目論まれることになりました。

その一方でGHQは、戦犯逮捕、東京裁判、公職追放と、「アメリカの脅威となる者」を排除しました。言論および新聞の自由に関する指令、民主化指令で、天皇についての自由な議論も可能にした。さらに、女性参政権を認めるなど選挙制度を変え、民意が反映される体裁を整えて新憲法を制定していく。

この憲法制定過程で、戦犯逮捕などで神権天皇制の維持は諦めろと脅しをかけられた裕仁は、民衆の天皇支持を確保するために、1946年1月1日、「新日本建設に関する詔書」いわゆる「人間宣言」を出します。それには「人間」というこう言葉はなく、アメリカに対して侵略的な八紘一宇の神話を否定してみせ、民衆に「信頼と敬愛に依拠した紐帯」に基づいた新たなる天皇制、象徴天皇制を売り込んだわけです。

結果、天皇についての自由な議論も経たという体裁を担保した上で、象徴天皇制として天皇制を存続させる日本国憲法が、佐々木惣一的に言えば、天皇も国民も含むピープルによって立憲されるに至りました。

この象徴天皇制国家が「アメリカの脅威となり、または世界の平和と安全の脅威」とならないように歯止めをかけたのが憲法9条の戦争放棄・戦力不保持です。象徴天皇制と9条はセットで誕生したのです。その9条は、初期対日方針の文脈からすれば、国連による安全保障措置が前提とされていたのです。

3.日米安保の誕生
象徴天皇制の誕生過程を見ても、それはアメリカが一方的に押しつけたものではありません。日米の支配者が駆け引きしながら相互作用を経て合作して創っていった。

まず、講和・日米安保の誕生過程は、冷戦激化、朝鮮戦争前後と並行していたことを確認しておきます。その状況の中で、沖縄の恒久基地化が進められ、その建設によって、今、辺野古新基地に関わっているゼネコンなど、「本土」の軍事土建資本主義が大儲けをします。今の辺野古新基地建設に、それがつながっていく。

この沖縄の恒久軍事基地化とバーターで、講和が進められます。しかもそれは片面講和。即ち、冷戦でアメリカの側に立つ、アメリカの脅威にならない講和。それとセットで、日米安保が締結された。当時、最も「脅威」と想定されたのは共産化された中国。この反共日米安保構想の先鞭をつけたのが、1947年の裕仁の沖縄売り渡し、いわゆる「沖縄メッセージ」であることは、言うまでもないと思います。

この日米安保は、「日:基地を貸しますからいてください→米:いてやるから防衛力を増強しろよ→日:合点承知」という論理で成り立っています。アメリカによる一方的強制ではない。日本の支配層も、主体的に求め、創り上げていった。それを見落としてはなりません。

4.自衛隊の誕生
日米安保に組み込まれている「防衛力増強」の論理は、朝鮮戦争下に作られた警察予備隊がその名の通り間接侵略に対処する警察が任務でしたが、講和・独立後の保安隊は警察と防衛の中間の「保安」を任務とするようになり、そして自衛隊は直接侵略に対する「防衛」を主任務とするようになったことに、端的に示されています。

といっても、発足当時の自衛隊は直接侵略に対処する実力はありませんでした。また再軍備を復古型改憲につなげようとする保守勢力の動きも活発化しました。一方、改憲を阻止するだけの議席を左翼政党が獲得していきます。こうしたことは、アメリカ、そして日本の支配層にとっては「脅威」と映った。現実にそうであるというのでなく、彼らはそういう「脅威認識」を抱いた。ですから、軍政下の沖縄から「本土」に睨みをきかせ続け、「極東」をにらんだ基地拡張を進めました。「本土」でも、米軍基地拡張の動きがありました。旧日米安保・行政協定は、占領継続の色合いの濃いものだったと言えるでしょう。

5.60年安保
自衛隊は徐々に「本土」に対する直接侵略に対処する実力を整えていきます。そこで60年安保改訂が浮上します。その意味は、旧安保にはなく、新安保にある「両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し」という文言、殊に「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護」という文言にあります。この文言は、NATO条約と類似するものです。今の言葉で言えば、「自由と民主主義」という「普遍的価値」を有する「友好国」として承認されたと言っていいでしょう。そして、64年の東京オリンピック。「聖火」がアジア諸国、沖縄を回って運ばれ、裕仁が開会宣言をし、自衛隊のブルーインパルスが五輪の輪を描いた。東京オリンピックは、天皇・自衛隊を、内外に認知させるイベントだったと言えるでしょう。

