『煉獄のパスワード』(1-1)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第一章 暗号コード《いずも》 1

 影森智樹が最高裁長官の失踪について最初に知らされたのは、極秘の情報機関連絡会議《いずも》の定例会議の席上であった。

 日時は、昭和Xデイ準備の噂が立ち始めた年の初夏。

 場所は霞ヶ関の法務省別館ホール。

 退屈な会議の眠気覚ましには持ってこいの刺激であった。

 それというのも、この日、影森智樹の退屈は頂点に達していた。定例会議はお偉方むけの儀式だから、実務サイドが居眠りをするわけにはいかない。自分の報告は終わってしまったのだが、残りの報告も畏まって聞いている振りをしなければならない。だが、一度襲いかかった眠気を追払うのは容易ではない。仕方なしに、壁の飾り時計の針の動きをそっと伺い、会議終了後の交通時間を暗算で確めることで、気怠さをこらえていた。

 何度も通っている経路なので大体の検討は付いているのだが、時間潰しだから、わざと念入りに計算する。会場から地下鉄日比谷駅までの歩行時間。電車の待時間は最大限度に見積もる。駅を一つ一つ思い出して数え、一駅区間を二分で計算。乗換えの歩行時間。もう一度待ち時間。また、駅を一つ一つ思出して数えて一駅二分で計算。最後に自宅まで徒歩十分。合計、最大で一時間あれば充分、と出た。これなら、ほとんど必須の日課となった水泳の時間が取れそうだった。

〈時間通り六時に終わってくれれば、この辺で食事を済ませて三十分。帰宅中の一時間で胃袋は落着く。七時半に帰宅。五分で着替えてプールに直行する。一時間以上泳げる。結構々々〉

 スイミングクラブの終了時間は午後九時である。いつもの練習スケジュールをこなすためには最低一時間必要である。時間がなければ短縮コースにせざるをえないが、一日の日課をやり残した気分では快眠ができない。

 一時間コースに決めて、今度はイメージトレーニングに取り掛かった。最先端の精神訓練法は、いわゆる精神主義の根性路線とは全く違う。快調な時の筋肉の動きをイメージとして再現し、記憶を強める。全身のコントロールを容易にする訓練である。ただし、智樹がやっているのは本式の訓練ではない。オリンピック選手の話しにヒントを得た自己流のストレス解消法である。やってみると、ヨガの境地に似ている。精神統一さえできれば場所を選ばないし、神経が休まるだけでなく、筋肉のリラックスにもなる。馴れると心地好いものである。

 意識的に様々なストレス解消の努力をするようになってから、すでに十年が過ぎていた。智樹には、そういう努力を必要とする事情があったのである。

 智樹は頭の中でウオーミングアップのクロール二百米を済ませ、短距離ダッシュを身構えた。全身が暖まって気分が高揚してくる。プールの水を思い浮べて飛込みの姿勢を取った。

 その時、すこし前から中座していた内閣官房審議官の秩父冴子が、重い扉を静かに押し開けて戻って来た。

 悪い予感がした。

 案の定、冴子は、獲物を狙う雌豹のような目付きで智樹を見据えた。真直ぐにすり足で近寄って来て、耳元でささやく。

「影森さん。ご予定もおありでしょうが、会議の後で緊急の相談があります。最高裁長官が行方不明だということです。どうでしょう。都合をつけていただけますか」

 そういう事態では否も応もない。軽くうなずくしかなかった。冴子は次なる獲物を目掛けて、足音ひとつ立てずに歩み去った。

 足取りが異常に軽い。踊る様に歩くのも道理で、学生時代には社交ダンスの選手権を取ったことがあるという噂の翔んでる女。ダンスの名手で司法試験にも合格ときては、気障の標本みたいな女流エリートである。しかも最近は空手修行で躰を鍛えているという。軽いすり足の気があるのは、そのせいらしい。検事上がりで、法務省から内閣官房に引き抜かれた審議官。官房長官の補佐役、キャリアの女性官僚中では出世コースの筆頭。夫は弁護士で、娘が一人。家事はもっぱら夫と家政婦に任せて男性官僚に負けず劣らず、夜の顔もつないでいる。四十歳。智樹より一まわり年下だ。

 列席者全員がもっともらしい顔作りを競っている秘密情報機関会議の席を縫って、超々極秘の最新情報を耳打ちして歩く。正式の仕事ではない。いやいや、職業柄、こういうのが本命の仕事というべきであろうか。ともかく、秘密好きの冴子には打って付けの仕事である。努めて無表情で平静を装っているのが、かえっておかしい。

