〈2022.4.28集会講演録①〉

日米安保体制とグローバルなミリタリズムの「裂け目」を生きる/創る

大野光明(運動史研究)

私の今日のお話、みなさんとの対話の目的は、「沖縄をめぐる構造的暴力に向きあうとはどういうことか?」、「沖縄との連帯をどう考えるのか」ということを、私自身の経験も踏まえて、議論を開きたいということです。

まず、アジア太平洋戦争後の日本「本土」の歩みと沖縄の歩みが、異なるものとしてあった点を押さえたいと思います。その上で、50年前の沖縄「返還」をめぐってどのような議論が当時あったのか、様々な論点・焦点を改めて今日の文脈に置きながら考えます。そして、今沖縄で進められている軍事化に対して、どういった抵抗のあり方があり得るのか、という論点をみなさんに示したいと思っています。

日本の「戦後」史と沖縄の「戦後」史⎯⎯⎯⎯分離と連動

まず歴史的な視点からお話します。

沖縄戦は凄惨な地上戦となりました。諸説ありますが、沖縄戦における戦没者は、アメリカ側が1万2520名、日本側が18万8136名で、その内沖縄県出身者は、12万2228名(内、軍人軍属が2万8228名)と言われています(出典: https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/okinawa_04.html)。一般市民も非常に多く亡くなっています。よくいわれることですが、全県民の4分の1以上の住民が死亡した。軍が住民を、島全体を巻き込んだ戦闘でした。

今日の基地問題を考える上でとても重要だと思うのは、米軍は当時沖縄島にあった日本軍の施設(飛行場や基地)をいち早く接収して、沖縄戦の最中から出撃拠点として活用をしていった点です。つまり、基地は日本軍から米軍へ力によって引き継がれた。それが沖縄戦の後に、沖縄で基地が拡がっていく起点となっています。基地・軍隊は、沖縄戦以前も沖縄戦最中も沖縄戦後も、沖縄の住民にとっては在り続けているということ。この点を押さえておくべきだと思います。

米軍は沖縄戦の最中に、米国海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)を出し、日本の行政権を停止して沖縄における米軍政府の設立を宣言しました。それ以降、沖縄の米軍支配が続いていくことになります。

北緯29度以南の奄美、沖縄、宮古、八重山が軍政下に入りました。1947年には「天皇メッセージ」が出されています。宮内庁の人間を通して、シーボルト連合国最高司令官政治顧問に対して伝えられた、アメリカによる沖縄の軍事占領に関する天皇の見解です。それは、一つ目には、アメリカによる琉球諸島の軍事占領の継続を望むという希望、二つ目には、そのためのアメリカによる占領は日本に主権を残したままでの長期的な租借によるべきである、そして三つ目として、こうした沖縄の長期占領は日米両国にとって利益があり、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる、といった内容でした。これはその後の沖縄の歴史を大きく規定した重要なものであったと思います。

そして、サンフランシスコ講和条約によって日本(本土)と沖縄は分離され、沖縄では米軍政府による直接統治がつづきます。沖縄の占領政策は、当初は、長期的な展望をもったものではなかった。それが大きく転換されることになったきっかけは、冷戦が激しさを増したことです。中華人民共和国の成立や朝鮮戦争が行われる中で、沖縄の軍事的な重要性をアメリカ軍、アメリカ政府は認識するようになり、恒久的な軍事基地建設を進めていくようになったのです。これに対して沖縄の住民は、いわゆる「島ぐるみ」の抵抗・闘争を展開していきました。沖縄の人びとの土地が、強制的に暴力(銃剣とブルドーザー)でもって取り上げられていく。沖縄の人びとが無権利状態におかれている中での、この強制的な土地の取り上げに対して、さまざまな手段での抵抗運動が拡がっていきました。しかし、圧倒的な力の差によって基地の拡張は進められていきます。そして現在につながる広大な面積の土地を基地が占めるという沖縄島の状況が生まれました。

