『煉獄のパスワード』(2-2)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第二章 花崗岩の砦 2

「……シュタカ……抱擁……」

 サンスクリット語でささやく華枝の声が、甘く優しく智樹の鼓膜をくすぐる。

 照明は部屋の隅のスタンドだけで、シェードの朱色の花模様が壁と天井と窓のカーテンに妖しい影を造り出している。ステレオから流れてくるクラシックは、華枝が好きな順序でCDを組合わせてセットしたものである。

 智樹の耳の中には曲とともに、何年か前に初めて、この部屋で聞いた華枝の可愛らしい説明の声が蘇える。

〈チゴイネルワイゼンって、ジプシー風ってことよ。ご存じ?〉

 その時二人は初めて抱合って踊り、その夜、全てを許し合った。その同じ曲がいまも同じフロアに流れている。

 華枝の身振りによる指示に従って、智樹は絨毯の上で結跏趺坐の足を組んだ。湯上がりのままの裸体で向かい合うには、いささか面映ゆい姿勢だが、華枝は全くたじろがない。唇を触れ合う前に目を閉じようとすると、華枝が首を横に振って、ゆっくりとイヤイヤをした。智樹は、事前の説明を思出して、華枝の目をじいっと覗き込んだ。〈お互いの目を見ながら、愛情を確め合って愛撫を交わすのよ〉と華枝はいったのだ。

 華枝の誘いで膝立ちをした。華枝を両乳房の横からそっと抱えた。華枝は裸体のプロポーションも素晴らしかった。華枝はテニスが得意である。ダブルスでもシングルスでも、相手がいなければウォールテニスでも、暇さえあればコートに通って、鍛えに鍛え抜いている。薄く柔らかな皮膚の感触の奥には、しなやかでバネのように弾ける女体が隠れていた。腰を寄せて、下腹部を押付け合う。秘所が触れ合う。仕掛け花火を思わせる刺激が、背筋を貫いて脳天に達する。

「……ジャハノバグハーナ……性器抱擁……。そちらがリンガム。こちらがヨニ……」

 華枝はうっとりと上気した表情で、智樹の目の奥を覗き込んでいた。

「……素敵だわ、ト・モ・キ……」

 華枝は、二人だけになると〈トモキ〉、愛し合う時にはさらに〈ト・モ・キ〉という感じで、ゆっくりと智樹に呼び掛ける習慣だった。智樹はそれをも、精神的な愛撫として味わっていた。

 

 インド料理店での食事のあと、外苑を軽く散歩し、二人は華枝のマンションに向かった。十分で歩いて行ける距離である。青山通りから右に折れて脇道に入ると、突然訪れる意外な静けさに驚く。マンションの一階にはガードマンが常駐している。だが顔見知りでもIDカードを差し込み、暗唱番号とパスワードを打ち込んだ上、指紋を照合しないと入口の扉が開かないようになっていた。一人住まいの女性である華枝には、そういう安全な隠れ家での休息が必要だったのだ。

 六階の出窓から見える渋谷の街は、すでにネオンの輝やく不夜城であった。

 華枝はカーテンを明けたままにして、なんの拘りもなく、紀元前六世紀のグプタ王朝期に編簒されたインドの性典〈カーマスートラ〉の説明を始めた。

 〈カーマ〉(性愛)は、ダルマ(法律)・アルタ(経済)とともに、貴族の必修科目であった。華枝は、得意の資料探索で、インドと中国の性愛教典を調べ上げ、自分なりの評価をまとめていた。

 いまでこそ華枝のこういう大胆さには慣れたが、智樹が最初に驚いたのは、世代による習慣の違い以上のものだった。華枝には、こういう問題にもついても〈真摯〉と呼べる姿勢があるのだった。華枝が性について語る時、後ろめたさは全くなく、決して淫らな感じがしない。確かに他の問題の時よりも、いささか上気し、女っぽくはなる。しかし、生きることの意味をあくまで問い直そうとする姿勢に関しては、〈煉獄〉の発見の場合と同じなのである。華枝には求道者の趣きがあった。智樹が密かに知りながら避けるようにしていた性典に、華枝は、正面から挑むのであった。

「女の私がカーマスートラを知るということは、一種の精神革命なのよ」と華枝は可愛いらしく口をとがらせた。「インド文明も所詮は男中心の文明ですからね、カーマも男中心だったのよ。その点は変革しなければなりません。日本でも吉野太夫などの話がありますけど、女を淑女と娼婦の両方に分けて支配してきたのが、男社会でしょ。これからの女は、そういう分裂を克服して前向きに統合しなければいけないのよ」

 一見過激な論調も、華枝の口から出ると自然に聞こえた。

「カーマスートラは精神的な愛を大事にするの。だけど、いわゆる精神主義じゃないの。肉体と精神の統一といったらいいのかな。……瞑想と精神の高揚。精神による肉体のコントロール。そして文字通り、全身全霊を挙げての結合と大爆発を追い求めるのよ。何といっても、長い経験の蓄積なのね。いまの日本人は、アメリカ流っていうのかしら、性急な表面的な肉体的刺激を追い掛けるだけ。セックス・カウンセリングでも大変な過ちを犯してるのよ。その点、インドや中国みたいに歴史の長い国の知恵は、やはり違うわ。解剖学的知識は乏しかったのでしょうけれど、その分、経験を大事にして、磨き上げているのよね」

