『煉獄のパスワード』(7-4)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第七章 Xデイ《すばる》発動計画 4

「現地に張り付けたのは、石神と野火止という二人の刑事です」

 と小山田警視正は報告を続けた。

「石神刑事は結婚相談所の私立探偵を装ったようですが、……こちらの聞き込みは近所のお婆さんからです。春先に風で砂が沢山散ったので、朝方、道路の掃除をした。竹箒で道を掃きながら塾の側の溝の底を見たら、塾の下水の出口から下流の方が赤く染まっていた。血の色のようで気味が悪かった。その晩、もう一度溝をのぞいて見ると、赤黒い排水が煙のようにモクモク吹き出していた」

「あら。聞いているだけでも気味が悪いわ」

 と冴子。一同もドキリとした表情。

「済みません」と小山田がペコリと頭を下げて続ける。

「もう一人の野火止刑事は自動車のセールスマンに化けました。こちらは一杯飲み屋のママさんの話です。自分が飲みたいのが先だったのかもしれませんが、それはこの際置いときまして、……この報告が面白いんです。ママは結構美人でして、聞けば、かっては映画女優。段々詳しく聞くと、どうやらポルノ女優。ほら、老舗の活映が経営危機になって、ロマンチック・ポルノという一寸気取ったポルノ映画を作っていた時期があるでしょ。あの頃らしいんですがね」

「あら、今度は一寸いやらしいわね」と冴子が牽制する。「過去のことはあまり詳しくなくても結構ですよ。一体なにが分ったんですか」

「はい。それで、……つい最近、ママが現役女優の頃の監督が店に来たことがあるという話なんですね。ポルノ路線になる前には活映名物のヤクザ映画で、かなり売っ子の監督だった。ポルノでもSMがかった好みでママには刺激が強過ぎたらしい。麻薬中毒だという噂もあった。その監督が例の塾の連中と一緒に店に来たというんです。ママは、てっきり監督が自分のことを覚えていてくれると思って、〈あら、先生……〉と旧知の挨拶をし掛けたのに、知らん顔をしている。どうも様子がおかしい。そこで、塾の連中が一寸席を外した隙に、もう一度〈ねえ、先生。私のこと、もうお見忘れですか。脱がせてイジメないと思い出せないのかしら〉とアタックしてみた。ところが監督は慌ててママに目配せをする。〈ここでは知らない間柄にしてくれ。君に迷惑が掛かるといけないから〉といった……」

「うん。これは匂う」

 と絹川特捜検事が身を乗り出す。しかし、皆が同じ目付きをしているのに気付いて、「いや、ご一同も、同じ事をお考えのようですが、……」

「どうぞ、どうぞ」と冴子。「絹川さん、おっしゃって下さい」

「では」と絹川。「塾の中にスタジオがある。連中はその映画監督を使って、クーデター計画の最初の襲撃シーンの特殊撮影をしている。血の色と見えたのは泥絵具。どうですかな」

「ピンポーン。私もそう感じたわ」と冴子。

「私も同じですが、小山田さん、血かどうかは調べられませんか」と智樹。

「はいはい。皆さん、さすがに鋭い」と小山田は嬉しそうに揉み手する。

「ここで電話がジリリン……と鳴れば上出来なのですが、まだのようです。私も昨晩報告を受けてすぐに勘が働きまして、連中に気付かれないように、夜中に溝の底の泥を浚えと命じました。比較のために、塾の上流と下流の両方を指定しましてね。朝一番で本庁の鑑識にルミノール反応を調べて貰って、ここへ電話をくれる筈なんですが、……」「さすが、さすが」と冴子が拍手。

「いえいえ。私も今朝までは全く意味が分らず、半信半疑だったんですよ」と小山田は謙遜のしぐさ。

「だって、クーデター計画なんて話はこれっぱっかも知らないでしょ。でも、先刻の影森さんの話で本当にピーンと来ましたね。つまり、殺しの場面のヴィデオ録画ですよ。ヤラセで本当に殺させるってのは難しい。ところが、殺しが無ければ〈緊急事態〉と認定出来ないし、おそらくはテレヴィ報道に釘付けになっている一般国民を引きずりこみにくい。だから、現場中継の画面と、あらかじめ撮って置いた殺しの場面の特撮ヴィデオを一緒に編集する。野球や相撲の実況中継でいつもやっていることです。〈先程のシーン〉とか先場所の勝負〉とか。最近は画面の切り替えの手際が良いですからね。そうでしょ」