このような沖縄の歴史をふまえると、わたしは「戦後史」という言葉を使うことに違和感を感じてしまいます。「戦後史」という言い方自体が、日本の「本土」中心の、一国主義的な歴史認識に基づくものなのではないか。

そのこととかかわって、アジアの中でアジア太平洋戦争「後」がどのようなものだったのか、改めて確認したと思います。

すこし図式的な説明になりますが、日本の「本土」側は、サンフランシスコ講和条約による国民国家としての再独立以降、一応は、国是としての「平和と民主主義」が確立されていきます。もちろん米軍基地の存在があり、自衛隊も発足していくわけですが、「平和と民主主義」が形式上は保障される空間になっていきました。また、経済的な面では、日本は重化学工業を中心とする経済成長を享受することができました。

それに対して、沖縄は非常に異なる歴史を歩んできたことがわかります。まず、なによりも米国による統治が継続されていったこと、それによって広範囲で軍事化が進んでいったことがあげられます。また、核兵器がいつでも使用可能な状態で配備されていたのが沖縄島でした。この点は、非核三原則を掲げつつ、核の平和利用にとどまった日本「本土」とは異なるものです。

もう少し具体的な数字として、駐留米軍の人数から歴史を見てみましょう。1950年代、日本(「本土」)側は約11万人であるのに対して沖縄は2万人で、比率でいえば沖縄では全体の約15%の米軍人が駐留したにすぎませんでした。この比率が逆転するのが1964年です。日本(「本土」)側では、米軍基地の整理・縮小、沖縄への部隊の移転が進んでいき、3.9万人まで減っていく。それに対して、沖縄は4.6万人へと増えていき、比率では半数を超え54%となります。こうした数字にも、日本(本土)と沖縄との異なる「戦後」史が見て取れると思います。

さらに視点を広げて、アジア各国を見ると、冷戦体制の中で、多くの国で内戦や戦争(朝鮮戦争やベトナム戦争)が起き、紛争状態や緊張状態が固定化されていきました。その中でつくられた軍事独裁体制が、民主主義を否定し、人々の権利を制限し、国家主導で経済開発を進めていった。そこに日本の資本やODAが援助という形で深く関わっていくことになります。また、太平洋の島々では原水爆実験も行われました。

このように、日本、沖縄、アジア・太平洋諸国は非常に異なる歴史を歩んできました。

アジア・太平洋戦争の「敗戦」よりも前、日本はこれらの地域を支配する帝国であったわけですが、「戦後」には、日本は植民地を放棄し、現在の日本へと縮小していきます。そのなかで、アジアにおける植民地支配の経験や記憶は忘却というよりも、否認されていくようになる。日本の「平和と民主主義」は、沖縄の軍事化やその軍事基地を拠点として行われたアジアの熱戦とセットになっていました。アジアの熱戦は、日本の経済成長を促していった。日本の「平和」なるものは、沖縄やアジアと結び付きながらつくられていたのです。

私は今、「戦後」という言葉を簡単に使っていますが、辺野古や高江の現場で反基地運動を最前線で続けている作家の目取真俊さんは、沖縄にはまだ「戦後」が一度も訪れていないのだ、「戦後ゼロ年」であるという問題提起を10年ほど前からされています(『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、2005年)。

沖縄の施政権返還
このような地政学的な構造、冷戦構造のなかで、沖縄の施政権返還をどのように考えればよいでしょうか。当時の沖縄「返還」運動の中ではどのような問題提起がされていたのか。そのなかで今私たちが受けとめるべきものは何か、ということを話したいと思います。

日米の間で沖縄返還交渉が大幅に進展するは、1960年代の後半です。1967年11月の日米首脳会談で両三年内に返還時期に合意することを確認して、1969年11月に72年の返還に合意する日米共同声明が出されます。なぜ、これまでなかなか進まなかった返還交渉が、60年代後半になって進むことになったのか。外交文書の公開にあわせて、外交史や国際関係史の研究が進み、多くのことが明らかになっています。それらを総合してみると、以下のようなことがいえると思います。