〈いくら隠したって駄目だよ。ほら、腰が踊ってるじゃないか〉

 智樹は、冴子が絶好の題材にめぐり会って、心の底では時を得顔の喜びに浸っていると見た。

〈御予定もおありでしょうが、だと。抜かしやがって〉

 冴子とは、既に何度かチームを組んで仕事をした仲である。耳打ちをして回っている相手をみると、やはり、いつもと同じく《いずも》事務局の選抜メンバーで、通称《お庭番》チームの面々であった。「御予定」とは、冴子が智樹のプール通いを知り抜いての上での台詞なのだ。

〈甘ったれめ、他人の趣味を邪魔をするのが余程嬉しいと見える〉

 別に憎むべき敵手ではない。しかし、今の今、イメージトレーニングを中断されたストレスもある。そのはけ口が必要だった。智樹は頭の中で冴子の胸倉をつかみ、優雅に踊らせながら足払いに掛けてやった。ダンスはいざ知らず、空手や柔道なら、こちらの方が段違いの腕前なのだ。

 会議は終わりに近付いていた。予定された議題の報告と質疑応答は全て終わり、主だった実力者の意見も出尽くしていた。あとは、儀礼的な感想の交換だけである。

 智樹の退屈には大いに理由があった。会議の内容は、すでに熟知している問題ばかりである。時間の経つのが、いつもより遅く感じられる。うっとうしい気分である。永年この種の会議に参加しているが、このところ、とみに会議の報告に対する興味を失っている。この種の会議につきまとう官僚臭も鼻について仕方がない。

 参加者で民間人の資格の者は、智樹の他に、NTTとKDDの両社長室長、NHKの理事と新聞協会会長、日本民間放送連盟専務理事の五人だけであった。NTT、KDD、NHKは半官半民の性格、新聞協会理事長は元内務官僚、民間放送連盟の専務理事は元郵政官僚の天下りだから、どちらも純粋の民間人とはいえない。智樹自身もそうであった。官僚集団は、この種の秘密会議に純粋の民間人を仲間に加えたがらないのである。

 智樹は防衛大学校、略称〈防大〉を卒業し、しばらくは地方師団の部隊で勤務した後、本庁の防衛局調査課で情報関係を担当してきた。調査隊別班の隠密活動も経験した。昔の陸軍大学に当たる防衛研修所の教官を兼務したのを最後に退官し、以来、山城総力研究所、略称〈山城総研〉の特別顧問という身分になっている。陸上自衛隊での最後の階級は二等陸佐、昔だと中佐の位であった。防大では三期生だったが、同期生が将官になり始めている。

 だが智樹の身分は単なる天下りではない。特別顧問の時折の仕事は隠れ蓑で、本命の任務は《いずも》のホスト・コンピュータを中心とするネットワークのお守り役である。山城総研は世界で最高水準の大型汎用機やスーパー・コンピュータを何十台も備えているし、次々に最新型を導入する資力もあった。《いずも》は内密に山城総研を通じて、日本全体の情報機関だけでなく、合法非合法に連結できる限りのコンピュータ情報のネットワークを築いているのであった。

 アメリカのスパイ小説には秘密情報機関の巨大なコンピュータ・センターがよく登場するが、あの発想はすでに過去のものである。

 今では電話回線ばかりでなく、宇宙衛星の無線利用も含めたネットワークが世界中に繋がっている。日本でもKDD・NTTを媒介とするネットが張りめぐらされている。《いずも》の事務局にはKDD・NTTも加わっており、盗聴防止のスクランブル暗号方式で守られた特別の秘密ネットを確保してくれている。端末機器も特別誂えで製造し、常に最新型を先取りする高性能を確保してきた。愛称は《ヒミコ》。現在使用中のものは第七代目だから、正確な呼名は《ヒミコ7》である。一台でパソコン、ワープロ、ファックス、マルチ機能電話を兼ね備え、画面は緊急時のテレヴィ会議にも使える。もちろん、《ヒミコ》シリーズは市販されるどころか、その存在自体が秘密にされている。

 この超高性能端末器《ヒミコ》さえあれば、有線でも無線でも山城総研のホスト・コンピュータを自由に操作できる。しかもそこには、もう一つの市場未公開の秘密があった。データベース統合化ソフトウエア、略称《統合ソフト》である。方式の違う複数のデータベースを同じキーワードで一挙に検索できる《統合ソフト》は、すでにアメリカの大手データベース卸し業者などによって開発されている。だが、日本語で検索できるものは、まだ単一の製品の目途も立っておらず、通産省が四年計画の開発予算を準備中の段階であった。しかし《いずも》は商業ベースを無視した手造りの特注《統合ソフト》、愛称《ワダツミ》をすでに完成し、極秘裡に使用しているのである

 智樹は、これらの巨大な秘密ネットワークの誕生から、すべての経過に関わってきた。

 一般に、官僚の立場では定期的な配置転換を避けるのは難しい。しかし、秘密情報機関の性格上、誰かが文書記録を残さぬ組織と人脈のつながりを押えていなければ、いざという時の仕事にならない。オンラインから外して保持するような極秘情報の管理もある。智樹は、そういう陰の部分の支え役の一人となったのであった。

