『煉獄のパスワード』(7-9)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第七章 Xデイ《すばる》発動計画 9

「こちらも、ここから早回しにします。後は画面が同じで音もありませんから」

 早回しボタンを押すと一斉にしわぶき、空咳、溜息が漏れた。

 智樹は持ち帰った二本のビデオ・テープを映して《お庭番》チーム全員に見せた。不自然な編集の跡など、疑問点がないことの確認を求めたのである。

 

 帰国前に智樹は国際電話を二本掛けた。一本は原口華枝に。

 華枝は山城総研の研究室で仕事をしていた。智樹は多くを語らず、ただ、

〈あとひと仕事片付けたら何時でもインド旅行に行けるよ〉とだけ伝えた。

 もう一本は内閣官房の秩父冴子審議官に。

〈成田到着は昼過ぎの予定。ビデオ・テープを持って直行するから、《お庭番》チームを招集してスタンバイしてほしい〉と頼んだのである。

 ビデオ・テープの確認をして冴子に渡せば、弓畠耕一関係での智樹の任務分担は全て終了するのだ。あとは途中で引掛りができたXデイ《すばる》発動計画の始末だけだ。電話を掛けている時には、こうなれば一刻も早くけりを付けたいという気分になった。

 だが、飛行機が中国大陸を後にして海の上を飛ぶ頃には、別の気持ちが重くよどんでくるのを覚えていた。

 日本海を船で渡り、釜山から朝鮮半島を縦断して満州に旅した幼児期。中国大陸を追われ、大連から黄海、日本海を渡って日本に辿り付いた少年期。それらの断片的な追憶がいちどきに甦り、無秩序に押寄せる。押え切れぬ感情の波が全身を揉みくだく。智樹の気持ちの奥底には弓畠耕一失踪事件の終了扱いを拒否する気持ちあった。

 激情の高鳴りを堪えて目を閉じると、瞼に幻の人影が映って揺れた。

 北園夫妻がランドクルーザーの上から手を振っている。一度も直接会ったことのない二人が、哀しい静かな笑顔を浮べて、親しげにじっと智樹を見詰めている。目を開けて頭を振っても、二人の幻は立ち去らない。背後には禄朗・劉玉貴の姿さえ見え隠れしている。智樹が無意識下に押え込み、忘れようとしていた記憶と思いが、かえって反逆し、より具体的な姿を組立ててしまったもののようだ。

〈俺は白昼夢を見ている〉と思った。

 写真とビデオだけでしか見たことのない三人が何故にこうも鮮明な姿を現すのか。智樹は我ながら、人間の脳のシミュレーション能力に驚かざるを得なかった。

〈無念の思いなのだ〉と智樹は自覚した。

〈俺自身にも共通する北園夫妻と禄朗・劉玉貴の無念の思いが、時間と空間を超えて俺を動かそうとしている〉と感じた。

 北園和久が自爆するような思いで追い求めた父親の処刑の真相は、ついに弓畠耕一の口から引き出せなかった。物的証拠となりうる新資料も発見出来なかった。

 これでは、智樹の極秘コレクションに加える事件資料としても決定打を欠くうらみが残る。

 智樹は千歳との会話では張家口の記憶をなつかしんだが、急ぎの仕事を理由にして、張家口へは足をのばさなかった。しかし、仕事は本当の理由ではなくて、自分を納得させる口実だったのかもしれない。

 かすかな罪悪感があった。無意識に張家口の思い出を避けているような気もした。今では大方の日本の歴史書に名前さえ記されない蒙疆傀儡政権の首都、張家口。そこで望まれざる生を受けた劉玉貴、幼児期に母親から引き離された北園和久、その妻で天涯の孤児、亜登美。三人の死者が飛行機の上の智樹を、過去の張家口へと呼び返していた。

 智樹の躰の中にも出口を求めて空しくうごめき続けるものがあった。少年期の中国体験があった。満州で死んだ妹がいた。日本に帰りついた途端に死んだ母がいた。中国で戦い、敗れ、囚われた父がいた。

 

「以上です。ご確認願います」

 智樹はテープを巻き戻し、ケースに収めて冴子に手渡した。わざと水平に手を伸ばし恭しく腰を屈めて、おどけてみせた。

「ご苦労様でした。不肖ながら私、これを間違いなく御注文主にお届けします」

 と冴子も応じて重々しく受け取った。一同は一斉に拍手した。

「まあ。やれやれ、という感じですね」と小山田特捜警視。「弓畠耕一失踪事件そのものには、これ以上の組織的背後関係はない。そう結論付けて良いのでしょうね」

「うん」と絹川特捜検事。「もう一つ、最後の当てが外れて、呆気ないような気分もしますがね。やはり私も蒙疆の生アヘン盗難事件の真相を知りたかったんです。弓畠耕一長官のいまわの際の告白とかいう奴でね」