先ず一つ目は、アメリカ政府内では、沖縄住民の自治権要求の高まりが押さえられなくなってきていて、これ以上その要求が高まると、日米関係、すなわち日米安保体制を悪化させかねないという危機意識が生まれていたことです。つまり、沖縄の人々の闘争・抵抗がアメリカの政策を変える力となっていたということです。

そしてもうひとつは、同時に進行していたベトナム戦争の泥沼化というプロセスがあります。膨大な戦費がアメリカの財政状況を大きく悪化させることになりました。それによって、沖縄統治にかかるコストへの疑問が出されていきます。米軍の海外拠点の維持やベトナム戦争にどれだけの戦費を投入するか、調整する必要が生じてきた。

また、「沖縄問題」や日米安保をめぐる60年代末の日本の運動の高まりも影響を与えています。これらが沖縄の自治権要求の高まりと重なり合い、つながり合うことによって、日米安保体制そのものの危機へと波及する恐れがある。そのような危機認識が日米両政府の間で共有されていました。

こうした政治的・財政的な危機のなかで、沖縄返還交渉が進められていくことになります。両政府には、日米安保と在沖縄米軍基地の機能を損なわせないために、維持するためにこそ沖縄返還が必要なのだ、という強い意志がありました。それが69年11月の日米共同声明に結実したのです。この声明では、まず、在沖米軍基地のもつ機能を維持する、ということが確認されています。沖縄の1960年代からの復帰運動は、いわゆる革新勢力だけでなく保守的な層も巻き込んだ「島ぐるみ」の闘争として続いてきたものですが、60年代後半になると、「基地撤去」が明確に掲げられるようになっていました。それに対して、日米両政府は、基地の機能維持という方針を明確に立て、返還の交渉をまとめたのです。沖縄の人びとが希求していた「復帰」を完全に裏切るものでした。日米両政府は「沖縄返還は民族的な悲願」と美しく表現しながら、表面上の変化=施政権返還を進めつつ、軍事的には現状変更を認めなかったと言うことができると思います。

ただ、見逃せない点として、両政府は沖縄への自衛隊の新規配備について合意し、それが進められていきました。使われなくなった米軍基地の一部は、自衛隊基地へとすげ替えられていきます。

アメリカの財政的な危機とのかかわりでは、沖縄返還前から、日本政府による沖縄援助が拡大されています。返還後は日本の施政権に戻るわけですから、沖縄の経済を支えるさまざまな予算を日本政府が負担していきました。さらに、ベトナム戦争後を見据えて、復興支援にも日本は積極的に関与していくという文言も、日米共同声明の中には盛り込まれていました。

この状況は、沖縄の人びからすると、沖縄が日米共同で軍事的にも、政治的にも、そして経済的にも管理・使用されていく、そういう変化として受けとめられました。実際にそのようなものであったと思います。また、沖縄の返還に留まらない広範な諸政策が、沖縄返還を足ががりとして進められていきました。沖縄だけにとどまらず、アジアへ、さらにグローバルに関与していく日本の姿のひとつの起点になっていると思います。外交史研究などでは、日米両政府がアジア地域に対しては共同でコミットしていく、新たな二国間関係に入ったことを示す出来事として、沖縄返還を見るべきだとも言われています。

