『読売新聞・歴史検証』(10-7)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道 7

「警視庁人脈で固めたから読売は伸びた」と自慢した正力

「失業インテリ」や「アカ」の反抗を防ぎながら、安くこき使うためには、それなりに社内の労務支配体制をも強化しておかなければならない。

『伝記正力松太郎』では、正力が、「社務の統括をする総務局長には警視庁で当時特高課長であった小林光政、庶務部長には警視庁警部庄田良」を、「販売部長には警視庁捜査係長をしていた武藤哲哉」を任命するという具合に、いわゆる本社機能の中心部分を「腹心をもって固めるやり方」をとったとしている。そのほかにも、警視庁以来の秘書役だった橋本道淳、警視庁巡査からたたき上げて香川県知事にもなったことのある高橋雄豺、「説教強盗」こと妻木松吉の逮捕で知られる元警視庁刑事の梅野幾松などの警視庁出身者を、つぎつぎに引き入れた。

 以上の最後の「梅野幾松」は、わたしがいた当時の日本テレビでも、正力の側に必ず控えていた。身辺警護の忍者といった雰囲気の小柄な老人であった。日本テレビには、ほかにも何人かの元警察官がいた。その内の一人は労働組合のある職場の委員に選ばれていたが、当時は執行委員のわたしの耳元で、「木村さん、元警察官を信用してはいけませんよ」とささやいたことがある。「わたしたちは組合の会議や行動をすべて会社に報告しなければならないんです。昔からのしがらみで、逃げることはできないんですよ」というのであった。

 もちろん、元警察官のすべてがそうだと断言する気はない。だが、読売に乗りこんだ当時の正力が、社内の要所要所に配置した元部下から常に社内情報をえて、労務支配を有利に進めていたであろうことは想像にかたくない。

 読売における元警察官の活用については、すでに本稿の冒頭で、つぎのような『巨怪伝』に収録されている証言を紹介した。

「昭和三十二[一九五七]年の第一次岸内閣時代、国家公安委員長となった正力に目をかけられた元警視総監の秦野章によれば、正力は往時をふり返って、警視庁人脈で固めたから読売は伸びたんだ、とよく語っていたという」

 秦野の証言は、さらにつぎのように続いていた。

「販売にも警視庁の刑事あがりを使ったというんだな。あの当時は、“オイコラ警察”の時代だから、刑事あがりにスゴまれりゃ、新聞をとらざるをえない。そうやって片っぱしから拡張していったんだって、正力さんは自慢そうによく言っていたな」

『巨怪伝』が紹介する証言のなかには、つぎのような恐喝まがいの話まであった。

「ベテランの販売員たちは、景品の出刃包丁を客に見せるときは、必ず刃を相手にむけ畳に刺してみせろ、などという指導までしていた」

 すでに何度も引用した同時代のタブロイド新聞、『現代新聞批判』には、なぜか、ここまでのドギツイ真相暴露記事が見当たらない。「読売恐るべし/高をくくった朝毎幹部/手遅れながら対策に腐心」(35・11・1)などと題する記事はあったが、そこでも、「読売は大阪二紙天領の地へどしどし進出し、すでに全関西で四万三、四千の紙をさばいている」というような実情の理由を、「販売店に対する操縦なども実に手に入ったもの」と評価している程度である。

 実情をいえば、「刑事あがり」とまではいかないとしても、各紙がそれぞれ競争で、これも現在につながるヤクザ拡張販売を展開していた。『現代新聞批判』といえども、やはり一種の業界紙である。これも現在と同様の新聞業界全体の共通の恥部には、あえて触れるのを避けたのではないだろうか。


(10-8)震災後に大阪財界バックで朝毎が展開した乱売合戦への復讐