『煉獄のパスワード』(2-5)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第二章 花崗岩の砦 5

「経歴といえば裁判所の関係だけ……か」

 深田と別れてから、達哉は堀端を歩いた。竹橋を渡り、北の丸公園、千鳥ヶ渕を右手に見ながら内堀通りに向う。千鳥ヶ渕公園を抜けて半蔵門へ、最高裁の近くまで桜田渕沿いの土手に遊歩道がある。すでに何度か散歩をしたことがある好きな抜け道なのだ。

 智樹がさらに関係資料を揃えてくれる約束にはなっていたが、それに目を通す前に、自分なりの視点を定めて置きたかった。歩きながら記憶をほぐして考えをまとめるのは、達哉の好みの習慣であった。

「うん。良くも悪くも、弓畠耕一は仕事中毒の世代だ。個人生活も裁判との係わりなしには存在しない……か」

 鶴田や深田との会話に重要なヒントが隠されてはいないだろうか。会話の記憶を反芻しながら、口に出してみる。

「陸軍法務官、裁判官、最高裁事務総長、……。法務資料、陣中日誌……。これらに代わるものはないのか」

 だが、あったとしても……。鶴田が示した〈極秘資料〉の類いの場合、所持していた本人にとって個人的に直接都合の悪いものはなかった。

〈あるとすれば、戦後の裁判記録か……〉

 これも入手するのは難しい。判例集に載っているような大事件を手掛けたかどうか。そうでなければ、各地の裁判所に直接出向いて、許可を得てコピーを取ってこないとならない。これは意外に大仕事である。それに最近では何かとうるさく、許可が下りにくくなっている。判例を載せる雑誌の記者が、手続きの繁雑化で怒り狂っている程である。

〈いざとなれば、あの法務省のイケシャーシャー審議官に頼らざるをえないのかな。イヤハヤ……〉

 つい苦笑してしまった。北の丸公園の前を過ぎて、歩道から右手の土手に登った。この土手から千鳥ヶ渕の一帯は、花見の名所である。達哉には、ここからの千鳥ヶ渕の眺めが懐かしかった。土手の左手の、竹橋から番町側の内堀通りに抜ける細い道は、代官町通りとか梅林通りとか通称されている。道と土手は、江戸城内で半島のように突き出ていた北の丸の首の部分を縫い、千鳥ヶ渕を分断している。土手の上から見える千鳥ヶ渕の真中には、首都高速が走っている。その向こうには、ボート場が見える。

 達哉は学生時代に、一度だけここでボートに乗ったことがあるのだが、その時にはまだ首都高速はなかった。達哉は自分の記憶を確めるために、首都高速度道路公団に問合わせたことがあるのだ。首都高速の建設開始は一九六〇年一〇月一〇日で、開通は四年後の一九六四年八月二日と記録されていた。

〈そうか。あれは首都高速ができる直前だったのか〉とその時に知った。

 一九六〇年六月一五日、安保条約改訂反対の学生デモの一部が国会南門から突入し、一人の女子学生が死んだ。達哉も学友とスクラムを組んでシャニムニ突入し、機動隊の棍棒で頭を割られた口である。デモ隊はその後、機動隊に追われてチリヂリになった。逮捕者も出た。達哉は親しい仲間と一緒に逃げ、この千鳥ヶ淵に辿り着いた。

 深夜である。ベンチで疲れを休めている内に、誰がいい出したともなく、〈ボートに乗ろうや〉ということになった。もちろん無断借用である。会話はとぎれがちだった。わずかな星明りだけの下でパシャ、パシャとオール音だけが響いていた。自分達の目の前で死者が出た夜の虚脱した心境にぴったりの場面であった。