「一寸待って下さいよ」と冴子が興奮ぎみに手を振りながら、ヒミコの前に移動した。

「消防庁に届け出てる図面があれば、それで決定的でしょ」

 待つ程もなく図面は出てきた。記録によると、興亜協和塾の一階ホールは一年前に改造されていた。防音ドアなどの設備が施され、照明器具が天井に吊るされる撮影スタジオの構造であった。

「ううむ。こりゃあ間違いないぞ」と絹川が興奮ぎみに細い腕を振り回す。「そうだ。しかしですね、……少なくとも二種類は特撮ビデオを用意して置かないと」

「何ですか。その二種類というのは」と冴子。

「季節ですよ、季節」と絹川。「Xデイの季節をあらかじめ決めるわけにはいきませんからね。警察官の服装が変わります。夏服とスリーシーズン。襲撃する側の服装も同じことです。自然の風景は、桜が蕾か散り際か、……。凝ればきりがありません。建物だけをバックにするとしても、服装だけで二種類は撮影して置かないと、……」

「それだ」と智樹も興奮する。

「それで読めました。〈興亜協和塾での作業〉の話には〈夏の分はもう完了した〉という意味不明の報告のがあったんです。つまり、冬の分はまだなんです。作業はまだ続きますよ。こちらとしては、時間が稼げたことになります」

 そこへ電話がジリリン……。パッと小山田の手が延びる。

「はい。私です。つないで下さい。……おう。ご苦労さん。……うん。……うん。分った。うん。……うん。……じゃ、また、引続き見張りを頼むよ」

 受話器を置く小山田に一同の視線が集まる。小山田は黙ったまま右手の親指と人差し指でマル印を作り、左の目でウィンクした。ホッと一同の溜息が漏れる。

「お見事、お見事」

 と冴子が両手をバタバタ振る。

「それで、どうしましょう。影森さんがいわれたポイントははっきりしたわけですわね」

「はい」と智樹。「ただし、作業の進行状況がもう一つ分りませんけどね。冬の分がどこまで完成しているでしょうか。おそらくテレビ局で使用しているのと同じ業務用ビデオ・テープで撮っていると思いますが、撮影が終わってしまえば、後はどこか小さな録音スタジオでも編集出来ます。そうなると、取り押えにくくなるでしょう。しかし、それはまあ、戦術の細部に関わることでして、問題は我々の基本戦略ですね」

「おお、ついに〈戦略〉が出て来ましたか」

 絹川が我が意を得たりとばかり、背筋を伸して座り直す。

「いや、実は私、今度は大変な捕り物になってきたな、と考えていた所なんです。敵味方の状況が複雑ですし、すでに死者も出ている。相手は偽装殺人さえ敢えて犯す凶悪な一味です。《お庭番》チーム本来の任務である情報収集だけでは解決できそうにない。ここは本式に一戦交えなくてはなるまいと、無い頭をひねっておりました。捜査の基本なら小山田警視、戦争となればやはり影森元一等陸佐。ここは冗談でなく影森さんに参謀総長を引き受けて戴いて、基本をきちんと踏むべきであろうと、かよう愚考いたしますが、ご一同、いかがでござろうかな」

「そうですわね」と冴子が興味深げにうなずく。

「ハハハハッ……。そうまでいわれては、引き下がれませんね」と智樹。「しかし、私にも実戦経験はありませんからね。まさに畳の上の水練になりますよ」

「今の日本で実戦経験のある元参謀は七十歳以上の老人だけですよ」と絹川。「しかも負け戦ですから、遠慮は要りません。さあさあ、お立会い。孫子ですか、クラウゼヴィッツですか。たまには原典の解説付きで願いますよ」

 

