仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記(その1)

借金火達磨・巨大政治犯罪都市

「借金火達磨」とは何か

1999.1.1

 まずは本書の長い題名に籠めた欲張りな意図を、さらに詳しく説明させて頂きたい。

題名の末尾の「周遊記」とは何か

 フランスで社会学を学んだ山田吉彦(1895-1975)は、「きだみのる」の筆名で、敗戦の翌年の1946年に、サヴォアの騎士として18世紀末に生まれたグザヴィエ・ド・メェストルの著書『居室周游紀行』(著者名も題名も山田の表記)を真似て、雑誌『世界』に「気違い部落周游紀行」を連載し、その後、単行本にまとめて発表した。

 この題名の付け方は、日本では「本歌取り」などと表現される手法である。本書の題名の末尾の「周遊記」は、さらにその真似であり、18世紀末のフランスと敗戦直後の日本の雰囲気の、ごく一部を感じて頂くための言葉の遊びである。

 単行本の『気違い部落周游紀行』(48)で毎日出版文化賞を受けた山田吉彦は、さらに『東京気違い部落』(58)や『ニッポン気違い部落』(73)も出しているから、直線的な発想からすれば『武蔵野気違い部落』なのだが、今では「気違い」も「部落」も「マスコミ差別用語」として実質上禁止状態になっている。「周游紀行」も文字自体が古びてしまった。そこで末尾に「周遊記」と付したのである。

 山田は「気違い部落」をフランス社会学の方法で観察したが、私は、その方法までは真似ない。あえて学問的に真似るとすれば、やはり最新の「動物行動学」あたりである。

 山田はフランス語の「エロ」(以下、エロスと混同しないように英語の「ヒーロー」とする)を「英雄」または「勇士」と訳し、その敬称を「気違い部落」の住人に奉ることで、うがった記述のどぎつさを中和しようと試みた。「ヒーロー」(男性)または「ヒロイン」(女性)は物語の「主人公」の意味でもある。

 私は、この単語の語源のギリシャ神話における半分は「神」、半分は「人」の「半神人」の「主人公」の日本語版として、男性については「彦」(ヒコ)、女性については「媛」(ヒメ)という表現を採用する。

 山田は「実在の村」の「実在の部落」に住み着いて、最初の「気違い部落」を描いた。富山房百科文庫31(81)の「あとがき」では、ご子息が、以下の事情を記している。

「きだみのるはしかし、この本を書いたために高価な代償を払うことになった」[中略]「村の人たちが、『寺の先生』が自分たちのことを『気違い部落』という本に書いて金をもうけたと知った」[中略]ことで、「村にいずらくなった」[中略]し、「授賞式を目前にして父は行方をくらましてしまった」[中略]「村の人たちに悪いと思ったからのようであった」。

 その点、私は、差別用語の「気違い部落」を使えないという時代的制約を受けるにしても、これまでも「[本で]金をもうけた」どころか損をした実績しかなく、「先生」どころか何の肩書きもなしに棟割長屋(アパートとも言う)に住み、「個人税収日本一」の「文化都市」の「一戸建ての豪邸」に住む「教授」「弁護士」「議員」「政党地区委員長」などなどの名士やその夫人を、「彦」や「媛」として観察対象にするのであるから、大変に気が楽である。

題名の冒頭の「仰天!」とは何か

 手元の簡易辞典によれば「驚きのあまり天を仰ぐ」の意味である。

 同種の表現に「驚天動地」がある。こちらは手元の簡易辞典によれば「天地を揺り動かすほどの大事件」の意味である。この方の意味も含めて考えて頂きたい。

 つまり私は、武蔵野市を舞台として展開された最近の状況は、本来ならば、天地を揺るがすほどの驚くべき事態であると言いたいのである。

 だが、この表現は、悪名高い週刊誌が乱用し続けたために、最早、この表現の発明当初に発明者が感じたような「驚き」を伝える機能を失っているのではないか、と言う懸念がないでもない。だからといって、これも悪名高いテレヴィ業界が発明し、一時はかなり行した「あっと驚く為五郎!」でもないだろう。

