『煉獄のパスワード』(7-6)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第七章 Xデイ《すばる》発動計画 6

「影森さんですね」

 北京空港の到着ロビーに出ると、いきなり横合いから声を掛けられた。

 振向くと、ゴマ塩頭で七十歳前後、目付きの鋭い老人が立っている。手には写真を持っており、智樹と見比べていた。

「はい。影森智樹です」

「やっぱり。自分が千歳弥輔です」

「これはどうも。わざわざお迎え戴いて……」

「さあ、こちらへどうぞ。荷物は別にありますか」

「いえ。このバッグだけです」と智樹は手に持ったスポーツバッグを揺すってみせた。旅は身軽にするのが主義でして……」

「それは結構です」

 千歳弥輔は急いでいるようだった。動作がキビキビしている。足早に智樹の先に立って人波を縫う。待たせてあった車に乗込む。要所要所で背後に視線を走らす。

「尾行されているんですか」と智樹が聞く。

「一応、その積りで警戒しています」

「私の顔写真をお持ちのようでしたが、あれは……」

「そちらの秩父審議官に頼んで電送して貰いました。別人とすり変わられては大変ですから。しかし、見た途端に分りましたよ。お父上の若い頃にそっくりです」

「アハハハッ……。失礼。一瞬ギクリとしましたよ、凶悪犯人の手配写真みたいな印象で。……秩父さんからはなにも聞いてませんでしたからね。わざとかな、アハハハッ……」

 

 車を降りてから、細い路地を何本か抜けて別の通りに出る。尾行をまくためだろう。

〈ホートン(胡同)といったな〉

 智樹の脳裏に子供の頃の張家口の町並が甦る。両側が高い塀のホートン(胡同)、細い路地が沢山ある。やはり中国の町並だ。よく似ている。なつかしい風景だ。

 着いた所は外国人用のホテルではなかった。厚い石塀に囲まれ、中庭の周囲にギッシリと彫刻の飾りを施した建物が立ち並ぶ形式の古式な豪邸だった。看板も名札も掛っていなかった。智樹が通された真中の広間は、事務所として使用されている雰囲気だった。大きなテーブルの上に書類が並べてあった。

「用心に越したことはありませんから、ここで我慢して下さい。昔の金持ちの屋敷のままですから、自分らには広すぎてガランとしていますが」

 といいながら千歳がお茶を入れてくれる。今は千歳も気楽な態度であった。智樹も気が緩むのを覚えた。

「なつかしいです。ハルビンや張家口でもこんな家に住んでいました」

「そうでしょう。日本人の有力者は皆、こういう豪邸を接収して住んでいましたからね。自分は当時、上等兵でした。お父上の影森大佐とは身分が大違いで、直接お話ししたことはありませんが、お顔はいつも拝見していました。今もお元気ですか」

「父は十年ほど前に亡くなりました」

「それはご愁傷さまでした。あなたは中国での暮らしを覚えていますか」

「ええ。十歳まで中国で、いえ、翌年まで新京の収容所にいたわけですから、十一歳まで中国で暮していたんです」

「新京は長春になりました」

「失礼しました」

「いや。別に自分に謝る必要はありません。ただ、中国人と話す時には注意した方が賢明でしょうね。昔の新京は長春、奉天は瀋陽です。特に新京は日本人が勝手に付けた名前ですから嫌われています。満州も東北五省と呼びます。自分も昔の癖を直すのに苦労しましたが、何度も声に出して繰返すと身に付きますよ」

「有難うございます」

「さて。自己紹介からしなければなりませんが、まず、ここは一番安心な場所です。あなただから本当の話をしますが、ここは自分達の秘密の事務所なのです」

 千歳はゆったりと微笑んだ。中国の大人風の笑顔だった。

「秘密とおっしゃると……」

「はい。自分は覆面の仕事ですが、麻薬取締官を兼ねているのです。近い将来、日本側の協力を求めるかもしれませんから、その時はよろしくお願いします」

 智樹は直ぐに思出した。日本の新聞にも一連の事件が報道されていたのである。確か、〈中国で相次ぐ日本人兄弟の死〉といった見出しだった。中国から最近帰国した残留日本人家族の次男で、中国に残っていた麻薬取締官が不審な毒物死を遂げた。当局側発表は自殺〉であった。直後に訪中した長男も急死、今度は〈病死〉と発表された。さらに後を追った妹は、日本の母親に国際電話を掛け、中国で乗っていた車に追突されたと話した後、行方不明となっている。母親の話によると、最初に死んだ次男も死の直前に国際電話で身辺の危険を訴えていたという。智樹は千歳に聞いた。

「中国の麻薬取締官だった日本人が死んだ事件が新聞に載っていましたが、……」

「はい。あの事件の次男は自分も良く知っている若者でした。死ぬ前の晩にも、留守中、自宅が火災に会っています。証拠の書類を燃やしてしまうのが目的だったのではないかと思われます。彼はケシやコカ栽培の現地調査を試みたり、大変意欲的に働いていましたから、きっと狙われたのでしょう」

