『煉獄のパスワード』(5-1)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第五章 アヘン窟の末裔 1

「やっぱり物凄いミステリーなのね」と冴子が一言。

 翌日の《お庭番》チームの打合わせの冒頭、智樹が、華枝のサーチの結果を一同に報告したのである。

 ややあって、ガヤガヤと論評がひとしきり。事件の危険度の高さはますます明らかであるという再確認がなされた。

「では」と冴子。

「よければ、小山田さんの方からも、皆様お待ち兼ねの、北園夫妻の調査結果報告があるようなので」

「よろしいですか」

 と小山田が資料のコピーを配った。顔写真もある。

「北園和久と亜登美の夫妻は行方不明のままですが、可能な限りのデータを探りまして、一応の調査結果が出ました。和久は四十五歳。亜登美は四十四歳となっていますが正確には推定で、二、三ヶ月以内の誤差がある筈です。というのは、亜登美は広島の原爆被災地で軍の救出隊に拾われた孤児。血縁関係は全く不明。名前を付けたのは孤児院の園長で、アトミック・ボンムから取った名だそうです。北園夫妻には子供はいません」

「アトミさん……ね」と冴子がポツリ。「宿命的な名前ね。子供はできなかったのかしら。つくらなかったのかしら」

「分りません。二人とも第一出版という教科書会社の編集者でした。ところが、昨年の春に二人揃って辞職。以後は無職のままです。金銭面ではその前に遺産が入っています。一昨年には二人が同居していた和久の祖母が九十一歳で死亡。祖父は既に十年前に死んでいます。和久の父親の留吉はひとりっ子でしたので、唯一の相続人である和久に時価五億円以上、路線価格で二億円と評価される遺産が残された。

 遺産といっても、ほとんどは港区麻布の宅地ですよ。昔ならどうという値段ではなかったんですがね。余談ですが、普通、そういう遺産の屋敷、いや、本来なら小住宅でしょうね、大して広くはないんですから、……そういう小住宅にさえ普通の相続人は住み続けられないんですね。遺産の非課税額は今、八千万円止まりですから、税金が払えないんです。

 そこで、それもあってか、和久はこの宅地を売却。埼玉県新座市の田園地帯に時価四千万円の土地付き中古住宅を購入して転居。同時に購入した外車の四輪駆動ランドクルーザーのタイヤの溝と車輪の幅は、禄朗の死体を運んだと目される車のものと一致する」

「これは急接近してきましたな」と絹川。「しかし、そうだとすると計画的な殺人ではないかもしれませんね。痕跡をくらますためなら、盗んだ車を使うとか、せめてタイヤは中古のすりへったのに取替えて置くとか、いくらでも手はある」

「はい。確かにその点から見ると、殺しは偶発かもしれません。しかし、弓畠耕一を呼出す計画は前々から準備されていた可能性が高いのです。その手掛りになりそうなことが一つあります。北園和久は、三ヶ月前に銀行で四千五百万円の受取人払いの小切手を作っているんです。実際の受取人を調べましたら不動産業者でした。登記所の記録を当たると、和久が東村山市の中古住宅を購入したことが分りました。このあと直ぐに、私が直接行ってみる積りです。何かあるといけませんから、本庁で前回の西谷禄朗の死体発見の時に動いた捜査一課の田浦刑事にも協力を依頼します」

 

「捜査一課の田浦警部補に……」

 《お庭番》チームの打合せが終わると、小山田は冴子のデスクの電話を借りて警視庁の捜査一課を呼出した。田浦警部補が日勤だということは事前に確めてあった。小山田は田浦にパトカーごと迎えに来て貰おうと考えていた。一緒に東村山の北園和久の持ち家に行く積りなのだ。ところが、

「えっ」

 と小山田が急に大声を挙げたので、冴子までが驚いて飛び上がった。

「なんだって。東村山で老人の死体が発見されただと」

 小山田の慌てようは尋常ではなかった。いったんカッと赤くなった顔色が、今度はサッと青くなる。

「住所をいってくれ」

 といいながら自分の黒皮の書類カバンに左手を伸ばす。顎で受話器を押えて右手でカバンから書類を引出す。慌ててはいても動作に無駄がない。そこには何度も修羅場をくぐってきたベテラン刑事の凄みがあった。小山田は黙ってうなずきながら電話の声を聞いていた。顔色がさらに青くなり、目尻が吊り上った。

「分った。俺も現場に急行する。この事件は俺に預からせてくれ。広報は完全ストップだよ。それと、パトカーを法務省の正面玄関に回して欲しい」

 冴子にも事態の見当は付いた。

「本当にそのものズバリなのかしら」

「私が先程報告した北園のセカンド・ハウスと同じ住所です。行って見なければ分りませんが。今までの流れからすれば、可能性は高いですね」

「小山田さん、一寸待って。これっ」

 サッと身をひるがえした冴子は、デスクの引出しから茶封筒を取り出した。

「弓畠長官の個人資料です。顔写真から身長、体重、血液型、ABO、Rh,白血球HLAまで全部揃っています。引き揚げ援護局から貰った関係資料も抜粋して置きました。お役に立つと思いますが」