「そうでしょう。でも私、何だか、そんな予感がしましたの」と冴子。「だって、内容はおっしゃらないけど、影森さんの国際電話の口調にそんな感じがあったんですもの。ただただ疲れたというか、祭りが果てた後のような虚脱感が伝わってきましたわ」

「さすが、女性ならではの直感ですか」と小山田。

「はい。有難うございます。やっと、女性と認めていただけまして」と冴子。

「いえいえ。何時でもそう思っていましたよ。巴御前は確かに女性なんですから」と小山田が調子に乗る。

「まあっ、なにをいい出すか、油断も隙もありませんわね」

 冴子は冗談を飛ばしながらもビデオ・テープを丁重に金庫に納め、ゆっくりと鍵を掛けた。智樹はその後ろ姿を見ながら心の中で手を合せていた。この《お庭番》チームをも裏切って秘密裡に済ませた作業を思い出さざるをえなかったからだ。智樹は北京でビデオ・テープのダビングを済ませた。自分用のコピーの他に千歳のもとにもワンセットを残してきたのである。それは、まさかの時の用心のためでもあった。まだ、千歳ばかりでなく、秘密を知った智樹をはじめ、《お庭番》チーム全員が命を狙われる危険も残っているのだ。最後まで安心はできない。証拠を押えて置く必要があるのだ

「でも、良かったわ」と冴子が思い入れよろしく溜息をついた。「私、ビデオ・テープの内容如何では、北園夫妻と千歳さんの命が掛かっているのではないかと思って、ハラハラしていましたのよ」

「そうですね」と絹川。「誰がとはいいませんが、目撃者を消せということで、プロの殺し屋を差し向けようと考えていたかもしれませんね。過去の秘密だけでなく、目下進行中のXデイ《すばる》発動計画の秘密もありますから。……私も、あのビデオ・テープを見るまでは気が気じゃありませんでしたよ。北園夫妻はお気の毒ですが、この内容ならまさか、千歳さんの命までは狙わないでしょう」

「私の北京出張には殺し屋はくっついては来なかったようです。多分、彼等にはなにも手掛りがないので、我々の仕事が終わるまでは手を出さない積りだったのでしょう。私も北園夫妻と千歳さんの安全が気になっていましたから、万一の場合にはどうしようかと色々考えましたよ」

「ほう」と絹川が首をのばす。「何か良いアイデアが浮かびましたか」

「まあね」と智樹は謎めかして、ニヤリ。「テレビの『スパイ大作戦』ばりの偽装殺人計画でしてね。彼等三人が死んだことにして、中国の奥地に逃がすんです」

「それは面白そうですね。聞かせて下さいよ」

「秘密、秘密……。またの機会のお楽しみ。このアイデアは大事にしまって置きます。しかしともかく、北園夫妻が自ら死を選ぶとまでは予測出来ませんでした」

 

「死んでくれて一安心の連中がいるのが一寸しゃくにさわりますがね」

 と小山田は目をギョロリ。智樹をじっと見詰めた。

「影森さん。しかし、今後が心配ですね。どこぞの暗黒組織の話ではありませんが、仕事が終わればご用済みということも、……。身辺に気をつけて下さいよ。Xデイ《すばる》計画の陰謀を進めている連中にとっては、影森さんの存在は目の上たんこぶなのですから」

「分っています」

 Xデイ《すばる》発動計画に関しての突破口は、まだどこからも開けていなかった。

 だが、それまでに集まった情報からはますます危険な匂いが立ちこめていた。最初はクーデター計画の現実性に対してもっとも懐疑的だった冴子でさえ、本気になり始めていた。

「では続きまして、……。新しい話があります」と冴子が資料コピーを配った。

「影森さんのご手配で、お留守の間に防衛庁調査課の徳島さんから情報をいただきました。徳島さんも表立っては動けませんので、これはお手元の人事資料からの抜粋です。興亜協和塾出身の自衛隊員リスト。現役と退官者、将校、下士官、平隊員に分けてあります。特に注目していただきたいのは、別にファイルした人事資料と新聞や雑誌の記事、英文の報告書です。全て、道場寺満州男に関するものです。道場寺満州男は現在、興亜協和塾の事務局次長ですが、元陸上自衛隊二等陸尉。アメリカで特殊部隊の訓練を受ける。鮫島征男の御楯会に参加。鮫島がクーデター呼び掛けに失敗して自刃した後、自衛隊を退官してアンゴラの右派ゲリラ、UNITA、アンゴラ全面独立民族同盟の白人雇兵隊で実戦を経験。……

 あらッ、なによッ、この人だわッ」

 ファイルをめくりながら報告していた冴子がその手を止め、柄にもなく金切り声を上げた。右手の人差し指がピタリと雑誌記事の写真の顔の上に置かれている。

「この人よッ。弓畠耕一長官の告別式の時に、あの老人の護衛役でピッタリくっついてきた人なのよッ」

 ほかの三人はポカンとして互いに顔を見合わせる。

「そうだわ。……あの時、この人は式場の中には入らなかったわ。皆さんは式場の中にいたでしょ。だから、皆さんには記憶がないわけね」

「そうか。彼か!」と智樹がうなった。

 目をつむったまま上を向き、あごを引き締める。長い間、脳の片隅に押込め続けてきた記憶のいまわしい断片が、ドドッと急激な接触を求めてきたのだ。脳神経のシナプスがパチパチ焦げる音が聞えるようだった。智樹は、吐き気がするような記憶の悪臭とショックに耐え、それを真正面から受止めようとしていた。

