『煉獄のパスワード』(5-3)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第五章 アヘン窟の末裔 3

「おかげさまで、皆様すでに新聞発表をご覧のことと思いますが、……」

 冴子は《お庭番》チームの全員が揃うと、すぐに本題に入った。

「弓畠耕一最高裁長官の失踪事件に関しましては、本来ならば、残り火をどうやって上手に消すかという段階に入ったわけです。自殺か他殺かとか、犯人捜しとかは私達の仕事ではありませんので、新聞記事通りに事態が収まれば結構なのです。ところが、かなりの飛び火がありまして、後始末が意外に厄介な仕事になりそうですので、……」

 冴子は努めてクールな声を出そうとしていた。荷の重さをはね返したくて逆の態度を取っているのだが、問題はそれだけ複雑になっているのだ。

「はじめに私の方から、出入国管理局と航空会社の調査結果報告をさせて戴きます。千歳弥輔の今回の入国は一ヶ月前からで、五日前まで日本にいました。乗った飛行機は北京行でした。北園夫妻は三日前に東京国際空港を発って香港に向いました。しかし、五日前には北園和久名義のランドクルーザーがハルビンに向けの貨物として飛行機に積み込まれていますから、本当の目的地はハルビンで、人間の方は中国内陸への入国ビザが取り易い香港ルートを選んだものと思われます」

「そうでしょうね」と小山田がつぶやく。いささか放心状態である。

「では、なぜか元気のない小山田さん。長官のお葬式準備に至るまでの経過を話して、少しはストレスを解消して下さい」

「いやいや、私としたことが、新米刑事の悪戯半分に出し抜かれまして、面目ない……

 実は昨日の会議の直後に……」

 と小山田はげっそりした顔で、前日の白昼の悪夢の瞬間から夕方までの出来事を物語った。

「そんなことで、こちらにも新聞記者と新米刑事の後始末が残っているわけです。両者とも尾行の刑事を付けてありますが、困ったことに、誰にも事件の内容を教えるわけにはいきません。特に新聞記者の動きは予測を付けにくいので、尾行の刑事が巻かれる可能性が高いですね。尾行は意外に難しい仕事でしてね、映画やテレビ・ドラマに出てくる様なわけにはいかないんです。普通の市民がラヴ・ホテルに入るのを尾けるなんてのは簡単ですがね。意識的に尾行を巻く積りの相手とか、意外な動きをする相手の場合には、振り切られ易いんです」

「いや、しかし、御苦労さんでした」と絹川特捜検事は慰め顔。

「ともかく死体発見の現場には間に合ったんですから、さすがはベテラン刑事。孤軍奮闘に敬意を表します」

「同感、同感。お疲れ様でした」と智樹。

「そうですよ。本命の最高裁長官のスキャンダルは、これで一応世間の目からは隠せたんですから」

「皆さん、有難うございます」

と小山田はしばし頭を下げたまま。出てもいない涙を拭く素振りを見せ、やっと普段の調子に戻って目玉をギョロリとむいた。

「ところがそれも、まだまだ油断は出来ません。トランプのツーテンジャックならスペード集め、花札ならカス上りの大逆転。最大の問題が残っています。ビデオ・テープなんです」

「ビデオ?……アダルト・ビデオですか」

 と絹川が緊張をほぐすために冗談を飛ばす。

「ついこの前にも、こともあろうに侍従長がソープランドで本当に昇天しちまって、あれはもう隠し切れなかったんですが、……。まさか最高裁長官がそんなことを、……」

「いえ。それはまさかと思いますが、……」と小山田もニヤリ。

「現場の屑籠の中にビデオ・テープ二本分の包み紙が捨てられていたんです。鑑識の割出しでは中身は両方とも同じNCT社の製品で九十分ものの撮影用SVHSです」

 小山田は〈サツエイヨウ・エス・ヴイ・エッチ・エス〉と言い難そうに発音した。

 早速、絹川が質問する。

「何ですか。その、舌を噛みそうな、〈撮影用SVHS〉ってのは」

「アハハハハッ……」と小山田は少しほがらかさを取り戻した。「絹川さんも、やはりご存知でない。それで拙者も安心いたしました。ハハハハッ……いやあ、このハイテクとかOAとか、言葉はメチャクチャだし、付いていくのが大変ですよ。SVHSってのは、スーパーVHSですね。高画質だとか音声デジタルだとか面倒臭いんですが、……ともかく従来のVHSより性能が良いんです。それと、撮影用というのは、テープの部分だけがカプセルになっているんですね。テレビ受像機で再生して見る時には、普通のビデオ・テープと同じ大きさのカセットにはめ込むんです」