■未完の沖縄闘争
4月28日は、かつては「沖縄デー」と呼ばれていました。この日、全国各地で、日米の沖縄政策を批判するデモや集会が行われていました。沖縄デーの集会やデモの開催場所数や参加者人数の経年変化を見ると、69年には集会やデモ数が急増して、参加者数も10万人を超えるようになります。前々日の17日に衆院沖縄返還協定特別委員会において「沖縄返還協定」が強行採決された71年11月19日には、全国で50万人が行動に参加しています。デモ・集会の回数(場所数)も、71年11月には最大で930個所で持たれています。当時は「沖縄闘争」といわれていましたが、広範な人々が沖縄への関心をもち、日米政府の政策に反対・抵抗したのです。これは日米両政府が危惧していた、「本土」側の安保闘争や反戦運動と沖縄の人びとの闘争とが結びくという状況が、まさにこの列島で起きていたということです。

今、数量的な変化を見ましたが、運動の質的な変化をみることもできます。この質的な変化の中で出てきた問いや問題提起は、今でも重要なものであると私は考えています。

ひとつには沖縄返還政策への根底的な批判、否定です。復帰・返還運動に取り組んだ人びとは、自分たちの運動のエネルギーや「悲願」が、日米安保体制の再編・強化に回収されてしまっているのではないかということに危機感を抱くようになりました。そして、それまでの運動や闘争を立て直し、運動の枠組み自体が問われていくようになってきました。沖縄の復帰運動を推進した島ぐるみの組織である「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)は、「核付き・基地自由使用」という方針が拭いきない日米両政府の政策を批判し、「即時無条件の全面返還」を要求するようになります。当時の日本(本土)の革新政党も同様の主張をしてきていました。その論理は、基地があるがゆえに暴力を受ける、さまざまな被害を受ける、といった被害者性を強調したものだけではなく、ベトナム戦争下にあって、目の前の基地が戦場につながり、戦争に加担する構造に巻き込まれている、そのような強いられた加害者性についても問題化しなければならないというものでした。沖縄の復帰運動において、60年代後半から基地撤去が正面から主張されていきました。

もうひとつが「反復帰論」です。これは復帰そのものを根底から疑う、否定する。これまで日本本土への復帰を求め続けてきた沖縄の運動や思想自体を内在的に批判しようとする思想でした。沖縄タイムスの記者であった新川明さんなどの知識人が中心になって問題提起をしていましたが、その言葉や思想は沖縄の若い人たちや「本土」側の新左翼の人びとにも深い影響を与えていました。沖縄自体を根本から問う作業の中では、沖縄の内部の差別・被差別の関係性についても問われるようになりました。沖縄島と宮古、八重山、あるいは奄美といった島々との、歴史的な差別・被差別の構造が内在的に批判されるようになります。

また、私が反復帰論についてとても重要だと思うのは、国家の否定や拒否を打ち出したという点です。国家を前提として政治や社会、あるいは人びとの生存を考えるのではなくて、国家は暴力装置であるという点から政治や社会をとらえかえしたのです。暴力装置としての国家の端的な姿が軍隊である、そういう認識です。戦争を産み出す装置として軍隊があり、それは国家の本質的な姿なのだ。だから、基地を拒否するということは、国家を拒否するということである。そこから沖縄の社会を構想しなおしていくこと。これが反復帰論の問題提起であったと思います。

こうしたさまざまな問題提起がなされるなかで、東京に「留学」していた沖縄の若い学生たちや「本土」で就職していた沖縄の労働者たちが集まって、沖縄青年委員会や沖縄青年同盟(沖青同)といった小規模ですが、ラディカルなグループが誕生しています。1971年の沖青同のデモの写真を見てみると、「日の丸」に✕印がつけられ、「抗日」と書かれた旗が掲げられているのがわかります。復帰の拒否、日本国家の拒否、そして国家そのものを問うということが実践的に考えられていた。また、沖青同のチラシには、「沖縄闘争の思想的点検とは具体的には〈本土日本にとっての沖縄とは何か〉〈沖縄にとって本土日本とは何か〉という設問を出発点にするところから本土-沖縄の双方が思想的・実践的営為をあくまでも担い抜いていくことにある」とあります。また、「われわれは問いたい! 議会制民主主義の名のもとに日本が沖縄の命運を決定することができるのかと。沖縄の歴史は、つねにそうであったように薩摩の武力的併合以来、よそ者=侵略者たちが刻みこんだ仮借のない搾取と収奪の軌跡であった。三度にわたる『世替り』は、そのたびごとに沖縄を分離したり併合したりした」とあります。こういう問いかけがなされていました。