「これは有難い。お借りします。では」

 というなり、小山田は部屋を飛び出した。

 

 東村山の現場では、田浦城次と一緒に新宿署の新任刑事、浅沼新吾が張り切って捜査に当たっていた。

 浅沼は念願の刑事と呼ばれる立場になったばかりであった。

 身分も平巡査から巡査部長に昇進していた。浅沼自身、捜査講習に参加して希望をふくらませてはいたものの、この急な栄転人事の裏にはなにかあると感じていた。例の奥多摩の死体発見事件は対外発表が簡単至極のままだし、自分にも内々に動くなという注意があった。その関係かな、という匂いはしたが、敢えて問い質したりはしなかった。警察という役所の中では下手に薮をつつかない心得が必要なのである。

 田浦は大先輩の小山田が突然現れたので、驚きを隠せなかった。

「またですか、小山田さん」

「そうなんだよ。また俺が預かる。わけは後で話す。現場検証も検死も最高に丁寧にやってくれ。外へは漏れないように頼む」

「それが、……」

 と田浦は声を潜めて困った顔をした。顎をしゃくった先のソファに座っているのが、またしても長崎記者であった。

「自分の社の車でくっついて来ちゃったんですよ。丁度電話が入った時に目の前にいたもんで……」

「よし。他の事情は後で聞こう。あのブン屋とは俺が話を付ける」

 小山田も小声でそう言って、そっと長崎に近付いた。気配で目を上げた長崎が、

「おや、小山田さん」

「うん。一寸そのまま待っててくれ。話がある。俺はまず仏を拝んで来るから」

 死体はまだ動かさず、風呂場の中で発見された状態のままにしてあった。

 上半身は裸だが、下はちぢみのステテコ。越中ふんどしが透けて見える。家庭用としては大き目のタイル張りの浴槽の真中に、膝を折り曲げた姿勢で仰向けに浮かんでいる。左の手首に切り傷がある。そこから湯の中に血が流れ出したものと見えた。指を入れてみるまでもなく水温は外気並に下がっていた。血は下の方に赤黒くよどみ、脂肪分がポツポツと黄色く浮かんでいた。

「まず二日は経っているようですね」と監察医がいった。

 死体の額にも細い傷跡が三筋あった。

 冴子から預かった写真の通りの顔、身長、体重の感じであった。

 小山田は弓畠耕一と会ったことがない。テレビで一度見たことがあるだけだった。不思議な気がした。犯罪捜査に携わること三十数年、関係した事件で最高裁まで行ったのは二件しかなかったが、それでも場所といい仕事柄といい、つい隣りの役所である。それなのに、そこの長官とも、他の判事達とも、直接顔を会わしたことがない。それほど最高裁は人目に付かない役所なのである。いや、裁判所全体がそうなのだ。弓畠長官は東京地裁にも高裁にもいたのだが、その頃にも見掛けたことは一度もないのだった。

〈ここにいる捜査員に仏の面が割れていなければいいが……〉と小山田は切に願う。

「捜査員全員に箝口令。頼むよ」

 と田浦に念を押して置いてから、小山田は長崎を連れ出した。外には縄が張られ、野次馬が四、五人、うろうろと遠巻きに現場をのぞきこんでいた。

 小山田は道端で立ったまま、長崎に横顔を向けていった。

「長崎さん、よッ。お互い、満更知らない仲じゃないよな」

「ええ。だけど、あの顔もどこかで見た顔なんですよね。まだ思い出せないけど」

「おい、おい。脅かすんじゃないよ」

「でもね。特捜刑事のボスが顔色変えて現場に駆け付けたんじゃ、ただのネズミと考えるわけにはいきませんね」

「分ったよ。鋭いといっておこう。ともかく、この事件は箝口令を敷く。記事にしないだけじゃなくて、誰にも話さないで欲しいんだ。俺の顔を立てて協力してくれ。先々悪い様にはしないよ、なッ」

 小山田は長崎の肩を軽くポン、ポンとたたいた。長崎はニヤリと笑った。フッと目をそらしながら、

「この所、スクープ逃がしっ放しなんですよね。この前も朝早くから奥多摩の山の中まで出掛けたのに、原稿はボツのまま。編集局長から取材ストップ命令。夜射ち朝駆けを掛けようにも、相手が誰なのかサッパリ分らないし……」

 横目で小山田の顔色をうかがう。小山田はポーカーフェイスで目をそらす。

「長い間にはそういう事も何度かあるさ。あまり深追いせずにな、俺に貸しを作ったと考えといてくれよ。箝口令解除の時は真先に知らせるよ」

 小山田は長崎に〈この事件は危険だよ〉とはっきりいいたかった。しかし、下手ないい方をすれば逆効果になるのは目に見えていた。

「分りました。それじゃ」

 長崎は手持ちのカメラからフィルムを抜いて渡し、軽く手を振って小山田と別れた。

 社の車が待っていた。乗りこむと運転手に、

「また警視庁に戻って下さい。……それから、今日ここに来たことは誰にもいわないで欲しいんです。一寸、取材の都合があるもんですから」

「はい。了解」

 長崎はシートに身を沈めて目をつむった。たった今見てきた現場の細部を忘れないように、記憶を再現しながら一つ一つ確めた。特別な点は何だったかを検討してみた。鑑識課員の独り言が耳に残っていた。

