憎まれ愚痴入口木村書店戻る   第二章┃┃6┃

煉獄のパスワード



第二章 花崗岩の砦

序 文
序 章
免罪の貢ぎ物
第一章
暗号コード《いずも》
第二章
花崗岩の砦
第三章
最新指定キーワード
第四章
過去帳の女
第五章
アヘン窟の末裔
第六章
カイライ帝国の亡霊
第七章
Xデイ《すばる》発動計画
第八章
《時限爆弾》管理法
終 章
枯葉の伝言







〈三百有余年の石垣と堀。つい最近できたコンクリートの道路。その上に溢れる自動車。コンクリートの耐用年数は百年そこそこらしいが、これからこの堀の景色は、どういう変化を辿ることであろうか〉
 苔むした石垣の渋い美観と比較されては気の毒なようだが、左手の敷地を庶民の目から隔てるための裏側のコンクリート塀は、かなり汚れており、しみだらけで醜い。所々にある警官の詰め所はさらに不様だ。
〈江戸城の歴史上、今が一番醜い時期ではないだろうか〉
 ここに来る度にそう思う。そして、想像力で過去を再現しながら眺めを楽しむのだった。やがて土手が終わり、歩道に降りる。汚れたコンクリート塀が切れると、左手に最高裁の建物が見え始めた。近景は千鳥ヶ渕の最南端の一部が切離された半蔵濠である。だが、遠景には不揃いなビルが立ち並んでいるため、なんとも雑然とした印象になる。
 最高裁が〈石の砦〉といわれるのも無理はない。
 鉄筋コンクリートを花崗岩で覆っているのだが、わざと表面を磨かずに、自然めかした岩肌を露出している。シルエットはいやに角張っている。窓は引込んでいて、この位置からはガラスが見えない構造になっている。都心では珍しく広い敷地が心持ち高台になっているから、五階建ての割には高く聳えて見える。古代的でもない。中世的でもない。しかし、やはり〈城郭〉という感じがする。威圧感がある。権力の砦である。一種異様で、不気味なデザインである。
〈三年を掛けて一九七四年四月に完成。地上五階、地下二階……〉
 智樹のヒミコで呼び出して見たばかりのデータバンクの資料要約が頭に浮かんだ。
 日付を明瞭に記憶できるのは、丁度この時分に最高裁と関わりを持っていたためでもある。一九七〇年代のはじめに、最高裁が司法修習生の思想調査をして裁判官への任官を拒否したり、現職裁判官の再任を認めなかったりする事例が続発した。青年法律家協会、略して〈青法協〉への加盟が法の中立を犯すというのが最高裁事務総局の見解であった。達哉は、この件で取材を兼ねて、最高裁への抗議行動にも参加したことがあるのだった。その頃の最高裁は移転前で、霞ヶ関の堀端、警視庁の向かい側にあった。いまは法務省が使っているが、東京駅と似た名建築の赤レンガのビルである。
〈そうだ。図書館があったぞ〉
 達哉は学生達と一緒に最高裁の図書館に入ったことを思い出した。
〈今は、どうなっているのかな〉
 急に最高裁の内側を見たくなった。
 国立劇場の前を過ぎると、すぐ隣に通用門がある。人だかりがしていて、やけに騒々しかった。ゼッケンや腕章を付けた数十名の集団が、早期公正判決要請の署名の束を持ち、門の中に入る人数の制限を巡って最高裁側と折衝しているのだった。門柱の銅板には〈最高裁判所東門〉と書いてある。鉄製の門は閉じられており、若くて逞しいガードマンが立っていた。
「済みません。一寸図書館に行きたいんですが」
「今は、ここから入れません。西門に回って下さい」
 ガードマンは右手を大きく振って、敷地の反対側を指差した。正門を右手に見て、ぐるりと右に回る。西門までは、バスで一駅の距離が充分にあった。かっての最高裁とは較べものにならない広さである。
〈確か、一万数千坪だったな。路線価格で坪一千万円としても一千数百億円か。時価二千万円だと三千億円前後か。たいしたもんだ〉
 かっての最高裁は入口も一つで、出入りは自由だった。それが今は、屈強のガードマンと鉄門で守られた城砦と化している。アメリカの最高裁には観光バスが乗り付けるし、案内人もなしに気楽に内部の見物ができるというのだが、ここでも日本の最高裁は〈逆コース〉を辿っているのだ。