6.沖縄返還−自衛隊沖縄移駐
高度経済成長を背景に、自衛隊は「所要防衛力」構想の下で増強されていく一方、「本土」の米軍は縮小され、沖縄に移り、沖縄は東南アジアをもにらんだ米軍の拠点にされていきます。そうした中で、復帰運動が徐々に高揚していく。そして、ベトナム戦争の激化と共に、米軍政は破綻していき、代わって日本政府は「潜在主権」を前提に、援助を増大し、やがて返還交渉に入っていきます。

そして、70年に安保自動延長、71年に返還協定が締結−72年「本土復帰」・・・。結果、「核抜き本土並」といいながら「核持ち込み」の「密約」を伴う形で、日本の主権の下に移行しただけで、米軍基地はそのまま。練馬朝霞駐屯地もそうですが、首都圏の米軍基地は関東計画で大幅に縮小され、自衛隊に移管されるなど、「本土」の米軍は縮小される。その分、米軍はさらに沖縄に集中する。そして、自衛隊沖縄移駐。自衛隊が沖縄を含めて直接侵略に対処する役割を担う形で日米安保は強化されました。沖縄の日米共同の軍事植民地化です。

象徴天皇制国家に沖縄を統合する役割を担ったのは、アキヒト・ミチコでした。自衛隊沖縄移駐と皇太子夫婦の反発を承知での訪沖はセットだったわけです。

7.78年ガイドライン−シーレーン防衛・日米同盟化
米中・日中の関係改善、ベトナム戦争の終結は、日米安保、自衛隊にとって逆風になりました。ドルショック。オイルショックで、経済的にも低成長時代に入る。最早、「所要防衛力論」で右肩上がりに防衛費を増大させることも困難になる。そうした中で、安定的に防衛費を確保する理屈が必要になる。「基盤的防衛力構想」、さらには防衛費GDP1%枠も、歯止めと同時に一定額の確保という面があったと言えるのではないでしょうか。1976年に初めて策定された防衛大綱は、それを体現したものでした。

そうした中で、第四次中東戦争−オイルショックを契機に頭をもたげてきたのが、「シーレーン防衛」です。70年代後半になると、それと「極東ソ連軍の脅威」が盛んに語られるようになる。78年、初の日米防衛協力の指針(ガイドライン)で、シーレーン防衛が自衛隊の役割になりました。日米共同作戦計画も、本格化する。有事法制研究も正式化され、「日米同盟」という言葉が当たり前化されていく。ソ連のアフガニスタン侵攻もあり、80年代になると、四海峡封鎖、不沈空母といったことが語られるようになる。米ソ新冷戦下で、トマホークの配備、中曽根軍拡、靖国参拝、教科書問題・・・。87年には国体の際に裕仁が訪沖しようとし、先立って「日の丸・君が代」の沖縄での強制が強まる。「沖縄統合」の完成が目論まれたわけです。

8.冷戦後−国際貢献・各種事態対処への転換・日米安保宣言・97年ガイドライン
ソ連・東欧の社会主義体制の崩壊は、自衛隊および日米安保の存在意義を低下させまし。そこでいろんな意義が創り出され、存在意義を与える「脅威」(脅威認識)が振りまかれえることになる。創造された意義の一つが「国際貢献」です。国連PKOを口実とした海外派兵が始まります。1995年版の防衛大綱では、「各種事態」への対処が打ち出されました。1996年には邦人輸送任務が自衛隊の任務になります。国内での活動では、「大規模災害対処」や「テロ対処」を存在意義として強調し出します。自衛隊は「災害派遣」も「治安出動」の一つと位置づけています。総じて言えば、「緊急事態対処」です。警察との合同訓練も積み重ねられ、警察にあった自衛隊への警戒感も徐々に薄められていき、2000年代になると連携態勢が整っていきます。2022年の東京オリパラにおける警察・自衛隊による警備は、その完成形態を見せたものだったと言えるでしょう。