「これはタバコじゃねえな。カセットテープにしては厚みがあり過ぎる。二本重ねたバーゲンの奴かな」

 年嵩の鑑識課員が白手袋をはめた手で屑籠の中から拾い上げていたのは、透明なセロファン状の硬質ビニールの断片だった。証拠物件用のビニール袋にしまう前に、もう一人の若い鑑識課員が床の上に断片を並べて、くっ付けたり、離したりしていた。

「二つ分ありますね、これは」とつぶやいていた。そして、

「だけど先輩、これはVHSビデオの撮影用みたいな大きさですね」

「そうかい。俺はビデオ・カメラなんていぢったこともないから、分んないな」

〈殺しの場面をビデオに撮ったのかな。こりゃ凄いぞ〉と長崎は思った。

〈箝口令を敷いている間にテレビ局にビデオを売り込まれたら、一体どうことになりますかね、小山田さん〉空想をめぐらせて独りでニヤリとする。

〈もっとも、他殺とは断定出来ないな、あの死に方は……〉と警視庁記者クラブの大先輩の話を思い出す。

「……睡眠薬を飲んでから、ぬるま湯につかる。少し意識がもうろうとしてきた頃合を見計って、暖かい湯の中で手首の静脈をソッと切る。鋭利なカミソリを使うことも大事な条件の一つだ。これらの条件を全て満たすと、ほとんど痛みを感じないままに、ゆっくりと躰から血が抜けて行く。意識はますますもうろうとする。お望みなら天国を夢見て死ぬことも可能だ。これがかつて、ある小説家が『自殺研究クラブ』で描いて評判になった《楽な自殺の方法》の一つで、そのため一時はかなり流行したものだ。だがまたそれとともに、自殺を偽装する他殺の一方法ともなった。最近では〈リスト・カット〉などと表現がカタカナになっただけで、粗雑なやり方の場合が多いようだ。嘆かわしことだよ。……」

〈テレビ・ドラマの影響かな、やり方が粗雑になったのは。テレビでももっと芸術的にやって欲しいな〉

「中央高速に入りますよ」と運転手がいった。

 その時、長崎は奥多摩に行った時の道を思い出した。同じ方向である。

「済みません。道路地図を貸して貰えませんか」

 長崎は、今日の東村山の現場と奥多摩の位置関係、道路のつながり具合を眺めた。

〈二つの事件に関係があったとしたら、……。しかし、最初の死体は山の中まで運んだ。今度は現場に残したまま。なにかちぐはぐだな〉

 

 現場捜査が終了する前に、小山田は通常の事件捜査と違うことを命じた。

 死体を収容する時には道路の通行を遮断して、野次馬の目を避けた。浴槽の水のサンプルを取り、残りは流した。浴槽の壁を丁寧に洗い、また水を張った。周囲に血の痕跡が残っていないかどうかを確めた。

「犯人が犯行をくらます作業みたいですね」と浅沼刑事は面白がっていた。

「いいから、いいから」

 と田浦は小山田の言う通りに作業を終わらせ、厳重に戸締りを点検した。

 現場にいた捜査員全員を集めて、厳重に箝口令を守るように命じた。入口のカギを掛ける段になると、田浦は浅沼を呼んだ。浅沼は通行人や野次馬が見ていないのを確めた。野次馬はいなくなっていた。浅沼は針金状の道具を使ってカギをロックした。

「入る時も、これを使ったんです」と浅沼は小声でいった。

「保存はどうしましょうか。縄は張らないんでしょ」

 と田浦に所轄署の刑事課長が聞いた。田浦は小山田の顔を見たが、特に意見を求めず、

「このままで、目立たないように見張りを付けといて下さい」

「はい。了解しました」

 小山田はなにもいわずに、このやりとりを聞いていた。

 

「発見の経過を教えてくれ」と小山田がいった。

 帰りのパトカーの中で、小山田は田浦に、死体発見に至る事情を詳しく聞きたいと声を掛けた。ところが田浦は、浅沼から直接聞かないと全く分らないという。そこで、自分の車に乗っていた浅沼をつかまえ、田浦と一緒に自分の部屋に呼んだのである。

「私は浅沼から電話があるまで、なにも知りませんでした。不吉な男ですね、浅沼は。こいつが見付ける死体は、二度とも箝口令ものなんですから」といって田浦はニヤリ。

「ひどい、ひどい」と浅沼。

「浅沼刑事。少し詳しく話してくれ」と小山田。

 浅沼は大先輩を前にして、いささか固くなりながら、一部始終を物語った。


(5-2) 第五章 アヘン窟の末裔 2