「ご存知の方なんですか」と冴子が気を飲まれたようにつぶやく。

「ええ。よく知っている男です」

 智樹はそういいながら、〈忘れようと務めてきた男の一人〉という言葉のかたまりを、喉元で押え付け、急いで飲み込んでいた。何日か前から頭の隅でチリチリとくすぶっていた記憶のチップの一つは、この男のことだったのだ。

「済みません。今頃になって思い出して」と智樹は重い気持ちで説明を始めた。

「Xデイ《すばる》発動計画の盗聴テープの件は、私が口で皆さんに説明しただけなので、どうしても実感にへだたりがあったと思いますが、私が聞いた中で、一番気になっていたのがこの男の声でした。非常にリアリティがあったのです。……

 今、この資料を見て、あの声と名前、顔が全て一致しました。彼は自衛隊関係者の中でも最も危険な男です。確かに、弓畠長官の告別式の会場の中では、陣谷弁護士と大日本新聞の正田社長があの老人に付添っていましたね。道場寺満州男はきっと意識的に、あの会場の中に入るのを避けたのでしょう。そういう男です、彼は。時々、陰に身を潜めたがるんです」

 智樹は徳島の資料の中にも触れられていない事実のいくつかを一同に物語った。

 道場寺満州男は鮫島の御楯会だけでなく、自衛隊幹部のタカ派グループ、調査課内での通称《白虎会》にも加わっていた。その当時の調査課の部外秘報告書には、〈口数が少なく、黙って行動に出る危険なタイプ〉だと書かれていた。

 智樹は彼と直接接触した事件について、つい最近になって思い出している。

〈そうだ。それで、あの日に思い出したんだ〉

 その日が弓畠耕一長官の失踪を知らされた会議の日だったと気付いて、不思議な気がした。記憶の断片を刺激したキーワードは〈Xデイ〉であった。

 あの事件では、勝又陸曹がトカゲの尻尾にされ掛かったが、そうして逃げ切ろうと企んでいたのが道場寺満州男であった。事件の背景には彼等の政治目的のための機密費の捻出が隠されているようだった。人脈をたどると、当時陸幕の装備本部長だった角村丙助の姿がちらついていた。

 事件は智樹がもみ消したから、角村も道場寺も表面上はなんら責任を問われることはなかった。

 本来なら彼等関係者は、智樹ら調査課員の努力に感謝してしかるべきところである。しかし、そうはならなかった。彼等は逆恨みを抱いた。その後も集まっては〈防衛局の官僚どもが〉といった不満をもらしている、という噂が伝わってきたものである。

 智樹には不愉快な記憶だったし、後にまた別の事情が生じたためもあって、事件のその部分は務めて忘れるようにしてきたのであった。

「なんといっても、戦争のない国の軍隊の役所ですからね」と智樹は解説した。「シビリアン・コントロールもありますし、現場の部隊勤務者と本庁の高級官僚化した幹部との間は、あまりしっくり行かなくなります。軍人としての能力と官僚的事務能力とは、逆比例している場合が多いもんですから、この矛盾の解決は容易ではありません。時にはそれをわざと煽って、ためにするものも出てきます。そういう不満分子の一方の旗頭が、この道場寺満州男でした。彼は当時から狂信者タイプとしてマークされていました」

「私の方でも洗ってみましょう」と小山田が約束した。「出生。家族関係。ここには本人の戸籍だけしかありませんからね。調べてみましょう」

「私も」と絹川。「興亜協和塾の事務局次長ということならば、政治献金などにも関わっている可能性が高い。政界筋を探ってみましょう」

「くれぐれも相手方に抜けないように」と冴子。「では、近日中に再びXデイ《すばる》発動計画の状況を検討をすることにしましょう」

 

 散会後に冴子が影森の肩口をたたいた。

「そういえば」と意味ありげに微笑む。「つい忘れていました。弓畠長官未亡人からご指名のお呼びが掛かっています。事件の経過を伺いたいので、影森さんに頼んでほしいとのことでした。何でも、葬儀の時に蒙疆駐屯軍の名簿で影森さんのお父さんのことを知られたそうで、ついでに中国関係の話も詳しくうかがえればとか……」

 この間、弓畠未亡人との連絡窓口は冴子になっていたので、その口調にはいささか勘ぐりぎみのところがあった。智樹は必要以上に首をかしげ、これまた面妖なという顔を作って応じた。

「参りましたね。あの奥方は拙者、苦手でござるよ」

「オホホホホッ……」


(8-1) 第八章 《時限爆弾》管理法 1