 小山田は両手の指を総動員して、カプセルとかカセットの大きさの違いを示した。

「なるほど、なるほど」

 絹川がうなずくのを確めた小山田は、自分でもわざと重々しくうなずき、さらに鼻をうごめかしながら続ける。冴子がその様を見て両手で顔を覆い、懸命に笑いをこらえている。やっと一同、いつもの調子を取り戻したようだ。

 小山田が続ける。

「今までに分っている事実から可能性の高い推測をしますと、北園和久らが何らかの手段で弓畠耕一を誘拐し、四十数年前の張家口での軍法会議の状況を聞出そうとした。そうだとすると、弓畠耕一の告白をビデオに撮るというのは当節では自然の発想ですね。北園は父親の無実の罪を晴らしたいわけです。もしかすると、撮ったビデオをテレビ局に持込む、ということが充分に考えられます。新製品のSVHS用ビデオ・カメラは高価ですからね。同じ新製品でも、安くてハンディーな8ミリを選ばずにSVHSにしたのは、テレビ放送用に高画質を確保したいと考えたからかもしれません。もちろんSVHSでも、放送局が使っている業務用のものよりは画質は落ちますがね」

「ウムッ。これは大事件だね」と絹川。

「これまでのスキャンダル隠しの努力が一発でふいになる。そればかりじゃない。あの新聞発表は『スパイ大作戦』ばりのフィクションだ、最高裁長官の失踪と変死の隠蔽を演出した謀略組織の正体は、なんて……」

「あらっ。私達にハイライトが当たるわけね。ゾクゾクするわ」

 冴子の目が雌豹の光を放った。

「ところがですね、皆さん。まだまだあるんです。それだけじゃ済まなくなっているんです」

「なんですか。まだ脅かすのですか」と絹川が細い肩口をさらに狭めてみせる。

「はい。不肖私が皆さんを代表いたしまして、すでにこってりと脅かされて参りました。……昨晩、憲政党幹事長清倉誠吾さんの激励パーティーが開かれておりまして、急なご指名で私、いやいやながら参加いたしました」

「イブニングドレスをお召しで……」と絹川。

「はいっ」と冴子は部屋の隅のロッカーを指差す。

「いつでも用意してございますわよ。ここのお若い皆さんからはちっともお声が掛かりませんけど、私こと、ミズ内閣官房と呼ばれておりましてね、政財界のご老人方には大変モテモテなんですのよ。オホホホホッ……」

 

 前日の午後五時過ぎ、冴子は天心堂病院の手配を終えて、ひとまずホッとしていた。

 デスクの上のコーヒー沸かしでモカ・ストレートを入れ、ひろがる香りを楽しむ。カップにそっと唇を付けて、ゆっくりと味わう。そこへ検事総長から電話が掛かってきた。

「陣谷弁護士が至急君に会いたいといっているから、一緒にパーティーに出て貰えないだろうか」

 言葉使いこそ丁寧だが、実際には有無をいわさぬ命令口調であった。

 パーティー会場はホテル新世界で一番広い芙蓉の広間であった。

 冴子は話が済み次第、様子を見て適当に抜け出す積りだったから、会場に着くなり陣谷を目で探した。陣谷は舞台横手で、憲政党の幹部連中や法務大臣、法務省OBらと談笑していた。冴子と一緒に会場に入った検事総長も、そちらを目指して歩き始めていた。冴子は早速、検事総長のお供の風情で付き従い、陣谷達に近寄った。

 陣谷は冴子に目を止めて軽く会釈したが、すぐには動かなかった。冴子も周囲の顔見知りにひとわたり愛嬌を振り撒いた。主客の清倉誠吾も姿を現し、冴子にウインクを寄越した。冴子が応えてニッコリ笑った時、背後から軽く肘をつっ突かれた。振り向くと陣谷が立っていた。陣谷はその年齢の割には背が高いので、一瞬顔を見上げてしまう。接近していると、一種異様な圧迫感を覚えた。

「いやあ。相変わらずお美しい」

「お上手、お上手。その手には乗りませんよ」

「なにを、なにを。人の言葉は素直に聞かなくっちゃ。私も是非一度、ダンスのお相手をお願いしたいと思っているんですが、生憎と、こういう野暮な演説会ばかりで残念です。ウハッハハ……。空手の方はどうですか。上達しましたか」

