『煉獄のパスワード』(2-7)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第二章 花崗岩の砦 7

「長官の消息が判明するまで漫然と待っているわけにはいきません。一応、最悪の事態を想定して動いてます。殺人事件と仮定して、捜査の常道は押えて置きませんとね」

 警視庁特捜課の小山田昌三警視は、所轄署採用の警官からたたき上げたベテラン刑事だから、いつでも原則を忘れない。かといって決して堅物の一本槍ではない。四角張ってごつい顔と同じくごつい身体付きに似合わず、おとぼけで冗談好きの人情家である。だが、捜査となれば相手がだれであろうと遠慮はしない。

「周囲にも気付かれてはいけないという特殊な状況ですから、要点を絞った捜査活動にならざるを得ません。先ずは仕事上で恨みを買うようなことがあったかどうか。この点は最高裁事務総長と秘書課長に洗ってもらいました。被害者が裁判で、その種の粗暴な犯人を裁いたという事実はなさそうです。人事問題で恨まれることはあったかもしれないが、相手は裁判官ですから、手荒なことはしないだろうといわれました。もっとも、私どもとしては裁判官だけを特別扱いにするわけにはいきませんが、……」

 小山田はここで一息入れ、ニヤリと白い歯を見せた。

「次に本来なら、被害者に資産がある場合には遺産を相続する家族のアリバイを確めることになっています。先入観で捜査が偏らないように対象者全員に当たります。いや、こんなことは皆さんの前で改めて言うことではありませんが、一応、確認のため」

「いえいえ、結構ですよ」と議長役の秩父冴子審議官が、小山田に調子を合せた。「大事なことです。初心忘るべからず、ですよ。皆さんも小山田さんの訓示を待っていた所ですよ、ね。他はアマチュアの集りですから、これがないと締まりません」

「おや、検事もアマチュアですか」

 と特捜検事の絹川史郎が肩をそびやかした。肘掛け椅子で細い身体を突っ張っている姿は、カマキリが羽を広げて威嚇しているような有様であったが、決して怒っているのではない。顔は笑っている。

「はい。わたしも元検事ですから、よく承知しています」と冴子が軽くいなした。「ここは刑事犯罪の現場捜査と限ってお聞き下さい。検事の専門はやはり法廷が勝負、捜査よりも起訴のほうでしょうね」

 残るメンバーは智樹だけ。《お庭番》チームだけの打合わせである。

 お互いに何度か一緒に危険な仕事をした仲だから、気心は通じている。性格に違いはあるが、仕事に掛けてはいずれ劣らぬ一匹狼の職人肌で、事実をゆるがせにはできないという共通点があった。冴子は、この種の人選に鋭い勘を持っていたのである。冴子自身も見掛けによらず、そういう体質を隠し持っていた。社交ダンスや一見男勝さりの柔道修行も、裏を返せば一種の反骨精神に根差していた。

 いつだったか智樹が同じメンバーを前にして、冗談半分にこう言ったことがある。

「この中で官界のトップに立てそうなのは、秩父審議官ぐらいですね」

 すると冴子は、いつになく真顔で反論した。

「とんでもない。この地位でストップですよ。それも危ないくらいです。皆さんの支えがなかったら、いつ寝首を掻かれるか分りません」というのだった。

 つまり、外部とつながる裏情報が冴子の隠し味パワーらしいのだ。これは通常、組織内では一匹狼の特徴である。この種の一匹狼は、権力のトップに懐刀として重宝がられはするが、派閥を踏み外すと足場を失う。

 その冴子の元に、NTTに依頼しておいた最高裁長官官舎の電話盗聴テープが届き、急遽、《お庭番》チームの招集となった。一同がテープ録音を聞いた後、弓畠耕一の息子の唯彦からの電話の内容が議論の焦点になっていた。小山田は続けていう。

「もともと家族の身辺調査は棚上げになっています。奥さんもまだ何か隠していると見た方がいいでしょう。ところが、いままでに打った手は、この電話盗聴だけです」

「そういうことですが、……」といって冴子が小山田の話を引取ろうとした。「ともかく、ここが出発点と考えて下さい。先程聞いていただいたように、息子さんは長官に何か頼

んでいたらしい。奥さんは〈またですか〉とこぼしているようです。確かに何かありますね。二人がわざと言葉にしないキーワードは、お金……」

 小山田は先を急いだ。

「失礼ですが、わたしはすでに息子さんについて、身辺調査をしました。もちろん、目立たないように充分気をつけました。これが要約です」

 小山田は皮鞄から用意してきたコピーを取り出して配った。一同は素早くめくって斜めに目を通す。

「悪い材料ともいえますが、これだけで嫌疑を絞るのは考えものです。……説明に入って宜しいしょうか」

「どうぞ、どうぞ」

 司会役の冴子も小山田の気迫に押されて遠慮気味であった。小山田の捜査状況報告は警視庁の刑事部でも名物扱いであった。独特の節回しとブラック・ジョークが利いていて小山田講談〉とか〈小山田漫談〉とか呼び習わされていた。《お庭番》チームでもすでに数回の実演を経験している。