もうひとつ紹介したいこととして⎯⎯⎯⎯現在の基地・軍隊を考える上で、またウクライナでの戦争を考える上でも重要だと思っているのですが⎯⎯⎯⎯、当時の沖縄闘争が、反戦米兵やそれを支えるアメリカの反戦活動家と交差した局面があったことです。ご覧いただいている写真は1971年5月、コザ暴動から半年後のコザで行われた屋外集会の様子です。黒人を中心とした米兵と沖縄の基地労働者を含む活動家、住民、さらに両者の橋渡しをしようとアメリカからやってきた反戦活動家らが、初めて公然と屋外集会をしたときの写真です。これはとても重要な出来事であったと私は思っています。当時アメリカには徴兵制がしかれていて、18歳以上の男子は徴兵登録をしなければならず、くじ引きで当たった人間は戦場へ運ばれるという時代でした。自ら望んだわけではなく、戦場にかりだされる。そして軍隊の中では黒人は人種差別を受けるという状況がありました。こうしたなかで軍隊に対する忌避感あるいは拒否、戦争に対する拒否というものが、軍隊の中から問われていました。

沖縄の黒人兵は地下新聞『DEMAND FOR FREEDOM』を、沖縄の人びととアメリカ民間人活動家の支援を受けて、70年から71年にかけて発行していました。「私の同胞とあなた(訳注:黒人たちのこと)が数百年間直面してきたことを、あの沖縄人は体験してきたし、今もしている。私たちを虐げる人種差別と資本主義の犠牲者なのだ。バビロン(訳注:アメリカ本国のこと)において黒人の民衆が自己決定のために闘ったように、沖縄の民衆は闘わなければならない。あなたの兄弟(ブラザー)を見つける時は、今なのだ。兄弟(ブラザー)は似ている。あの沖縄人はわたしたちの兄弟(ブラザー)だ。あなたにとっては?」と書かれています。

沖縄の人たちの中にも黒人兵と交流を重ねた人たちがいます。その一人の手記を紹介しますと、「何度も何度もミーティングを重なる中で、ブラザー達は自分たちの生いたちを語り、アメリカでの彼らの両親や兄弟達の生活やその他の黒人が、どういった状況におかれてきたかとドラマチックに語った。また僕らは米軍による沖縄支配の下で沖縄の人間が何を考え、どう生活しているのかということを彼らに語った。共通の問題として具体的な例をあげるならば軍事裁判の問題があるだろう。金城さんレキ殺事件に見られるように、沖縄の人がひき殺されても無罪判決が下されるのが沖縄に於いての軍事裁判の現実なのだ。それと同じく黒人兵たちも裁判においては不当な差別をうけていた。[…]そのような話をブラザーと交える中で僕らは激しい怒りの共鳴を持って燃っぽく夜が明けるまで語り合った。/これらのことからもブラザー達と沖縄人である僕らの関係は単に主催する者と支援されるだけのものではないことはわかってもらえると思う。/沖縄の民衆と黒人達は差別・抑圧の根源である軍事体制に対しての闘いにおいて真の連帯の基礎がはっきりとあるからなのだ」とあります(友寄英、1971、「黒人兵と沖縄の僕ら」『ベ平連ニュース』65号)。

このような経験をされた沖縄の方にお話を伺うと、黒人兵と自分のなかで、立場の違いはあるけれども、基地・軍隊からの抑圧を拒否する「バイブレーション(共鳴)」があったと語っておられました。黒人たちとともに過ごす時間はとても貴重なものであった、と。国家や軍隊によって自分の身体や思考、生活が管理されるのではなくて、自分自身で自己のありようを決定していくこと。そのような人びとの希求が、フェンスを越えたバイブレーションのなかで生きられていたと受けとめました。