〈戦後日本の平和の象徴かな、これは〉
 達哉は皮肉な観察の眼を配りながら、裏の西門に辿りついた。ここの門は開いていた。職員も出入りする通用門である。
「図書館に行きたいのですが」
 とガードマンにいうと、守衛の詰め所を指差された。しかし、守衛の返事はつれなかった。達哉の背広の襟を見ながら、
「弁護士さんか大学の先生でしょうか」
「いえ、もの書きです」
「一般の方は利用できません」
「えっ、前に利用したことがありますが」
「前のことは知りませんが、いまはできません」
「そんな勝手な……」
 達哉の持前の意地っ張りが、ムクムクと頭を持ち上げてきた。
「ともかく理由を聞きたい。入らせて貰えますか」
「はい。それでは一応、図書館の受付で聞いてみて下さい」
 守衛は達哉に、面会の申込書に記入するよう求めた。
「ここに面会の相手のサインと判を貰ってきて下さい」
 日本中どこでも同じ、お役所仕事である。面会の申込みをする本人については、別に証明書を求めるわけでもない。デタラメを書いても同じなのだ。何か犯行を企む手合いだったら、嘘を書くに決まっている。肝腎の犯罪防止には全く無効で無用な時間潰しが、ここ、最高裁でも行われているのが、おかしくもあった。
 洞窟の中のような長い廊下を抜けて行くと、建物のほぼ反対側に図書館があった。
〈最初の東門からの方が近かったな〉
 と苦笑いをしながら、受付の塑像のような係員に会釈をした。細身で、貴族の執事を思わせる白髪混じりの無表情な中年男であった。最初と同じ頼みを繰返す。
「図書館を利用したいのですが」
「資格をお持ちですか」
 その声はいかにも冷たく、不心得者をたしなめるかのように機械的に響いた。達哉は、その声のくぐもり具合で、改めて最高裁の巨大な洞窟の構造を実感した。吹き抜けの天井がやたらと高い。空気も心なしかひんやりと澱んでいた。
〈あの世の入口みたいだな。そうだ。ここは閻魔の庁の入口だったんだな〉と思った。
「いえ、もの書きです。日本の裁判制度について勉強しているんですが」
「利用できる方は、司法資格をお持ちか、大学の教授ということになっています」
「前に利用したことがあるんですがね。その時は、そんな制限はありませんでしたよ。なにか新しく規則でも作ったんですか」
「一応、図書館利用に関する事務要領、というのがあります」
「それはなんですか。最高裁の規則制定権に基づく規則ですか」
「いいえ、そんな大袈裟なものではないと思いますが」
「見せて貰えませんか」
「外部の方にお見せすることはできません」
「そうですか。いや、よくあることで。最高裁までが、法律に基づかずに国民の権利を勝手に制限するというわけですね」
「はあッ……」
 達哉の胸の中をスウッと冷たい隙間風が吹き抜けた。〈こん畜生奴!〉。ふと、いたずら心が起きた。深田からも聞いたばかりの判事の自殺事件のことだ。この事件については、すでに智樹の自宅で、原口華枝が送ってくれたデータからも若干の予備知識を得ていた
のだった。
「残念でした。あなたと論争しても仕方ない。来たついでに伺いますが、何年か前に東京高裁の判事がここの正面ホールで飛び下り自殺をしたでしょ。あれは、どのあたりになりますか」
 達哉は高い天井を見上げながら、持上げた右手の人差し指をぐるりと泳がせた。すると、塑像のような受付の係員の上半身が、急にぐらりと揺れた。手がわなわなと震えている
。青鬼のように土気色だった顔に、サッと赤みがさした。係員は声を荒らげた。
「あなたは何をおっしゃりたいのですか。何の目的で来たのですか。出てって下さい。すぐに出てって下さい」
 達哉は、係員の突然の態度の変化に驚いた。そして、自分でも意識せずに声を張り上げて、こう尋ねていた。
「あの判事さんは、あの時、この図書館に来ていたんですか」
「関係ありません。あの事件と図書館とは何の関係もありません」
 係員の声は、悲鳴に近かった。
 その声は巨大な空洞に何度もこだました。なにごとかと驚いたガードマンが、革靴の足音をカッカッと響かせて飛んできた。
