憎まれ愚痴入口木村書店戻る  第一章┃┃7┃

煉獄のパスワード



第一章 暗号コード《いずも》

序 文
序 章
免罪の貢ぎ物
第一章
暗号コード《いずも》
第二章
花崗岩の砦
第三章
最新指定キーワード
第四章
過去帳の女
第五章
アヘン窟の末裔
第六章
カイライ帝国の亡霊
第七章
Xデイ《すばる》発動計画
第八章
《時限爆弾》管理法
終 章
枯葉の伝言







「これだけか……」
 その後の辞去の挨拶、雑音、録音終了の音を聞いて、達哉はストップ・ボタンを押しながら確めた。
「そうだ。これだけだ。直接の手掛りはいまのところ、中年の女性の電話だけだ」
「いや、女性じゃない。〈おんな〉、といったんだよ。それに、中年かどうかは声だけでは分らん」
 達哉は、そういってから、しばらく間を置いた。
「長官夫人は、その女性と長官の間に挟まっている。ところが夫人は、〈女性〉といわずに、何度も〈おんな〉と繰返してるんだよ。高年令の既婚女性にはよくある例だね。喉から押出す唸り声のような発音で、独特の感情が籠っている。むしろ、わ行の〈を〉なんだね。〈をんな〉という、万葉言葉の発音だよ。本人は意識していないけれど、それだけに何か古くて永い、日本女性の怨念を秘めている。〈をんな〉への恨み、敵意、……理性はそれを押え込んでいるが、本能は理性を裏切っている………といった類いの感情だな」
「アハハ、ハハ……、さすが、さすが。そういわれてみると、おれも聞いた瞬間から奇妙に感じてた。しかし、万葉言葉の発音ってのは、誰も聞いたことはないんだろ。眉唾じゃないか」
「いや、本当だ。確かに俺も自分の耳で聞いたわけじゃないが、まあ、少なくともア行の〈お〉とワ行の〈を〉は近世まで規則的に区別されていたんだ。まあいい。ともかく、絹川検事が〈女性〉といって聞き返しているんだけどね。夫人は相変わらず〈をんな〉といい続けてるんだ。一応の材料だよ。……
 それと、……夫人は冷静過ぎる。さすが裁判官の妻というべきか。夫が三日も行方不明だというのに、動転しているという感じがしないんだな。余程気丈なのか、それとも、冷えた関係なのか。または、突然の失踪の原因として、なにか疑うべき材料があったのか。最高裁長官も人の子だからな。女房の妬く程亭主持てもせず、かもしれないし、意外も意外かもしれない。しかし、最高級特殊公務員の女性関係、女癖なんてのは、あんた方の公安情報にもないんじゃないか」?「ハッハッハッ、あったとしても警察庁長官か官房長官あたりか、内閣調査室、CIA、それとも政財界黒幕の金庫の中だな。極め付きの極秘情報はコンピュータに入れたりはしない。いかに凄腕のハッカーでも、ラインがつながっていない情報では引出しようがないからね」
 そういいながら智樹は、原口華枝が送ってくれた個人データの中の〈人事興信録〉記事をヒミコの画面に呼び出した。
〈弓畠耕一 最高裁判所長官 大阪府出身
   …………
経歴 大正6年1月10日生
   昭和16年東京帝大法学部卆
   同年高文司法科合格
   同20年和歌山地裁判事
   同29年大阪地裁判事
   同38年大阪高裁判事
   同41年最高裁事務総局刑事局長
   同43年人事局長
   同49年事務次長
   同50年名古屋地裁所長
   同51年東京地裁所長
   同53年最高裁事務総長
   同55年東京高裁長官
   同57年最高裁判所判事
   同58年現職就任現在に至る
趣味 ゴルフ、カメラ
家族 妻広江(大正15)清新女学院卆、旧姓柳田、結婚昭和20
   長男唯彦(昭和20)早大政経学部卒、NHK報道部
   長女純子(昭和25)東大教養学部卒、外交官