同じような立場の者同士が手を握り合うことが連帯ではなく、異なる立場の者同士が、経験や傷をズレながらも交差させ、共闘していく、そういうものが連帯と言いうるのではないか。そのように思っています。

しかし、沖縄闘争については、いっぽうで次のような指摘もされています。

「『復帰・返還』運動を反戦闘争としてより急進化しようという路線であれ、『復帰・返還』という日本ナショナリズムの枠組全体を批判し、沖縄の解放・自立をあるいは独立を主張した路線であれ、『日帝打倒』の革命戦略が前提であった。いくつもにわかれ相互に激しく対立した政治党派の主張も、その点は共通していた。沖縄の人々の反基地・反安保のエネルギーは、そうした革命戦略の下に位置づけられており、その沖縄の闘争を具体的かつ内在的に知り、それと連帯する通路をつくりつづける努力はそこにはなかった。[…]その政治革命主義的体質ゆえに、沖縄の闘いのエネルギーの外在的『利用』以上の結果は、やはりつくりだせなかった。」(天野恵一『無党派運動の思想』インパクト出版会、1999)

外在的に、外から理論や考え方、思いを持ち込んで、沖縄の人たちが生きている文脈との擦り合わせなしに闘争を立ててしまったのではないか、という「本土」からの「本土」への根底的な批判です。それぞれの文脈をどのように擦り合わせながら、交差させていくことができるか。「沖縄」もひとまとまりのものではないだろうし、「日本」もひとまとまりのものではない。それぞれが持っている文脈や抵抗の経験をどうやって交差させていくことができるのか。それが現在でも重要なのではないかと思います。

沖縄を生きるということ
(1)所与でない「沖縄」
ここまで私は、「沖縄」や「沖縄の人びと」という言葉を使ってきましたが、使いながらも少し違和感を持っています。なぜかと言うと、沖縄の人びとはひとまとまりではありません。私たちのように安保や基地を問う人びとが、時に、沖縄を反基地の象徴や聖地のようにまとめしまう。そのようなやりかたでは、沖縄の現実が見えなくなってしまうだろうという感覚があります。同時に、沖縄で生きている人びとにとっても、「沖縄」は決して所与のものではない。

例えば、社会学者の田仲康博さんが以下のように言っています。

「そもそも当事者性が、〈場所〉や直接の〈経験〉に根ざすものだとしたら、たとえば私は自らの身体に刻印されていない沖縄戦の記憶とどのように向き合えばいいのだろうか。[…]当事者性とは、ある出会いをきっかけに始まる〈関係〉のことを指すのではないかと今の私は考えている」(田仲康博「方法として沖縄」岩渕功一ほか編『沖縄に立ちすくむ』せりか書房、2004、97頁)。

田仲さんには、たとえば沖縄戦の経験が直接にはない。沖縄戦の経験や記憶を起点として、平和や反基地を考えることを求められたとしても、その当事者性を自分は生きていない。直接的な経験の有無で当事者であるかどうかを考えてしまうと、「自分は沖縄の当事者ではないのではないか」と。田仲さんはそのような疑問をまず出発点におくわけです。
その上で田仲さんは、「当事者性とは、ある出会いをきっかけに始まる〈関係〉のことを指すのではないか」と再定義しています。つまり、たとえば、沖縄戦の経験が家族や親族の中で語られる、その証言に向き合ってしまう、そのような出来事の中で、自分が戦争や軍隊をどう考えたらいいのかという思考が始まっていく。そのような出会いをきっかけに始まる関係のことを、当事者性と考えればいいのではないか、ということです。現在の沖縄の社会では、当然、多くの人々が、沖縄戦の直接の経験を持っていないし、辺野古や高江の座り込みに参加したこともない人がいます。生まれたときから生活のなかにある基地の存在を疑問に思わない人たちもいます。そのようのなかで、基地や軍隊、戦争や国家を問う当事者性というのは、このような出会いや経験を通じて生まれ、生きられるものではないのか。