 一同期待して座り直す所へ智樹が口をはさんだ。

「このコピーは警察庁の全国オンラインの犯歴データベースからですか」

「そうです。そこから追跡調査をしました」

 智樹は質問を口に出した途端、自分のうかつさに気付いた。同じデータベースを呼出していたのに、父親の弓畠耕一の名前だけでしか調べていなかったのである。

「そうですか。私もヒミコをたたいたんですが、これは見落としました。息子の弓畠唯彦のフルネームか、それとも弓畠の名字だけで探さなきゃいけなかったんですね」

「そうなんですよ。このデータは父親とは無関係になっていましたから」

「いや、やっぱり基本がしっかりしている、小山田さんは」

「見え透いたお世辞ですね。同じヒミコをたたくにしても、影森さんのはあくまで趣味のパソコンいじり。こちらは必死の職業的守備範囲だということだけのことですよ」

「ハハハッ……。いや、そこがまたプロのプロたるゆえんで……」

「はい。またまたお誉めのお言葉、有難うございます。では、お世辞はもう充分頂戴しましたから、本題に入らせていただきます。ええと、……弓畠唯彦。四十七歳。早稲田大学政治経済学科卒業と同時にNHK入り。NHKには大型汚職事件の度に、〈あの方の息子さんも〉といわれるぐらい著名人の二世が沢山おられまして……」

 小山田らしいブラック・ジョークが飛び出した。常に世の中を下から見る癖の小山田の軽口には、キャリア組の他の三人をギクリとさせる鋭さがあった。小山田はそれを承知の上で、時折、一発放っては一同の顔をニヤリと見回すのである。

「いやですね。つい後ろを振り返ってしまいますよ」、と特捜検事が半畳を入れる。

「この部屋の中なら何をいっても結構ですよ」、と部屋の主の審議官が胸を張る。

「続けます。報道局政治部に配属され、北京支局特派員を経て国会記者となる。その時の上司は現会長の岡由太郎、通称〈岡っ引きの与太〉または〈オカヨタ〉。本人は〈時々ヨタを飛ばすからだろう〉ととぼけるが、警察ネタを掴むのがうまかったのと与太者風の強引さが命名の理由らしい。

 オカヨタは、政治家に取り入り、著名人の二世を手なずけ、悪評ふんぷんながら現在の地位を得るに至った。その間、弓畠唯彦は三年前に高知支局に配転。どさ回り配転の原因に酒乱癖と上司への反抗を挙げる同僚もいるが、当方の内部資料によれば、マリファナ乱交パーティー参加で逮捕寸前であった。オカヨタが警視庁と取引して見逃させたものと思われる。

 二年前には、高知市の郊外で自家用乗用車を運転中、信号待ちのタクシーに追突。高知県警のテストで、呼気一リットル中〇・七ミリグラムのアルコールを検出。追突されたタクシーは空車で双方とも負傷はないが、タクシー運転手、五七歳の訴えによると、〈事故の直後に双方が車から降りた。話合おうとした所、いきなり胸倉を掴まれた。警察に行ったら仕事ができないようにする、おまえの会社も潰してやる、などと脅かされた。酔払っているのは一目見て分ったが、柄は悪いし、口調もやくざっぽいので、てっきりどこかの組のものだと思った。示談にするにしても相手が悪いと思い、困っている所へパトカーがきたので助かった〉。パトカーは、たまたま通りかかったタクシーの無線連絡により、現場に急行したものである」

「いやはや、大変なお坊っちゃんですね」と特捜検事が合い手を入れた。「しかし、その事故は新聞に出ましたかな。わたしはマスコミ関係の事件に興味があって、昔から切抜きをしてるんですが、気が付きませんでしたね」

「いえ、全く報道されていません。一応、事件報道関係のデータベースでも確めました。地方紙にも載っていませんでした。県警は記者クラブで発表したんですが、新聞も放送も、報道を見合わせたようです」

「例の、マスコミ仁義って奴ですね」

「そういうことらしいです」

「記者クラブ仲間の相身互い。それで、警察の方は詳しく調べていますか」

「調べています。これも、警察と記者クラブの相身互いがありまして、警察は一応事実を全て握って置く必要があります。そうして置けば、今度は警察の不祥事があった時に、いやあ、あの時は記事にしなかったね、といえる関係になります」