 困ったことになるかと心配したが、今度は、受付の係員の方がオドオドしている。
「なんでもありません。なんでもありません」
 と繰り返して、ガードマンを引き取らせた。
 達哉はもう一度、静かに尋ねた。
「正面ホールを見たいんですが、どう行けば良いんですか」
 係員は無言で、たった今飛んできたガードマンが立っている方角を指差した。
「あそこで聞いて下さい」
 ガードマンに尋ねると、今度は、面会の申込書を見せろという。見せると、目的が違っているから、もう一度外へ出て入り直さないと駄目だという。再び受付で広報課に取材を申し込む。すると、広報課員が出てきて、パンフレットを寄越した。
 パンフレットでは、正面ホールではなく、ただ、大ホールとなっていた。
「もっとも、ホールというのは、ここしかありませんから」
 と広報課員は迷惑そうな顔をして、一緒に付いてきた。
 大ホールの広さは八九〇平方メートル、約二百七十坪である。
 採光用のレンズ型の窓が教会のステンド・グラスを思わせる。右手には小さな青銅の像が立っていた。ギリシャ神話に由来し、ヨーロッパではどこの裁判所にもあるという正義の女神像である。持っている秤が正義の象徴だというのだ。
「日本の庶民感覚だと、桜吹雪の入れ墨なんでしょうがね」
 ヘソが曲がったままの達哉は、余計なことと知りつつ、広報課員を困らせた。
「ハハハハッ……。そうもいかないでしょうが、これじゃあ、まるで、どこかのヨーロッパの植民地の裁判所みたいですよ」
 広報課員は苦笑していた。そこへ達哉が聞く。
「それで、……海老根判事が墜落したのは、どのあたりですか」
「………」広報課員は突然、石のようになった。「知りません」
 達哉を外へ送り出すまで、固い沈黙が続いた。

「長官の消息が判明するまで漫然と待っているわけにはいきません。一応、最悪の事態を想定して動いてます。殺人事件と仮定して、捜査の常道は押えて置きませんとね」
 警視庁特捜課の小山田昌三警視は、所轄署採用の警官からたたき上げたベテラン刑事だから、いつでも原則を忘れない。かといって決して堅物の一本槍ではない。四角張ってごつい顔と同じくごつい身体付きに似合わず、おとぼけで冗談好きの人情家である。だが、捜査となれば相手がだれであろうと遠慮はしない。
「周囲にも気付かれてはいけないという特殊な状況ですから、要点を絞った捜査活動にならざるを得ません。先ずは仕事上で恨みを買うようなことがあったかどうか。この点は最高裁事務総長と秘書課長に洗ってもらいました。被害者が裁判で、その種の粗暴な犯人を裁いたという事実はなさそうです。人事問題で恨まれることはあったかもしれないが、相手は裁判官ですから、手荒なことはしないだろうといわれました。もっとも、私どもとしては裁判官だけを特別扱いにするわけにはいきませんが、……」
 小山田はここで一息入れ、ニヤリと白い歯を見せた。
「次に本来なら、被害者に資産がある場合には遺産を相続する家族のアリバイを確めることになっています。先入観で捜査が偏らないように対象者全員に当たります。いや、こんなことは皆さんの前で改めて言うことではありませんが、一応、確認のため」
「いえいえ、結構ですよ」と議長役の秩父冴子審議官が、小山田に調子を合せた。「大事なことです。初心忘るべからず、ですよ。皆さんも小山田さんの訓示を待っていた所ですよ、ね。他はアマチュアの集りですから、これがないと締まりません」
「おや、検事もアマチュアですか」
 と特捜検事の絹川史郎が肩をそびやかした。肘掛け椅子で細い身体を突っ張っている姿は、カマキリが羽を広げて威嚇しているような有様であったが、決して怒っているのではない。顔は笑っている。
「はい。わたしも元検事ですから、よく承知しています」と冴子が軽くいなした。「ここは刑事犯罪の現場捜査と限ってお聞き下さい。検事の専門はやはり法廷が勝負、捜査よりも起訴のほうでしょうね」
 残るメンバーは智樹だけ。《お庭番》チームだけの打合わせである。