 こういう思い出は何年経っても鮮明なものである。その時に一緒だった仲間は、何故か全員マスコミ関係で結構活躍している。

 菊田川賞作家、毎朝新聞編集委員、日々新聞外信部長、新東京テレビ制作局長。

〈そうだ。誰かが音程の狂ったかすれ声を出していたな〉と突然思出す。

「アカシアの雨に打たれて、……そのまま死んでしまいたい。……」

 その頃、西田佐知子が歌って爆発的に流行した曲である。

 国会の周囲でも〈血潮もてたたき出せ〉とか〈聖なる血を捧げよ〉とか、一生懸命にがなってきたばかりだった。

 今にして思えば当時の歌には血なまぐさい歌詞が多かった。

〈あれからもうそろそろ三十年が過ぎようとしている〉

 達哉も人生を振り返ってみる年齢になった。あっという間の三十年でもあるが、やはり三十年経ったのは確かなのだ。その年月の長さと較べると、あの六〇年安保の年は、日本が十五年間続いた戦争に敗れてからまだ十五年後のことでしかなかった。戦後の十五年間は、占領、ゼネスト中止、松川事件、レッドパージ、メーデー事件、朝鮮戦争、米軍基地反対闘争などなどの騒乱続きの時代である。当時の労働組合や革命政党の指導者の大半は復員軍人である。智樹の世代あたりからが戦後派と呼ばれ始めていたものの、まだ、少年期を軍国主義教育最盛期の真只中で送った世代なのである。当時の革命歌が血なまぐさかったのは、当然といえば然の結果だった。

 それから、高度成長だの昭和元禄だのと世相が次々に様変わりし、達哉の身辺も徐々に気怠く変化していった。

〈俺だけが相変わらずの無名の新人か〉

 と達哉は何度目かの台詞を口の中でかみ殺す。

 日々新聞を平記者で辞めて、以来十年。いまだに本格的なテーマに取組めないまま年を重ねる感じの毎日だった。

 退職と同時に、家庭の方では離婚が決定的となった。

 もう少し辛抱して特集記事などを手掛け、名が売れてから退社をするのであれば妻も納得しただろう。しかし達哉には、その辛抱ができなかったのである。

 きっかけは人事異動だったが、事前にある程度の予感はあった。

 その頃すでに達哉と同期入社の記者仲間は、編集委員という昔なら大記者の扱いになるか、課長職以上の職制機構に組込まれ始めていた。それが遅れぎみなら自分で見切りをつけて退職するか、関連会社への天下り転職を図るか、という時期である。

 達哉の立場は中途半端だった。記者としての実力は自他ともに認めるところなのだが、裏の裏まで取材して事実を掘りつくさないと気が済まない方だった。だから、デスクとしては扱いにくいという評判を立てられており、そのことは達哉自身も承知していた。世渡りが下手な性格についても同様の評価が確立していた。

 だが、いきなり地方の支局長という発令が出されてみると、ことは冗談では済まなくなってきた。達哉は社会部長に詰め寄った。一緒に仕事もした先輩で気心を良く知っている積りの仲だったが、地位が上がるにつれて人も変わったようだった。反応は鈍く、態度は重苦しかった。〈地方ネタも大事なんだよ〉などと逃げ口上を並べては口を濁すばかりであった。

 達哉は〈ええい、面倒な〉と辞表を出した。

 妻はもともと、達哉の家庭を省りみない態度に不満を漏らし続けていた。

〈本人はそれで満足でしょうよ。だけど、一人で正義の看板を背負っている人と一緒に暮らす方の身にもなって頂戴〉

 というのが、別れの言葉であった。

 さほど激しい喧嘩別れではない。妻は別にジャーナリストの生き方に興味を持っていたのではなくて、世間並の固定収入があるサラリーマンと結婚したつもりだったのである。その誤解に気付いた時、やっと達哉は離婚する以外にないと割り切れた。だが少なくとも、生活費だけはキチンと確保してやろうと思った。協議離婚で決めた一人娘の養育費もきちんと送金し、誕生日などには一緒に食事をしたりしている。

 達哉は常々、自分が家庭生活には不向きで、精神的にも放浪癖があるのではなかろうかと考えていた。

 千鳥ヶ渕の水面に微かな波がキラキラと太陽の光を散らしていた。それが眩しくて目を細めた時、〈死〉とか〈血〉とかいうなつかしい青春の言葉の群れが達哉の脳裏を走り抜けた。

〈そうだな。やはり、命を掛けたくなるようなテーマに取り組まなくては駄目だな〉

 そう考えていることに気付いて、また苦笑した。それはもう何度も自分にいい聞かせている思いなのであった。この千鳥ヶ渕を通る度といってもいいくらいのことだった。


(2-6) 第二章 花崗岩の砦 6