「ハハハッ……。どこも同じ風景ですね。まあ、いいでしょ。そうすると、報道されていなければ、両親は知らずにいたかもしれませんね」

「ところが、後日談があるんです」と小山田はコピーをめくって一同に示した。「預金はこの三星銀行だけですから、分り易いかと思います。一年前から毎月月末に二十五万円の自動振込みが現れ始めました。相手は事故の被害者です。現地所轄署に頼んで、被害者から聞出して貰いました。罰金とか、追突したタクシーの修理費や慰謝料は知れたもんでした。しかし、事故直後には何ともなかったタクシーの運転手が、一年後に鞭打ち症になりまして、仕事ができなくなった。労災保険の手続きを取ったものの、この一年の遅れが響いて仲々埒が空かない。憤慨した同僚がNHKの支局に乗込んで弓畠唯彦に補償を求めた所、意外にも素直に応じた。やっと過去のものになった事件がまた表沙汰になるのを恐れたのでしょうね。休業補償に相当する金額、毎月二十五万円を完全治癒に至るまで支払うと約束した。そして、被害者の年齢が年齢のため直りが遅いので、いまだに払い続けているんです」

「なるほど。経済的動機、ですね。もしかすると、父親への頼みというのは、そのための援助かもしれない、ということですね」と冴子が話をまとめに掛かった。

「だけど、先刻の電話の話っ振りは、親を誘拐してとぼけてるって感じではないですね。一寸無理があるんじゃないかな。しかも、本人は高知にいるんでしょ」

 と絹川が疑問を投げ掛ける。しかし、小山田の報告はまだ続いた。

「最後の話は、出がけに分ったばかりなので、このコピーには入っていません。M銀行の預金口座には、一ヶ月前に二千四百万円余りの振込みがありました。振込み人はNHKです。一方で、高知県警の係官が最近弓畠の姿がみえないようだというのです。事情は隠してありますから、これ以上に捜査めいたことをさせるわけにはいきません。それで、NHKセンターの人事部に友人と称して電話を入れました。すると、〈お辞めになりました〉という答えなんです。二千万円余りの金は、まず間違いなしに退職金ですね」

「えっ……」と一同膝を乗出した。

「本人は一ヶ月前から東京に戻っているんです。NHKの同僚だった男が社長をやっている音楽プロダクションがあって、そこに入ったらしいんですね。場所も電話番号も教えてくれました」

「ううむ。事故の噂で高知にもNHKにも居辛くなったのか。出費の穴埋めに退職金を当てる必要があったのか。それとも音楽プロダクションとやらの収入が余程良いのか」と絹川。

「それは調べてみませんと……」

「問題は、警察手帳を見せて調べるわけにはいかない、という点ですね」と冴子は結論を急ぐ。「他にもなにかあれば出していただいて、今後の相談をしませんか」

 どうやら冴子は、後に予定を控えているらしい雰囲気である。

 智樹は達哉の最高裁での一件を簡略に報告した。達哉との協力関係は前からのことなので、一同は承知していた。

「音楽プロダクションの方は、風見の顔が効くでしょうから頼んでみましょうか。代わりに、弓畠耕一の関係事件資料と、自殺した高裁判事、海老根毅の資料をどなたかに……。それと、最高裁図書館の蔵書なんですが、……あそこは国会図書館の分館になっていますので、データベースはあります。しかし、最高裁独自の持出し禁止資料があるらしいんですね。それが分れば、……」

「絹川さん、どうでしょう」と冴子が特捜検事に水を向けた。

「いいですよ」と絹川。「しかし、影森さんの推理か風見さんの推理か知りませんが、最後の問題はこういうことでしょうか。つまり、海老根判事が最高裁の図書館で何かを調べていた。その資料に秘密を解くカギが隠されているのではないかという……」

「あくまで仮定の話ですがね。係員の動揺があまりにも異常だったというのが、風見の意見ですから」

「だとすると、何かあったとしても、既に秘匿されている可能性がありますね」

「はい。しかし、それ以前に作られたリストがあったとすれば、そう簡単に差し替えることはできないでしょう」

「なるほど。ともかく当たってみましょう」

 と絹川検事は引受けたが、なにかまだふに落ちない表情である。そういう時の癖で、針金細工を思わせる右手が宙に浮き、太極拳のようにゆるい動きを始めていた。

「絹川さん、なにやら、腹に一物、手に荷物……みたいですが」

 冴子に指摘されて、絹川は自分の手の動きに気付き、ニヤリと照れ笑いした。

「いやね。その、……息子さんなんですがね。色々と問題はあるにしても、わたしは今度の長官失踪事件とは直接関係ないと思います。親爺が偉過ぎるから、コンプレックスが重なって若干ぐれるというケースでしょうね。珍しくありません。しかも、たとえ関係があったとしても無かったとしても、一番身近な直系親族であることには変りない。だから、協力を求めてもおかしくはないでしょ。万一、関係があったとして、その場合は重要参考人の事情聴取と同じことになるわけですよ」

「東京に戻っていることですし……」と小山田が乗り出した。「そういうことなら、わたしが直接当たっても構いませんね」

「そうですね。ことは急を要していますから、ご異議なければ、ここで決めましょうか。官房長官には私が報告して事後了承を得ますが……」

 と冴子がいい、一同は参意を示してうなずいた。


(2-8) 第二章 花崗岩の砦 8