 一応そんな立場ではあるものの、智樹は、やはり民間人になってからは、それまでの反発も手伝って、自由気儘に仕事を進めてきた。研究員や専門のサーチャーに仕事を頼むこともできるが、自分自身でもデータベースを好き勝手に操作しはじめた。検索作業が楽しいのである。官僚組織での集団作業のわずらわしさから解放されると同時に、情報の先取りが進み、結果として、古いデータを要約する口頭の会議がまだるっこしくなってきた。とりわけ、儀礼的な部分を無駄と感じる気分は、ますます強まるのだった。

 今では官僚組織特有の人間関係が、ただただ、わずらわしいものに感じられる。いわば野放図な自由人の感覚である。

 いわゆる古今東西のデータを自由自在に操り、自分なりに整理していると、次第に現実離れしてくるような感覚にも襲われる。目の前の雑多な未整理の現実など、どうでも良くなってくるのである。

〈ハッカーは対人関係を嫌うというが、これもコンピュータ病の症状かな〉

 などと考えてみたりする。

 しかし、知っていることばかりを長々と繰返されるのは、昔から退屈な話の典型ではなかっただろうか。

 折から政府が立案中の個人情報保護法案に関する近況報告だけが、少しは刺激になる話題であった。正式には、例によって長ったらしく、〈行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律案〉という。《いずも》の秘密作業の実態に即して考えれば、およそ時代錯誤なザル法であった。

 立法の表向きの趣旨は、個人のプライバシーの保護である。しかし、法律には常に裏表がある。この法案も、確かに個人の保護の一面を持ってはいたが、逆に、情報機関の秘密保持を公認する狙いをも含んでいた。

 情報機関の立場からいえば、永年掛かって蓄えた貴重な情報である。公開してしまえば価値は薄れる。古来から《機は密なるを要す》のである。当局側の実務担当者としては、情報公開法や情報開示請求権との攻防が最大の関心事であった。警察庁や防衛庁の犯罪者や政治思想団体に関する情報、殊に反政府分子に関する極秘情報は、なんとしてでも秘密にしておかなければならない。情報公開を求める世論の盛上がりの中で、いかにすれば、これらの重要情報を守り切れるか、という攻防戦である。難航中のスパイ防止法と表裡一体の課題である。しかし、表面から打って出れば、反対運動に油を注ぐ結果となる。だから、個人のプライバシー保護という隠れ蓑を用意したのである。マスコミを使った事前宣伝も周到に行われていた。

 もちろん法律とは別に事実上秘密を保つことはできる。コンピュータ以前から独自の基準でマル秘文書は山程作成されていた。しかし、その場合には、内部から漏らされた時に法的対抗手段がない。それどころか、秘密活動の行過ぎが非難の的となる危険性すらある。だから本当の極秘文書は、厳重に管理された金庫の中に保管されるのが常であった。

 ところがコンピュータは、本来の機能からいえば、情報のオープン化を促進するものである。特別のコードナンバーやパスワードの使用を設定したりして、ロックを施すのは当然だが、ハッカーはさらに工夫を重ねる。いたちごっこである。そういった状況を孕む報告の表現は、いかにも官僚答弁風になってしまう。かえって裏の苦心が透けて見え、まことに滑稽であった。

 会議ではNTTの技術陣が、ハッカー、ヴィールス、ウァームなどに対する侵入監視システムの研究報告をしていた。テスト用の装置が完成したので、《いずも》の内部だけでヒミコに連結して使用することになっていた。テストと平行して、その監視システムを組込む最新型ヒミコの準備も進んでいた。ただし、会議での報告は簡略であった。侵入監視システムは三段階準備されているのだが、その点はぼかされていた。非合法の手段を用いる場合に関しての報告は故意に省かれていた。

 そのほかの国内情報は、いつもながらのもってまわった〈極秘〉情報ばかりで、目新しいものはほとんどない。情報源が直接で話がまとまっているというだけで、一般にも知られていることばかりであった。三流のスパイでも公開情報から簡単に組立てられる水準の報告である。もっとも、会議向けに要約するということは、こういうことなのかもしれない。つまり、要注意の細部が圧縮され、消滅してしまうのである。

 一般に、情報分析材料の九五%以上は公開情報だといわれる。つまり、部外者が手にすることのできない極秘情報は、五%以下なのである。しかし、これは料理でいえばスパイス。そして、このスパイスの核心的事実から出発して、公開情報を読み直すのが専門家の仕事でなければならない。ところが、この《いずも》定例会議の報告には、スパイスが効いていない。微かな痕跡をとどめるキーワードの秘密を追って世界中のデータベースに分け入る検索作業とは、全く逆の結果を生み出しているのである。


(1-2) 第一章 暗号コード《いずも》2