「うん。確かに戦後のアメリカ崇拝は、色々な問題を残しているね。アメリカは、旧世界の科学を発展させはしたものの、精神的な文化面では、西部劇の荒れくれ男の世界から、そんなに離れてはいない。決して洗練された文化ではないんだ」

「日本では性が抑圧されていたでしょ。だから、アメリカは大変な先進国だと思えたのね。ところが、アメリカもヨーロッパも、世界史から見れば、似たような後進国だし、キリスト教の文化は、やはり、粗野で禁欲的だったのよ。キリスト教では性愛を罪の意識でとらえているでしょ。神に一番近い筈の人間にとって、性愛が汚れであり、恥であるという感覚があるのね。エジプトや中近東も歴史は古いけど、つながりが欠けているでしょ。その点、インドと中国には文化の継続性があるわ。貴族社会の遺産がそのまま受け継がれているのね。別に貴族が偉いわけじゃないけれど、やはり、富と暇にまかせて貴族社会が造り出したものが、本当に洗練された文化なのよ」

「そういえば、インド旅行の話はそのままだったね」

「いけないのはトモキよ。わたしはいつでも休暇を取れるんだから。トモキと一緒に、もう一度あの歓喜仏をじっくり拝みたいわ」

 華枝が〈子殺し〉の自虐から立直ったのは、インドへの一人旅によってだという。智樹は、そのことを知ってはいたが、旅の詳しい話はまだ聞く機会を得ていなかった。

「……本当に、とても凄いのよ。じいっと見ている内に、突然自分が別人のように思えてくる。何千年も生き続けているような感動に襲われるの。生きているってことの意味が、理屈抜きに体の奥底から分ってしまうって感じなのね。あんな仏様を一生懸命になって造った人達に一度会ってみたい、……なァんて考えると、身体が現実の時間の壁を超えて漂いはじめるの。……」

 華枝のインド旅行への誘いは、聞く度に説得力を増していた。智樹も、段々と魅せられ、近い内に旅行を実現したいと考えていた。

「タントラ美術っていうのね。ヒンズー教の神々が裸で愛し合っている姿が、いくつもある太陽神殿の壁一杯に沢山、沢山、堂々と浮き彫りにされているのよ。昼を司る女の神のミトゥナと夜を司る男の神のヴァルナはね、どちらも太陽神スーリアの分身なの。ミトゥナとヴァルナは生と死の象徴で、二人が交わることによって宇宙が再生される。二人の交わりにはヒンズー教の永劫回帰の思想が秘められている。性愛を曇りのない純粋な快楽として、あるがままに見詰めるのがヒンズー教の思想なのね。性愛を世の中で一番大事なものとして、〈蓮の中の宝石〉にたとえているのよ」

 華枝はヒミコまで応援に引っ張り出した。検索のキーを叩く。

「ほら。ヴェーダの詩の翻訳よ。〈歓喜と歓楽と愉悦のあるところ、愛の願望の満足せしめられるところ、かしこに、われを不死ならしめよ〉。ちょっと訳が硬いけど、これがカーマスートラの愛の思想なのよ」

 華枝の口調はいつしか、仕事の癖で、レクチュア風になっていた。

「カーマスートラでは欧米式の前戯を禁じます。お互いのリンガムとヨニは意識します。でも、手や口で触れ合っていけません。抱擁する。軽く叩く。爪で掻く。歯で咬む。動物の自然の結び付きのように、じゃれ合いながら優しく求め合うのです」

 智樹は手の平で華枝の頭、頬、肩、乳房、太腿と、叩き降ろしていった。右からと左からと、叩きながら、華枝の身体を抱いて床に横たえた。人差し指の爪先で乳房の横を少し強く押した。指を離すと薄赤い爪跡が三日月形に残った。

 華枝がサンスクリット語でささやく。

「チャンドラ……三日月……」

 親指と人差し指を使って、下腹部の皮をつねった。

「マンダラム……満月……」

 五本の指の爪先で乳房をつかんだ。

「バタカム……孔雀の足跡……」

 人差し指の爪先で肩から乳房、腰から太腿と、一筋に引っ掻いていく。

「アッ……、アッ……、ナクハム……虎の爪跡……、アッ……」

 華枝は喘ぎ始めた。

 智樹は華枝の耳たぶを咬んだ。頬、首筋、肩、乳房、太腿と咬み降ろす。華枝は身悶えした。喘ぎは激しくなった。再び両頬を咬み、唇で挟む。

「……ビンドゥーマーラ……珊瑚と宝石……」

 華枝の息は乱れ、身悶えは荒くなった。智樹は手を離して、華枝の左脇に横わった。二人は、しばし息を静め、互いに見詰め合うようにした。身体を触れ合わずに視線だけを交わしていると、気持ちがますます高ぶってくる。