冷戦の終焉は、アメリカに使い勝手のよい国連を蘇らせました。湾岸戦争における多国籍軍の武力行使は、「違法な侵略戦争」を行ったイラクへの「制裁」として正当化されました。湾岸戦争以降、アメリカからの「ショー・ザ・フラッグ」の圧力も強まりました。1996年には、日米安保宣言で、日米安保のグローバル化が謳われる。沖縄の米軍基地は米軍のグローバルな展開拠点として維持され、ご存知のように、辺野古新基地建設の動きが始まっていく。そして1997年にガイドラインが改訂され、日本有事における共同作戦計画だけでなく、周辺事態における相互協力計画の策定が謳われ、平素からの調整メカニズムが構築されました。1999年には、周辺事態法、組織的犯罪対策法—盗聴法が制定されました。国旗・国歌法、住基カードも、同年です。

9.対テロ戦争時代−各種事態の拡大・防衛庁の省昇格
2000年代に入ると、日米安保のグローバル化、97年ガイドラインの実働化が進みます。国連決議に基づくとし、アフガニスタン戦争に際したインド洋派兵。国連による「平和構築」への参加を口実としたイラク派兵。2008年からはソマリア沖海賊対処と海外派兵が拡大され、ジプチに恒久基地を持ち、地位協定を強いる側にもなる。憲兵の卵。情報保全隊がイラク反戦の市民活動の情報を収集していたことが発覚しました。海外派兵と自衛隊の治安活動は、2004年版の防衛大綱では、特殊部隊による破壊工作、島嶼部への侵攻などへの対処が強調される。朝鮮核開発の「脅威」を煽り、2004年からミサイル防衛にも乗り出します。武力攻撃事態法、国民保護法と、中曽根時代に正式研究された有事法制が続々と制定されていく。「武力攻撃災害」という概念を媒介に、「災害対処」は「大規模テロ対処」や特殊部隊の破壊活動などによる「災害」ともとリンクされました。ちなみに国民保護は、ウクライナで民間人を戦闘に動員する仕組みの基盤となっている民間防衛の卵です。「危機管理の専門家」と称して、自衛官・元自衛官を自治体の危機管理部門に送り込む動きや、国民保護訓練に民衆を動員する動きも、段々、強められていきました。

2006年には統合幕僚会議が統合幕僚監部に改変され、陸海空自衛隊の一体化が始まる。2007年には、防衛庁が省に昇格し、閣議で独自に予算要求を出せるようになる。財政面から自衛隊軍拡を制約する力が弱められました。省昇格に伴い、偕行社、水交会(旧軍軍人の親睦会)が管轄下に入り、旧軍との関係も密になりました。

10.動的防衛力・統合機動防衛力・多次元統合防衛力&2015年版ガイドライン・多国間安保化
民主党政権が誕生する直前、2008年、民主党も賛成して、宇宙基本法が制定されます。民主党政権下の2012年には、原子力基本法が「改正」されました。それらによって、安全保障を目的とした宇宙・原子力の利用に道が拓かれました。民主党政権下の2010年版防衛大綱では、「基盤防衛力構想」が捨てられ、「動的防衛力」と位置づけられました。それは、安倍政権になった2013年版の防衛大綱で「統合機動防衛力」に進化します。それ以降、中国脅威論を背景に、南西諸島(琉球弧)の自衛隊増強が本格化していきます。離島防衛を理由に、自衛隊版海兵隊と言われる水陸機動団が編成され、陸自がオスプレイを購入することになっていく。

2013年には、特定秘密保護法も制定されました。同時に、国家安全保障会議が設置されました。以降、その事務局、国家安全保障局に集う防衛官僚・高級幹部自衛官、警察官僚らと、それと結びついた官邸官僚が、国家安全保障政策を主導するようになりました。同年末の初の国家安全保障戦略で打ち出された集団的自衛権行使一部合憲化が、翌年の閣議決定につながり、2015年に安保法制整備がなされていった過程も、彼らが主導したものでした。反比例して、外務省は存在感をなくしていきました。防衛省・自衛隊内でも、高級幹部自衛官が企画・運用に関する発言権を拡大しました。防衛省官僚(背広組)が制服組(自衛隊幹部)を抑える日本型シビリアンコントロールも崩壊しました。2014年には、武器輸出三原則が撤廃され、「防衛装備移転三原則」に改められ、武器輸出への道が拓かれました。2015年には防衛装備庁が発足。防衛利権も拡大しました。