 お互いに何度か一緒に危険な仕事をした仲だから、気心は通じている。性格に違いはあるが、仕事に掛けてはいずれ劣らぬ一匹狼の職人肌で、事実をゆるがせにはできないという共通点があった。冴子は、この種の人選に鋭い勘を持っていたのである。冴子自身も見掛けによらず、そういう体質を隠し持っていた。社交ダンスや一見男勝さりの柔道修行も、裏を返せば一種の反骨精神に根差していた。
 いつだったか智樹が同じメンバーを前にして、冗談半分にこう言ったことがある。
「この中で官界のトップに立てそうなのは、秩父審議官ぐらいですね」
 すると冴子は、いつになく真顔で反論した。
「とんでもない。この地位でストップですよ。それも危ないくらいです。皆さんの支えがなかったら、いつ寝首を掻かれるか分りません」というのだった。
 つまり、外部とつながる裏情報が冴子の隠し味パワーらしいのだ。これは通常、組織内では一匹狼の特徴である。この種の一匹狼は、権力のトップに懐刀として重宝がられはするが、派閥を踏み外すと足場を失う。

 その冴子の元に、NTTに依頼しておいた最高裁長官官舎の電話盗聴テープが届き、急遽、《お庭番》チームの招集となった。一同がテープ録音を聞いた後、弓畠耕一の息子の唯彦からの電話の内容が議論の焦点になっていた。小山田は続けていう。
「もともと家族の身辺調査は棚上げになっています。奥さんもまだ何か隠していると見た方がいいでしょう。ところが、いままでに打った手は、この電話盗聴だけです」
「そういうことですが、……」といって冴子が小山田の話を引取ろうとした。「ともかく、ここが出発点と考えて下さい。先程聞いていただいたように、息子さんは長官に何か頼
んでいたらしい。奥さんは〈またですか〉とこぼしているようです。確かに何かありますね。二人がわざと言葉にしないキーワードは、お金……」
 小山田は先を急いだ。
「失礼ですが、わたしはすでに息子さんについて、身辺調査をしました。もちろん、目立たないように充分気をつけました。これが要約です」
 小山田は皮鞄から用意してきたコピーを取り出して配った。一同は素早くめくって斜めに目を通す。
「悪い材料ともいえますが、これだけで嫌疑を絞るのは考えものです。……説明に入って宜しいしょうか」
「どうぞ、どうぞ」
 司会役の冴子も小山田の気迫に押されて遠慮気味であった。小山田の捜査状況報告は警視庁の刑事部でも名物扱いであった。独特の節回しとブラック・ジョークが利いていて小山田講談〉とか〈小山田漫談〉とか呼び習わされていた。《お庭番》チームでもすでに数回の実演を経験している。
 一同期待して座り直す所へ智樹が口をはさんだ。
「このコピーは警察庁の全国オンラインの犯歴データベースからですか」
「そうです。そこから追跡調査をしました」
 智樹は質問を口に出した途端、自分のうかつさに気付いた。同じデータベースを呼出していたのに、父親の弓畠耕一の名前だけでしか調べていなかったのである。
「そうですか。私もヒミコをたたいたんですが、これは見落としました。息子の弓畠唯彦のフルネームか、それとも弓畠の名字だけで探さなきゃいけなかったんですね」
「そうなんですよ。このデータは父親とは無関係になっていましたから」
「いや、やっぱり基本がしっかりしている、小山田さんは」
「見え透いたお世辞ですね。同じヒミコをたたくにしても、影森さんのはあくまで趣味のパソコンいじり。こちらは必死の職業的守備範囲だということだけのことですよ」
「ハハハッ……。いや、そこがまたプロのプロたるゆえんで……」
「はい。またまたお誉めのお言葉、有難うございます。では、お世辞はもう充分頂戴しましたから、本題に入らせていただきます。ええと、……弓畠唯彦。四十七歳。早稲田大学政治経済学科卒業と同時にNHK入り。NHKには大型汚職事件の度に、〈あの方の息子さんも〉といわれるぐらい著名人の二世が沢山おられまして……」
 小山田らしいブラック・ジョークが飛び出した。常に世の中を下から見る癖の小山田の軽口には、キャリア組の他の三人をギクリとさせる鋭さがあった。小山田はそれを承知の上で、時折、一発放っては一同の顔をニヤリと見回すのである。