「クリトリス感覚の絶頂は短時間で達するけれども、浅くて短いのです。これに対して、カーマスートラの絶頂はヴァギナ感覚だといわれています。時間が掛かるけれども、深くて強いというのです。でも、もっと正確には、ウテルス、子宮感覚を考えるべきだと思います。子宮は興奮すると、奥に引っ込んで入口を閉じてしまいます。ところが、その時に亀頭の膨らみを包み込めば、一緒に中に引き込むことになります。これが伝説的な名器の真相だという人もいますが、むしろ精子を子宮に導くための自然の摂理で、本来、だれにでも備わっている機能なのではないでしょうか。カーマスートラは、全身の興奮を高めながら、しかも、このウテルスでの本来の交わりを可能にする方法なのかもしれません。自然に造り出されている機能の全てが生かされるのではないでしょうか」

 華枝は例によって、熟練したサーチャーらしく色々な角度からの資料を突き合せ、自分なりの結論を導き出していた。

「いままでの性愛に関する理論は、みんな男が勝手に組立てたのね。解剖学では、子宮は性愛の場所ではなくて、単なる育児室の扱いなのよ。器械の機能を考えるような生半可な理屈が、真実を見る目を曇らせたのね。だって、全身に喜びを感じる神経が広がっているのに、子宮だけが別な筈はないのよ。子宮は、むしろ歓喜の中心なのよ」

 智樹が右手で華枝の下腹部に軽く触れると、華枝は右足の膝を乳房につくまで抱えあげ、左足を宙に浮かせた。智樹はその左足の下に腰を回し、華枝と直角になった。華枝の左足を抱えて右に横転すると、二人の秘所が触れ合った。智樹のリンガムは固さを増し、華枝のヨニは熱く濡れていた。華枝は再び大きく喘ぎながら、囁いた。

「動かないで……気持ちを集中して……」

 呼吸を押えながら、智樹は十分間程同じ姿勢を保った。永遠とも感じられる時の流れの中で、全身が宙に浮き上がるような瞑想のゆらめきを覚えていた。リンガムに意識を集中する。ゆらりゆらりと華枝のヨニに触れ、吸い寄せられて行く。

 智樹は腰を右に回転した。

「アッ、……ハアッ、……アアッ、……」

 華枝はゆるやかに波打ちながら、智樹を受入れた。リンガムは滑らかにヨニに吸い込まれた。リンガムから智樹の全身に、華枝のヨニの形容しがたい暖かさが浸みわたっていった。智樹はゆっくりと華枝の左足を折り、華枝を右に転がしながら、後ろから華枝の腰の上にかぶさった。華枝は身体を丸め、両肘で体重を支えた。

「ウッ、フウッ、……デヌーカ……牝牛……ウフッ、……」

 華枝の囁きは途切れがちになった。

 二人は目を閉じて息を整え、瞑想の呼吸に入った。ゆっくりと息を吸う。数秒間息を止める。ゆっくりと息を吐き出す。さらに深く息を吸い、同じことを繰返す。息を吐く時には、一息ごとに頭や肩の力が抜けて行くと想像する。次第に訪れる夢うつつの瞑想状態は、天国の楽園をさまよう心地であった。リンガムとヨニの結合に意識を集中し、時折腰をゆらしながら、静かに絶頂の訪れを待つ。

 華枝のヨニは、ゆるやかに脈動を繰り返していた。

 やがて、永遠を思わせる時の流れを遮るかのように、華枝の呼吸が段々と深さを増し、強くなっていった。

「アッ、……アアッ、……ト・モ・キッ……、とても、いい気持ちだわ。……こんな感じ初めてよ。………アアッ……アッ……アアッ、……」

 智樹のリンガムの先端を熱い粘膜が包みこむ。奥へ奥へと引き込まれる感じである。小刻みにヨニの収縮が強まる。〈ここが子宮の中なのだろうか〉。華枝が腰を持ち上げ、心持ち突き上げてくる。智樹の腰はさらにのめり込む。一瞬、気絶しそうになった。

「イイッ、……イイッ、……」

 華枝が痙攣しながら、ゆるく腰を振る。智樹はもう耐え切れなかった。これが待ちに待った絶頂でなくて何であろうか。腰の奥の奥から爆発が起った。ズズズッ……、と震動が走り、一気にほとばしる。これ程の激しい射精感覚は生れて初めての経験であった。亀頭が灼熱しているように熱い。華枝の腰の動きがさらに強く激しくなった。華枝のヨニもしきりに熱い液体を発射し続けていた。

「アアッ……、アアッ……、初めて、……初めて、……ト・モ・キッ……、初めてよ、こんなこと……。本当よ、間違ってなかったわ」

 華枝の両肘から力が抜けた。華枝は腰から崩れ落ちるように床に突き伏した。

 智樹も支えを失って、ふわりと床に倒れ込んだ。


(2-3) 第二章 花崗岩の砦 3