「アハハハッ……。参りましたね」と智樹。「戦略・戦術論に関してはですね、絹川さん。三十年程前にイギリスの軍事評論家のリデル・ハート大佐が孫子以来の古今東西の研究を集大成しまして、『戦略論』という大著を発表しました。日本語訳も出ています。我々の世界ではもう、これを知らないと議論になりませんね。リデル・ハートは第一次世界大戦の時は歩兵大尉で参戦し、一九二七年に『近代軍の再建』を発表しました。イギリス戦車隊参謀長フラー小将の〈機甲戦略論〉を発展させて、歩兵の軽機関銃装備などへの近代化を提唱しています。当時の大国でこの理論をまともに採用しなかったのは日本ぐらいなものです」

「日本人が書いたものは無いんですか」と絹川。

「それは無理です」と智樹。「能力の問題もありますが、この世界では〈敗軍の将兵を語らず〉が鉄則です。あれだけ惨敗したら、もう、ただただザンゲしかありませんよ。それすらまだ不充分なんです」

「なるほど。リデル・ハートの『戦略論』ですか」と絹川。「一応、覚えて置きましょう。しかし、今更私らが読んでも身に付くわけはありませんし、下手すりゃ、船頭多くして船山に登る、でしょ。戦略は影森さんにお任せしますよ」

「恐れ入ります。では」と智樹。「リデル・ハートは戦略にも戦術にも通用する八ヶ条の金言を要約していまして、これがなかなか面白いんです。その第一ヶ条は〈目的を手段に適合させよ〉。説明の中には〈軍事的英智は『何が可能か』を第一義とする〉などとあります。〈『消化能力以上の貪食』は愚である〉ともいっています。日本の旧軍の指導者に一番聞かせたかった言葉ですね。要するに、兵力に応じて目的を決定せよ、ということです」

「兵力、ねえ」と絹川が肩をすくめる。「この場合、我等数名のことでしょうか」

「巴御前の空手チョップもあるようですが、……」と小山田。

「まあッ」と冴子がにらむ。

「そうですね。アハハハッ……」と智樹が続ける。「しかし、この人数だけではありません。それぞれの立場で動かせる組織力もあります。まずクーデター計画の動かぬ証拠を握ってから、《いずも》で主導権を取って勝負に出る。一網打尽は狙わず、計画を潰して再発を許さない程度の打撃を与える。《いずも》の有力メンバーの中にもクーデター荷担者がいると思いますが、我々が中央突破作戦の決意を示すことが肝腎です。手足をもぎ取ればシャッポの方は態度を変えますよ。さきほど絹川さんがおっしゃった二・二六事件の皇道派の将軍連中が良い例です。自分の手を汚さずに、成功した場合だけ自分の手柄にする。失敗しそうだと見て取ると、そっと逃げ出す。どの世界にもいる権力亡者の類いです。

 ただし〈窮鼠かえって猫を噛む〉。あまり追い詰めると逆襲されます。しかも、いずれもただのネズミではありません。結構な権力をにぎっています。ですから、どの範囲をたたくかを最初に決めて、早目に明らかできるようにして置いた方が良いのではないでしょうか」

「検挙する前に判決を決めて置くようなものですね。ハハハハッ……」と絹川。

「影森さんには既に、お考えがおありのようですね」と冴子。

「はい。丁度良い材料があります」

 智樹はまた別のファイルを取り出した。

「つい先頃の週刊誌のスクープ記事です。〈三等陸佐・謎の死のダイビングの陰に防衛庁の悪徳七人組、統幕のドンを名指した怪文書が指弾する利権コネクション〉。この記事はかなり確かなものです。私は信頼の置ける後輩からも裏を取りました。防衛庁の現役とOBは、この記事の範囲で充分ではないでしょうか。角村などの天下り組も政憲党代議士も入っています。この他に興亜協和塾関係の中堅どころを数名程……」

「すると」と絹川。「政憲党の下浜安司、清倉誠吾、江口克巳、都知事の鮫島和敏、大日本新聞の正田竹造、弁護士の陣谷益太郎、軍事評論家の剣崎近雄、……。この連中はシャッポ扱いで、逃がしますか」