「いやですね。つい後ろを振り返ってしまいますよ」、と特捜検事が半畳を入れる。
「この部屋の中なら何をいっても結構ですよ」、と部屋の主の審議官が胸を張る。

「続けます。報道局政治部に配属され、北京支局特派員を経て国会記者となる。その時の上司は現会長の岡由太郎、通称〈岡っ引きの与太〉または〈オカヨタ〉。本人は〈時々ヨタを飛ばすからだろう〉ととぼけるが、警察ネタを掴むのがうまかったのと与太者風の強引さが命名の理由らしい。
 オカヨタは、政治家に取り入り、著名人の二世を手なずけ、悪評ふんぷんながら現在の地位を得るに至った。その間、弓畠唯彦は三年前に高知支局に配転。どさ回り配転の原因に酒乱癖と上司への反抗を挙げる同僚もいるが、当方の内部資料によれば、マリファナ乱交パーティー参加で逮捕寸前であった。オカヨタが警視庁と取引して見逃させたものと思われる。
 二年前には、高知市の郊外で自家用乗用車を運転中、信号待ちのタクシーに追突。高知県警のテストで、呼気一リットル中〇・七ミリグラムのアルコールを検出。追突されたタクシーは空車で双方とも負傷はないが、タクシー運転手、五七歳の訴えによると、〈事故の直後に双方が車から降りた。話合おうとした所、いきなり胸倉を掴まれた。警察に行ったら仕事ができないようにする、おまえの会社も潰してやる、などと脅かされた。酔払っているのは一目見て分ったが、柄は悪いし、口調もやくざっぽいので、てっきりどこかの組のものだと思った。示談にするにしても相手が悪いと思い、困っている所へパトカーがきたので助かった〉。パトカーは、たまたま通りかかったタクシーの無線連絡により、現場に急行したものである」
「いやはや、大変なお坊っちゃんですね」と特捜検事が合い手を入れた。「しかし、その事故は新聞に出ましたかな。わたしはマスコミ関係の事件に興味があって、昔から切抜きをしてるんですが、気が付きませんでしたね」
「いえ、全く報道されていません。一応、事件報道関係のデータベースでも確めました。地方紙にも載っていませんでした。県警は記者クラブで発表したんですが、新聞も放送も、報道を見合わせたようです」
「例の、マスコミ仁義って奴ですね」
「そういうことらしいです」
「記者クラブ仲間の相身互い。それで、警察の方は詳しく調べていますか」
「調べています。これも、警察と記者クラブの相身互いがありまして、警察は一応事実を全て握って置く必要があります。そうして置けば、今度は警察の不祥事があった時に、いやあ、あの時は記事にしなかったね、といえる関係になります」
「ハハハッ……。どこも同じ風景ですね。まあ、いいでしょ。そうすると、報道されていなければ、両親は知らずにいたかもしれませんね」
「ところが、後日談があるんです」と小山田はコピーをめくって一同に示した。「預金はこの三星銀行だけですから、分り易いかと思います。一年前から毎月月末に二十五万円の自動振込みが現れ始めました。相手は事故の被害者です。現地所轄署に頼んで、被害者から聞出して貰いました。罰金とか、追突したタクシーの修理費や慰謝料は知れたもんでした。しかし、事故直後には何ともなかったタクシーの運転手が、一年後に鞭打ち症になりまして、仕事ができなくなった。労災保険の手続きを取ったものの、この一年の遅れが響いて仲々埒が空かない。憤慨した同僚がNHKの支局に乗込んで弓畠唯彦に補償を求めた所、意外にも素直に応じた。やっと過去のものになった事件がまた表沙汰になるのを恐れたのでしょうね。休業補償に相当する金額、毎月二十五万円を完全治癒に至るまで支払うと約束した。そして、被害者の年齢が年齢のため直りが遅いので、いまだに払い続けているんです」
「なるほど。経済的動機、ですね。もしかすると、父親への頼みというのは、そのための援助かもしれない、ということですね」と冴子が話をまとめに掛かった。
「だけど、先刻の電話の話っ振りは、親を誘拐してとぼけてるって感じではないですね。一寸無理があるんじゃないかな。しかも、本人は高知にいるんでしょ」