「ヒミコ!お前もか!」
 日頃は物静かな達哉が、いきなり舌打ちして早口にシーザーばりの台詞でののしった。
「せっかくコンピュータだってのに、なんで元号だけしか入れないのかね。なんで俺が大正と昭和の足し算引き算をしなきゃならないんだ。一体何歳で結婚したんだ」
 達哉の元号嫌いを知り抜いている智樹は黙ってキーをたたいた。智樹自身にも手間暇掛けて西暦に換算し直す気はない。機械にやらせるという気分だ。ヒミコは何の感情も示さず、即座に答を出した。
「結婚の日付は、長男が同じ年に生れたらしいから、昭和二十年の始めだろう。しかし、弓畠耕一の誕生日の一月十日より前か後かは分らない。弓畠耕一は二十七か二十八歳で結婚している。遅いね。戦争中の二十台後半だ。その前に何があってもおかしくはない。新妻広江は十八歳か十九歳。九歳違いだな」
 智樹は画面の操作を止めた。達哉は天井を見上げてつぶやく。
「公娼制度の時代だ。男が二十歳過ぎて童貞はありえない。宴会で芸者を揚げてのドンチャン騒ぎも仕事の一部だ。エスタブリッシュメントの男性は結婚前に女性関係ですれっからしになっている。そうしておいて九歳も年下の箱入り娘を本妻にめとったんだ。フェミニスト諸氏にいわせると、戦前からの日本における男性支配、封建的秩序、ひいては天皇性支配の土台にある女性蔑視の思想……」
「おい、おい、それは別の評論でまとめることにしてくれよ」
「いかにも、いかにも」
「さて、手掛りはこれだけか。戦争中の四、五年の経歴がブランクだね。どういうわけかな」
 智樹は黙ったまま、主な中央紙の記事が全て収められているデータベースを呼び出した。探索のキーワードは、最高裁判所長官と弓畠耕一である。過去五年間の新聞記事によるリサーチ結果は、直ちに画面に現れた。しかし、弓畠が最高裁長官になった時の人物紹介にも、インタビュー記事にも、戦争中の職歴は記されていなかった。
「こりゃあ奇妙だね。どういう訳かな。戦争には行ったのかね、行かなかったのかね」
 智樹がぼやいた。しかし達哉は冷静だった。
「いや、珍しいことじゃないよ。他の事件でも経験してる。お偉方の経歴は本人の申告通りというのが、いまのマスコミの慣行なんだ。紳士録に書いてあることさえ漏れてる場合が多い。特に戦争中の肩書きは、御法度の向きが多いからね」
 智樹は、ヒミコの横に手を伸ばして、暗号スクランブルのスイッチを入れた。入力ボードの数字キーを十数回叩く。《いずも》の暗号コードナンバーとパスワードである。防衛庁と警察庁のデータベースで同じことを試みた。しかし、結果は同じであった。
 智樹は残念そうにつぶやいた。
「特別の情報は入ってないね。あとは軍の名簿を辿るしかないが、こいつはまだコンピュータ化の作業中だ。どの程度進んでいるかは俺にも分らない。少なくとも、ここでは呼び出せないんだ」
「そんなことだろうよ。最高裁長官は犯罪人でも反体制の危険分子でもないからね。特別の調査はしていないんじゃないの」
 達哉が慰め顔でいうと、智樹は憮然として、
「仕方がない。法務省の秩父冴子審議官に探って貰おうか」
「イケシャーシャー女史だな」
「いやか」
「いや、いや、とんでもない。おれは人事に口を挟む立場じゃない。女史の御健闘を祈るだけだ」
「ハッハッハッ。どうだい、一度会ってみないか。意外に気が合うかもしれないぞ。今日の午後に法務省で打合わせなんだ」
「勘弁してくれ。官僚とは取材以外に会いたくない」
「批判の対象としてしか相手にしない、ということかな」
「個人的には付合っている相手もいるけどね」
「まあいい。冗談、冗談。しかし、付合いの相手を選べる一匹狼は幸せだよ。おれは組織人の立場に疑問を抱かないわけじゃないが、人間関係では受身の対応に馴らされてしまった。仕事が先にあって、誰かが決めたチームに所属して働くという習性だな」
 そういいながら、智樹の顔付は冗談口調とは逆に、寂しい諦めを漂わせていた。
「冗談は別にして、……」と達哉が続けた。「これは、おれが足で稼ぐよ。さっきのテープの話だと、実働メンバーじゃないにしても最高裁事務総長あたりが情報を握っていて、極秘チームにもにらみを利かしているわけだろ。そうすると、どこかで最高裁の機密に触れる場合、かえってストップが掛かる。……そうだろ」
「分った」と智樹もすぐに応じた。

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2006.6.6