「中国では今も麻薬が……」

「ハハハハッ……」と千歳は笑いながら両手を大きく広げた。「ご存知のように、中国は広いのです。何でもありますよ。今も中国産の麻薬が香港で大量に売られています。ある情報によると、年間三億から四億ドルに達しているそうです。たとえばヘロインは今も昔も貴重な薬品ですから、正規のルートの生産と販売があります。しかし、統制経済に闇取引が付き物なのは、古今東西の鉄則です。正規の生産にも正規の販売ルートと闇取引が混じっています。その裏側に生産から販売まで、全てが闇の世界がつなががっているのですよ」

「それで日本に……」

「いえ。今の仕事はそこまでは進んでいません。実は自分には、もう一つの顔があるのです。一応、中国共産党の党史研究への協力として上司の了解を得ていますが、元日本軍兵士だった自分としての償いの活動です」

「党史、ですか」

「はい。各省に党史弁公室とか資料徴集編審委員会とかがあります。学者以外にも有志の特約研究員がいて研究会を組織しています。自分らも研究会に参加して無料奉仕をしているのです」

「なるほど」

「自分には撫順の戦犯収容所で通訳をしていた頃に知合った元日本兵の同志が何人かいます。皆で手分けをして、日本が中国で犯した犯罪の裏付け調査を続けているのです。学者じゃありませんから行き当りばったりですが、少しでも事実が明かにできれば被害者の中国人への供養になるかと思っています」

「弓畠耕一のことは、その一つだったのですか」

「はい。個人的な関わりもありますし、蒙疆のアヘン問題は自分にとっては最も重要な課題です。蒙疆は、自分が八路軍に加わるために、命がけで日本軍から脱走した記念すべき戦場ですからね。忘れられません。しかも後から自分は、生アヘン窃盗の汚名を着せられていますし、北園法務官は無実の罪で死刑になっています。関心が深まる一方です」

「それで弓畠耕一の落とし子の劉玉貴、日本名西谷禄朗を探し出したのですか」

「いえ。前々から気には掛けていたのですが、実際の順序からいうと、弓畠耕一の息子の唯彦さんに会ったのが先なのです」

「えっ。先に唯彦に……。それでは本人の話と逆になりますね」

「どういうことでしょうか」

「唯彦は、あなたが西谷禄朗の異父兄の北園和久と連絡を取り、自分は北園夫人の亜登美さんから協力を申入れられた、と説明しています」

「それは、……父親の弓畠耕一に対して、そう説明しようという相談でしたから」

「しかし唯彦は、私の仲間の小山田警視に対しても、そう説明しているのですよ」

「なるほど。分りました。やはり本当のことはいいにくかったのでしょう。自分の父親を告発することになるわけですからね」

「告発ですか」

「はい。事実上の告発ですね。これは、……最初からお話しした方が分りやすいでしょう。自分が残留孤児の訪日調査のための事務局に加わったのは、今から七年前です。直ぐに日本のマスコミの北京駐在記者団と接触する機会が増えました。日本人記者はあまり多くて名前を覚え切れません。ある時、記者の皆さんから貰った名刺を整理していると、弓畠という珍しい姓があるのに気付きました。次の機会に本人を確めまして、〈もしや弓畠耕一法務官のご家族では〉と尋ねました。ところがその時には、はっきりと血縁関係を否定されたのです。〈弓畠耕一という同姓の裁判官がいることは知っているが、全くの他人だ〉という返事でした。しかし唯彦さんは同時に、〈日本人が中国で犯した残虐行為に関心を持っている。その関係のことなら教えて欲しいし、協力したい。弓畠耕一は何をしたのか〉と聞かれました。それが始まりです。唯彦さんが日本に戻ってから北園和久を探し、自分は劉玉貴、西谷禄朗を探しました。二年前に自分が直接日本に行った時初めて、唯彦さんが本当は弓畠耕一の一人息子だと知って、大変驚きました。唯彦さんは〈本当のことを知りたかったので、つい嘘をついてしまった〉と自分に謝まりました」

「そうですか……」

 智樹は絶句した。ここにも唯彦の矛盾に満ちた行動の説明が隠されていると直感したのである。唯彦が泥酔やマリファナなどで出世街道から脱落するのは、北京駐在以後のことだった。唯彦は北京から戻り、国会記者として出世街道の先頭を切っていた。だが、縁故採用の多いNHKという大組織の中とはいえ、父親の七光りの影を背負う負目はなかったか。しかも、その父親の過去の罪状を詳しく知った以上、……

〈そうだ。ノートを持っていたとか……〉

 智樹は小山田の報告を聞いた時、唯彦が大学ノートを持ってきたという点にいささか違和感を覚えていたのだった。だが、千歳の話を聞いてみると、そのノートは唯彦の苦悩の象徴だと思えてきた。その苦悩は、劉玉貴にも共通する問題である。いうまでもなく、日本人が日本の過去の罪悪を追及するということは、親の世代の過去を暴くということである。その最たるものが、自らの実の親への追及であろう。

 唯彦に対する親愛感が急にこみあげてくる。智樹は自分自身の新たな思いに戸惑っていた。


(7-7) 第七章 Xデイ《すばる》発動計画 7