2015年には、日米ガイドラインも改められ、「平素からの同盟調整メカニズム」が構築されました。それを受けて、2018年版の防衛大綱では、陸海空のみならず、宇宙・サイバー・電磁波領域も含む「領域横断的作戦」を遂行するための「多次元統合防衛力」の向上が打ち出されます。陸上自衛隊は総隊制へ移行し、陸海空の統合司令部設置も目論まれています。サイバー部隊増強、電子戦部隊増強、宇宙作戦群の創設などが、相次いでいきます。超音速滑空弾の迎撃を理由とした小型衛星群の打ち上げなども進めています。敵基地攻撃力の実質的に保有する長射程ミサイルの配備も、2018年版の防衛大綱から始まっています。敵基地攻撃力の実質的に保有する長射程ミサイルの配備も、2018年版の防衛大綱から始まっています。護衛艦「いずも」の軽空母化も、この大綱に基づくものです。軽空母化も、台湾海峡危機−南西諸島(琉球弧)の戦場化を想定し、航空優勢を確保するためのものとされています。しかし、運用は、同地域に限りません。2020年のオマーン湾派兵を思い出してください。インド太平洋地域はなおさらです。南シナ海(南中国海)での活動は当然視されています。

国会論議を回避する安保宣言・物品役務融通協定締結という手法で、アメリカ以外の国との「同盟化」も進めてきました。対中包囲網、日米豪印戦略対話クアッドは、その典型です。多国間安保化は、多国籍軍への後方支援を超えた参加にもつながっています。そうなれば自衛隊員の戦傷者が増えることは必至です。それを先取りし、2018版の防衛大綱以降、戦闘医療態勢の強化も始められています。

11.国家安全保障戦略見直し・東版NATO形成
米海兵隊の「遠征前方基地作戦」と連動した台湾海峡危機を想定した日米共同作戦計画の策定もスタートしています。岸田政権は、「思いやり予算」は「同盟強靭化予算」へと改変。「防衛力増強加速化16カ月パッケージ予算」を編成しました。「タンカー防護」を口実に、中国の「一帯一路」を遮断する艦隊の編成が予算化されました。さらに岸田政権は、敵基地攻撃力を明記する国家安全保障戦略を策定し、防衛大綱・中期防を見直そうしています。五年間で防衛費をGDP2%に増やすことも、目論まれています。

多国間安保化では、イギリスとの円滑化協定(地位協定)の締結が迫っています。米英日のF35を艦載した英と自衛隊の軽空母が米空母打撃群に加わる形の運用が想定されます。木更津の日米共同のオスプレイ整備基地化に続いて、三菱重工小牧工場の米英日のF35Bメンテナンス拠点化が進むと思われます。イギリスとの関係強化は、オーカスとの連携、秘密情報共有協定・ファイブアイズへの日韓独の参加ともつながっています。それに対応して、日本版CIAの創設の動きも進むと思われます。インドは対ロ制裁に慎重で、クアッドの行方には不透明感が漂っていますが、韓国の新政権はクアッド参加に前向きで、日米韓軍事一体化が進むおそれもあります。ウクライナ支援・対ロ制裁の動きとも連動しつつ、東のNATOの形成が加速化されていくでしょう。その中で、核シェリング論も蒸し返され続けると思われます。

兵器開発でも多国間協力が進んでいます。自衛隊は戦闘機の自主開発を進めていますが、それにもロールス・ロイスなどが参加すると報じられています。

12.戦争と治安の融合
国家安全官僚らは、「正規・非正規/軍事・非軍事的手段を混交させたハイブリッド戦」を想定し、各種事態が多様な様相で同時的に生起する状況に、平素から柔軟に対応する態勢を構築しておくことが、国家安全保障を担保する「抑止力」になるといいます。重要土地規制法は、その発想に基づくものです。それは、平素から米軍基地や自衛隊施設など重要施設周辺の個人情報を収集し、土地・家屋の利用状況を調査し、機能阻害が生じないように、利用の仕方を変更するよう勧告し。従わなければ命令し、それに反すれば処罰するというものです。

経済安保推進法は、「重要物資」=「戦略物資」を平素から「重要影響事態」、「存立危機事態」、「武力攻撃事態」など、諸事態に柔軟に対応して軍事優先で確保できる態勢を整えておこうというものです。同時に、「重要技術」=「軍事技術」の開発を促し、その情報を流出させない「防諜」態勢も強化しようというものです。今の法案には盛り込まれていませんが、特定秘密保護法の強化や外国人留学生や研究者の監視・管理強化を図る部分が次の国会には出てきます。学術会議を解体・再編せずとも、軍事研究への大学や民間の研究機関の組み込みが進むでしょう。経済安保推進法を主導したのは警察官僚です。警察庁直轄のサイバー部隊も創設しました。省昇格後、防衛官僚・自衛隊高級幹部の権限と利権が拡大されてきましたが、次は警察官僚というわけです。