ですので、沖縄に生きているから沖縄の当事者であるのではなくて、沖縄を生きること⎯⎯⎯⎯沖縄に生じているさまざまな歴史的な経験や現在に向き合うこと⎯⎯⎯⎯のなかで、当事者となっていく、そのような視点を持つ必要があるのではないでしょうか。田仲さんだけでなく、新城郁夫さんが著書(たとえば新城郁夫・⿅野政直『対談 沖縄を⽣きるということ』岩波書店、2017)などで近年積極的に提起している点です。

(2)沖縄への応答責任
沖縄への応答として、近年では、「本土への基地の引き取り」が盛んに主張され、注目をされるようになっています。沖縄のメディアも基地引き取り論の特集を何度も行うなど、「基地引き取り論」に肩入れをしている状況でもあります。住民が示した意思や自己決定への要求がすべてないがしろにされ、辺野古での新基地建設が、高江でヘリパッド建設が強行される状況の継続のなかで、沖縄から「県外移設」という要求が上がってきたことに向き合うべきだと思います。日本国民が日米安保を認め、それを前提に社会を維持するのであれば、県外移設は当然ではないか、と。基地・軍隊を根底から批判してきた沖縄の運動が「県外移設」ということを言わざるを得ない状況があることを重く受けとめたいです。

また、沖縄の政治や運動の変化も大きいと思います。沖縄の革新勢力は単独で、県知事選挙や首長選挙を戦えなくなっている状況がつづいてきました。保守と革新が連携する「オール沖縄」という枠組みがつくられ、辺野古の新基地建設に反対していく新たな動きもつくられてきました。しかし、「オール沖縄」という枠組みの中では、高江のヘリパッド建設や宮古、八重山などへの自衛隊配備などの問題はとりあげられにくい。議論もしにくくなっていく。このような沖縄側の政治や運動の変化も、「県外移設」や「基地引き取り論」を支えていく背景になっていると思います。

「本土」側でも、左派的な運動の側から、日米安保体制を前提として、日米両政府が受け入れ可能な「現実的」提案を模索するという動きもあります。今、社会運動に対しては、「現実的なことを提案しろ」という考え方がその内外で高まっているのではないでしょうか。そうした中で、日米安保を根底的に問うこと自体が忌避されていく。ある提案が「現実的」かどうか、あるいは何が「現実的」かを誰が決めているのか、については不問にしながら、運動や政治が窒息させられているのではないでしょうか。

(3)軍事化という視点
現在を考える上で、「軍事化」という視点も重要だと思います。

軍事化は、軍事費が増える、基地が増えるといった話だけではなくて、基地・軍隊を中心として社会や文化、私たちの身体や思考が統制され、管理されていく幅広い変化のことをいいます。こうした視点を提示しているのが、フェミニストの国際政治学者であるシンシア・エンローでした。フェミニズムの視点は現在の状況を考える上で非常に重要だと思います。エンローは次のように言っています。

「軍事化とは、何かが徐々に、制度としての軍隊や軍事主義的基準に統制されたり、依拠したり、そこからその価値をひきだしたりするようになっていくプロセスである。軍事化されたものは脱軍事化されうるし、脱軍事化されたものは再軍事化されうる。」「迷彩服のカーキ色ではっきり塗られた山頂だけでなく、もっとずっと広い裾野まで広がっているのである。」(シンシア・エンロー『策略̶̶⼥性を軍事化する国際政治』岩波書店、2006)