 と絹川が疑問を投げ掛ける。しかし、小山田の報告はまだ続いた。
「最後の話は、出がけに分ったばかりなので、このコピーには入っていません。M銀行の預金口座には、一ヶ月前に二千四百万円余りの振込みがありました。振込み人はNHKです。一方で、高知県警の係官が最近弓畠の姿がみえないようだというのです。事情は隠してありますから、これ以上に捜査めいたことをさせるわけにはいきません。それで、NHKセンターの人事部に友人と称して電話を入れました。すると、〈お辞めになりました〉という答えなんです。二千万円余りの金は、まず間違いなしに退職金ですね」
「えっ……」と一同膝を乗出した。
「本人は一ヶ月前から東京に戻っているんです。NHKの同僚だった男が社長をやっている音楽プロダクションがあって、そこに入ったらしいんですね。場所も電話番号も教えてくれました」
「ううむ。事故の噂で高知にもNHKにも居辛くなったのか。出費の穴埋めに退職金を当てる必要があったのか。それとも音楽プロダクションとやらの収入が余程良いのか」と絹川。
「それは調べてみませんと……」
「問題は、警察手帳を見せて調べるわけにはいかない、という点ですね」と冴子は結論を急ぐ。「他にもなにかあれば出していただいて、今後の相談をしませんか」
 どうやら冴子は、後に予定を控えているらしい雰囲気である。
 智樹は達哉の最高裁での一件を簡略に報告した。達哉との協力関係は前からのことなので、一同は承知していた。
「音楽プロダクションの方は、風見の顔が効くでしょうから頼んでみましょうか。代わりに、弓畠耕一の関係事件資料と、自殺した高裁判事、海老根毅の資料をどなたかに……。それと、最高裁図書館の蔵書なんですが、……あそこは国会図書館の分館になっていますので、データベースはあります。しかし、最高裁独自の持出し禁止資料があるらしいんですね。それが分れば、……」
「絹川さん、どうでしょう」と冴子が特捜検事に水を向けた。
「いいですよ」と絹川。「しかし、影森さんの推理か風見さんの推理か知りませんが、最後の問題はこういうことでしょうか。つまり、海老根判事が最高裁の図書館で何かを調べていた。その資料に秘密を解くカギが隠されているのではないかという……」
「あくまで仮定の話ですがね。係員の動揺があまりにも異常だったというのが、風見の意見ですから」
「だとすると、何かあったとしても、既に秘匿されている可能性がありますね」
「はい。しかし、それ以前に作られたリストがあったとすれば、そう簡単に差し替えることはできないでしょう」
「なるほど。ともかく当たってみましょう」
 と絹川検事は引受けたが、なにかまだふに落ちない表情である。そういう時の癖で、針金細工を思わせる右手が宙に浮き、太極拳のようにゆるい動きを始めていた。
「絹川さん、なにやら、腹に一物、手に荷物……みたいですが」
 冴子に指摘されて、絹川は自分の手の動きに気付き、ニヤリと照れ笑いした。
「いやね。その、……息子さんなんですがね。色々と問題はあるにしても、わたしは今度の長官失踪事件とは直接関係ないと思います。親爺が偉過ぎるから、コンプレックスが重なって若干ぐれるというケースでしょうね。珍しくありません。しかも、たとえ関係があったとしても無かったとしても、一番身近な直系親族であることには変りない。だから、協力を求めてもおかしくはないでしょ。万一、関係があったとして、その場合は重要参考人の事情聴取と同じことになるわけですよ」
「東京に戻っていることですし……」と小山田が乗り出した。「そういうことなら、わたしが直接当たっても構いませんね」
「そうですね。ことは急を要していますから、ご異議なければ、ここで決めましょうか。官房長官には私が報告して事後了承を得ますが……」
 と冴子がいい、一同は参意を示してうなずいた。

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2006.6.6