13.明文改憲
岸田政権は、ウクライナ戦争を利用して、明文改憲への動きも加速させています。自衛隊明記改憲は、内閣総理大臣を首長と内閣を代表する位置づけることで、反対閣僚がいても自衛隊を動かせる権限を首相に付与しかねません。緊急事態条項追加改憲と併せると、自衛隊の治安出動が安易に発動され得ることになりかねません。また自衛隊明記は、自衛隊を「公共財化」します。ですからその意義を教育するのは当たり前ということになります。一方、自衛隊批判は、「反公共的」即ち、「反社」とされかねません。自衛隊批判をしたら侮辱罪に問われたり、さらには人格改造が必要な者として拘禁刑の対象とされる時代が到来しないとも限りません。自衛隊明記だけでは民間人を逮捕する憲兵の創設や民間人をも裁く軍法会議の創設は困難だと言われていますが、第二段改憲、自衛隊国軍化がなされれば、それらも創設されることになるでしょう。

14.天皇制との関り
アメリカが使い勝手のよい場合は国連安保も絡めつつ日米安保強化が進められ、その果てに多国間安保化と共に南西諸島(琉球弧)の要塞化が行われるに至った今、実質改憲と明文改憲が並行的に進められ、高級自衛隊幹部や警察官僚ら国家安全官僚主導の国家体制、いわば「高度安全保障国家」が構築されつつあります。

その中で、最後に天皇制と自衛隊の関係について付言しておきたいと思います。

自衛隊の沖縄移駐に伴う自衛隊増員の折に発覚したのが、当時の増原防衛庁長官の内奏問題でした。増原が、内奏時の裕仁の「近隣諸国と比べて自衛力がそんなに大きいとは思えない。/防衛問題はむつかしいだろうが、国の守りは大事なので旧軍の悪いことは真似せず、いいところを取入れてしっかりやってほしい」という発言を漏らして政治問題化したのです。内奏は、明仁も徳仁も、受けています。自衛隊高級幹部は、叙勲対象者です。在日米軍幹部も・・・。園遊会に統合幕僚長を呼ぶことは慣例化しています。特別に、自衛官を招待することもあります。例えば、2006年にはイラク派兵自衛隊を皇居に招いてねぎらい、明仁天皇が、「国際的な協力に参加し力を尽くしてこられたことを誠に御苦労に思います」などと声をかけています。美智子は、「イラク派兵自衛隊の帰還」と題して、「サマワより帰り来まさむふるさとはゆふべ雨間にカナカナの鳴く」という和歌も詠んでいます。巡幸の際に自衛隊と接触することもあります。例えば、2016年に与那国駐屯地が開設されましたが、2018年に明仁が与那国島を訪問し、自衛隊に堵列で出迎えられています。

市ヶ谷の防衛省内には、殉職自衛官を慰霊する碑を中心としたメモリアル・パークがあり、毎年、殉職者の慰霊式典が行われています。天皇が列席してはいませんが、殉職者は「柱」と数えられています。自衛隊版靖国です。今後、自衛官の戦死傷者が出ることになれば、戦死者の慰霊、傷病者や遺家族の援護が課題になってくると思います。そうした場面でも、確実に天皇と自衛隊の関係が密になっていくと思われます。

安倍首相は「積極的平和主義」と言いましたが、ロシアのウクライナ侵攻を利用して「平和のための戦争」を行う「積極的平和国家」が創られようとしています。それと連動して、天皇制も、「積極的平和国家」を象徴する天皇制、国連安保を絡めつつアメリカなどと「正しい戦争」を鼓舞し戦傷者を称揚する「積極的象徴天皇制」に変貌しかねません。今こそ、国や民族のために命を捨ててはならないという沖縄戦をはじめとする戦争体験の経験化を踏まえ、非武装の思想として、9条を活かしていく道を探っていかねばならないと思っています。

*この記録は2022年4月28日、『「講和」後70年の日本と「復帰」後50 年の沖縄 象徴天皇制・日米安保体制下の日本と沖縄の歴史と現在』として行われた集会にて、池田五律さんにお話いただいたものの全文記録です。主催の記録をもとに池田さんに加筆・修正いただきました。

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