「はいはい。すでに凶器の登録済みですから、ご用心下さい」

「怖い、怖い。いよいよ巴御前ですな。そのうちに、日本のサッチャーは空手五段なんてニュースが拝見出来るのかもしれませんな。楽しみにしてますよ」

「ご冗談ばっかり」

「あっ、そうだ。あなたにお見せしたい本がありました。一寸あちらに……」

 陣谷は冴子を促して会場脇の扉を押した。廊下のソファに冴子を座らせ、自分はクロークから本を一冊取ってくる。厚い洋書である。表紙の題名を指差す。法医学の研究書であった。陣谷は冴子の隣に座って本を広げ、さも本の中身について話しているような芝居をする。冴子も調子を合せた。二人ともニコヤカに話しているようだが、実際の会話は本とは関係がなく、およそ楽しい性質のものでもなかった。

「先日も絹川君に注意したんですが、お耳に達しましたかな」

「はい」

「先程、警視総監から弓畠長官のご最後の状況について報告をいただきました。あなたが見事に処理をされたそうで、ご苦労さまです。問題はですね、なにかがビデオ・テープに収録されたという可能性です。この内容如何に強い関心を示す向きがあるのです。注意して下さい。ビデオ・テープを確実に押えること。それと同時に、ビデオ・テープの存在については秘密を守れるメンバー以外には絶対に知られないようにすることです。危険なんですよ、これをなんとか成功させないと。弓畠耕一個人のスキャンダルでは済まなくなるんです。これ以上はいいません。他のメンバーにも徹底させて下さい」

「分りました」

 

 冴子は一同に陣谷との廊下のソファでの会話を正確に伝えた。

 聞いた直後に反芻し、念のためトイレに入ってメモまで取って置いたのである。冴子はこの際、細かいニュアンスが重要だと思っていた。陣谷はなにかを仄めかしている。しかし、詳しい事実を告げる積りはない。冴子はなんとかして、言外の意味を皆に考えて貰わなくてはならないと思ったのだ。冴子がそういうと、

「確か、……あれは、ヒズ・マスターズ・ヴォイスでしたね」

 と絹川がとぼけた顔で妙なことをいい出す。

「昔の蓄音器に、拡声器のラッパに耳を澄ましている犬の絵が貼ってありましてね、そう書いてあった。あれは御主人の声をレコードで聞くという意味なんでしょうね、私は特に調べた事はないんですが……。時々自分が下っ端の犬役人だということを痛切に思い知らされると、あの絵を思出すんですよ。今は誰がご主人なんでしょうかね」

「あらっ。それじゃ私は蓄音器ですか」と冴子。

「絹川さんたら、またまたニヒルなことをおっしゃって。あまり突き詰めないで下さいよ」

「いやなに。ただのぼやきですよ。気にしない、気にしない」と絹川はニヤリ。

「問題は、我々も危険な仕事を請負う以上、事態を正確につかんで置きたいということですね。全てについて知る権利があるとまではいいませんが、肝腎な点は知って置かないと、余計な危険を冒すことになりますよ」

「私はすでに事態の大筋は明らかだと思います」と智樹が割りこんだ。

「皆さんもお気付きでしょ。今回の仕事は、弓畠耕一の個人的なスキャンダルをどう隠すかということだけでは終わらない。その裏側に、おそらく例の生アヘンをめぐるさらに大掛りな長期にわたるスキャンダルが見え隠れしている。陣谷さんが動き出したのは和歌山地裁の生アヘン密輸事件の裁判記録の問題からです。弓畠耕一個人の私的なスキャンダルだけなら、陣谷さんレベルの動きはありませんよ。陣谷さんに我々の動きを伝えたのは、最高裁の事務総局でしょう。最高検も検察OBも関係しています。しかし、司法関係は決して権力の主流ではありません。もっと強力な組織が背後に隠れているでしょう。問題は今、どんなグループが関係しているのか、彼等は何をどうしたいと望んでいるののか、どういう危険が予測されるのか、我々は今後はどう臨めば良いのか、といったことなんです。……どうでしよう。ビデオ・テープの行方を追う前に、お互いに材料と意見を出し合ってみませんか」

「そうですね。ご異議なければ、そう致しましょうか」と冴子。


(5-4) 第五章 アヘン窟の末裔 4