「そうなりますね」

「あの塾長、ええと、久能松次郎も逃がすのですか」

 と冴子は不満げである。

「これが一番難物ですね」と智樹。「《お庭番》チームの任務である〈スキャンダル隠し〉が問われます。あの老人は存在自体がスキャンダルですから、痕跡を残さずに消せれば一番良いんですが、……。我々には007のような殺しのライセンスはありませんしね」

「しかし、年も年ですからね」と絹川。「塾のナンバーツー、ナンバースリーぐらいを挙げて、封じ込める。後は時間が解決してくれるのを待つ。そんな所でしょうか」

「挙げるって?」と冴子。「でも、どうやってですか」

「ねらい所はもう明らかではありませんか」

 と絹川が智樹の顔を直視する。

「基本線は、興亜協和塾に踏みこんで証拠をつかむ。これ以外にありません」と智樹。しかも一刻の猶予もなりません。早ければ早い程、それだけ有利です。我々の兵力だけでも、やる気になれば突破できます。リデル・ハートの八ヵ条では第四の〈最少抵抗線に乗ぜよ〉に当たります。信長の桶狭間奇襲ですね」

「嫌疑は何ですか」と冴子。

「決っているじゃありませんか」

 と絹川は小山田に顔を向ける。

「浅沼巡査部長と長崎記者の殺害容疑ですよ。ここは小山田さんに決意をしていただいて、……」

「こりやあ厳しいですね」

 と小山田は苦渋を隠さない。

「いずれは、そういう話になるとは思っていましたが、……。私自身も一番やりたいことです。しかし、現行犯逮捕ではありませんから、捜査令状が必要です。ところが直後に請求をしたのが上で押えられたままです。理由は一応、立証困難ということになっていますが、それだけではないでしょう。NTTに頼んで興亜協和塾の電話を盗聴しようと思ったんですが、その許可も下りません。下手に動くとまた潰されるし、それ以上に危険なのは相手に抜けて証拠を隠されることです」

「そこを敢えて中央突破してみてはどうですか」

 と絹川はさらに迫る。

「小山田さん。ここが天王山です。考えて直して下さい。確かに向うのガードも固いでしょう。しかし、ことは警官殺しにマスコミの事件記者殺しですよ。最も悪質な、犯罪隠しのための犯罪の積み重ねです。記者仲間も見殺しにはできない。公けになれば大問題になる事件です。当然、向う側でも意見が食い違うはずです。あれは、塾にいた連中だけの判断によるとっさの処置ですし、過剰反応です。さっきの殺しのシーンのビデオの話と逆の立場ですよ。殺しはやり過ぎなんです。反感を煽るのです。こういう時には、先に〈リメンバー・パールハーバー〉と叫んだ側が勝ちではありませんか。しかも、憲政党は一枚岩とは程遠い。クーデター勢力に主導権を握られるのを嫌う派閥が沢山あります。戦略、戦術さえ適確なら、正当な根拠にもとずく正面攻撃、中央突破を止めることはできませんよ。

 どうですか、影森参謀総長のお考えは、……」

「ええ」と智樹は腕組みをして、慎重に応ずる。

「基本的には絹川さんのお説の通りだと思います。中央突破作戦でしょう。ただし、小山田さんのルートだけで再度押すのは危険かもしれません。リデル・ハートは〈八ヶ条の金言〉を〈積極面六ヵ条〉と〈消極面二ヵ条〉に分けています。〈消極面〉の最後を要約すると、〈いったん失敗した後に同じ線または形式に沿う攻撃を再開するな〉です。敵がそこに兵力を増強しているかもしれず、撃退の経験で精神的にも強化されている場合が考えられるからです。出来れば新しいルートも研究する方が賢明でしょう。その上で、それぞれのルートで一斉に攻めるというのはどうでしょうか。これはクラウゼヴィッツがナポレオンを倒す時に提案した戦略で、分進合撃というんです。なかなか呼吸が合わない連合軍を、それぞれの方法で分れて進軍させる。しかし、フランス軍を撃滅し、パリを攻略するという目的だけは一致している。そういう方針ですが、……」

 智樹は冴子、絹川、小山田、二人の検事と一人の刑事の顔をグルリと見回した。


(7-5) 第七章 Xデイ《すばる》発動計画 5