「ずっと広い裾野」の軍事化のもとで、基地・軍隊が存在する。この視点からは、基地・軍隊を支えている日常的な裾野がどのようなものであり、それをどのように批判をするのかが問われます。そして、脱軍事化のために、誰とどのように手を結んでいくのかが重要になると思います。

フェミニストは、「正しい」戦争と「間違った」戦争があるのではない、「正しい」軍隊と「間違った」軍隊があるのでもない、軍隊は常に女性に対する暴力を行使する装置であると主張してきました。

現在の軍事化の進行に対抗していくためには
ウクライナでの戦争とも密接不可分なかたちで、今、日本の軍事化が進んで行く状況にあります。そして、辺野古、高江、奄美、宮古、八重山での基地の新設や強化が進んでいます。その中で、天野さんが批判した「外在的」ではなく、沖縄の諸運動と内在的につながる運動をどのようにつくれるのか。自分たちのそれぞれの経験を通底させ、共鳴させながら、どのように現場をつくっていけるのでしょうか。

まずひとつは、原則的な問題提起になりますが、国家を拒否・否定すること、国家から自律的であること、それなしには、基地・軍隊を問えないだろうということです。国家からどれだけ距離をとることができるのか、国家を前提とする思考から離脱することができるのか、さまざまな人と議論しながら深めることが必要ではないでしょうか。

この二年間のコロナ禍において、国家は機能不全にあるのだということを私たちは経験してきました。私たちは、国家なしに自分たちの生存を互いに思い、ケアし、生き抜いてきたのではないか。そう考えると、国家から自律した生、身体、思考というものは、それほど遠いところにあるものではなく、私たちの日常の中に、すでに生きられているのではないか。

また、コロナ禍とウクライナ戦争の中で見えてきているのは、私たちが⎯⎯⎯⎯もちろんグラデーションがあるにせよ⎯⎯⎯⎯難民的な状況に置かれてきているということです。国家が生存を支えるのではなく、国家が資本とともにさまざまな暴力を生みだし、私たちの生存を危機にさらしている。軍事費が増強される一方で、福祉、保健、医療などの予算が削られていく。私たちは日々、生存の危機を歩むことになる。難民的な生を強いられる状況にあるのではないでしょうか。

ウクライナの戦争をめぐっても、ウクライナ軍の徹底抗戦を応援する、そのための軍事的支援を行うべきだ、という世論が高まっています。それと連動して、日本の軍事費の増大、軍備強化、さらには核共有・核保有の声までも出ており、人びとの反戦の思いが、戦争や国家を前提とした構造のなかに囲い込まれていく状況にあります。

ウクライナには自らの意志に反して連れてこられたロシアの兵士がいます。また、ウクライナの18歳以上の男性は国外に退避することが許されません。このような兵士も難民的な状況にあると考えられないでしょうか。この戦争をめぐって幅広い人たちが難民的に状況に置かれています。私にはこの状況は、沖縄戦を生きた人びとの姿と重なって見えます。

反復帰論を唱えた一人である川満信一さんは、復帰後に「琉球共和社会憲法C私(試)案」を書いています。その11条には「琉球共和社会の人民は、定められたセンター領域内の居住者に限らず、この憲法の基本理念に賛同し、遵守する意志ののあるものは人種、民族、性別、国籍のいかんを問わず、その所在地において資格を認められる」とあります。また17条には「各国の政治、思想および文化領域にかかわる人が亡命の受け入れを要請したときには無条件に受け入れる」と書かれています。

川満さんは「復帰」と格闘するなかで、亡命者や難民に開かれた、国家によらない社会を構想しようとしました。このような構想と問題提起に、私たちはどのように共鳴できるのか、今、求められていると思います。

*2022年4月28日、文京区民センターで行われた集会「「講和」後70年の日本と「復帰」後50年の沖縄 象徴天皇制・日米安保体制下の日本と沖縄の歴史と現在」における講演を編集部でまとめたものです。文責は編集部にあります。

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