 そこで、この際、ぜひとも改めて初心に帰って本当に驚き、言葉の本来の意味で「仰天!」して頂きたいのである。

副題の冒頭の「借金火達磨」とは何か

 これはすでに1995年(平成3)春の一斉地方選挙の際に使われた表現である。

「借金」の総額は、私の計算では、利息込みで現在「約550億円」であり、これは武蔵野市の年度予算の規模である。この規模の金額の借金が「個人税収日本一」を誇る武蔵野市で、たったの4,5年の間に発生していたのであるが、さらに「仰天!」すべきことには、市民は、それまで何も知らされていなかったのである。

 私自身が知ったのも、右の一斉地方選挙の内の市長選で、それまでは市長派だった元市議会議員、深沢達也の彦が、4選目の立候補をした現職市長の土屋正忠の彦と袂を分かち、選挙のチラシにグラフを掲載して各戸配布し、その実態の一部を暴露したからである。

 たったの4,5年で「約550億円」と言われても、金額が大きすぎてピンと来ない人もいるだろう。

 私自身もそうなのだが、普通の人の場合、金額があまりに大きくなりすぎると、実感が湧かないということがあるので、別の比較を試みてみよう。

 まずは普通のサラリーマンの場合、数千万円の住宅ローンを組むのは一生の重大事である。貸す側の金融機関も、綿密な信用調査をする。そのサラリーマンに家族がいれば、一家の大事件であり、家族こぞっての議論なしには、この規模の借金はできない。

 年度予算を個人の懐勘定に直せば「一年分の収入」になる。短く言うと「年収」になる。たとえば「年収」1000万円のサラリーマンが「1000万円の借金」を、何の事前の相談も予告もなしに、いきなり背負わされた考えれば、これはやはり、かなり「巨大」であり、「仰天!」するだけの騒ぎでは済まないのではないだろうか。

 もう一つ、今度は逆に視野を広げて、日本全体の規模で比較してみよう。

 日本という国家予算の規模は、1998(平10)年度予算が約77兆6691億円である。現在は、地方財政の合計の方が国家財政よりも大きくなっているが、こちらはまだ1996(平8)年度の決算合計が約101兆3500億円である。

 この規模の金額が、まるで議会への提案、討論、議決なしに支出されていたとしたら、最早、議会制民主主義などという表現は、心底、その存在を否定せざるを得ない事態なのであり、「仰天!」と言っても、「驚天動地」と言っても、まだまだ物足りない事態だと言うべきであろう。

 武蔵野市の場合、それ以前は「基金」の積立てが順調に行われ、財政は「黒字」だったのだから、この借金は「超巨大」であり、まさに「仰天!」すべき事態なのだが、市民にも市議会議員にも、さして驚く様子が見えない。これが私には驚きである。

 のちに詳しくその政治構造を観察するが、この「約550億円」の借金の「執行」決定権は、まったくの市長独裁であった。議会は完全に「権限」を奪われていた。なのに、特段、怒りを示さなかった市議会議員の彦にも媛にも、私は、疑問符を付けざるを得ない。

副題の最後の「巨大政治犯罪都市」とは何か

 武蔵野市をそう呼ぶ根拠は何か。

 大袈裟すぎるとの批判も出るだろう。だが、私は、この表現にも不満足なのである。

 むしろ、もっと長く、「仰天!超巨大政治犯罪都市」としたいところなのである。

 この規模の金額の借金が、首相の一存で処理されていたとしたら、どういう騒ぎになるかを考えてみて欲しい。

 もう一度、繰り返す。

 年度予算が500億円そこそこの都市で、たったの4,5年の間に、事実上、市長の一存で、約550億円もの使用目的なしの土地を買っていた

 その金額が丸々借金になっている。それ以前は黒字の財政が「借金火達磨」と言われるようになった。職員の補充はストップ。すべての予算は切り詰め命令。

 土地の方は半値以下に下がっている。売れば帳簿上も約300億円もの欠損となる。

 いったい誰が、この責任を取るのか。しかも実際には、地下暴落の時期に、慌てふためく日本の中央政界、中央財界が本音丸出しで叫んだ「景気対策」のために、地方自治体が土地の買い支えをさせられたのだ。これが「仰天!」でもなく、「超巨大」でなく、「政治犯罪」でもないと言うのなら、何が「政治犯罪」なのだろうか。

 ところが、被害者たる当の武蔵野市民は騒ぎもせず、非常におおらかに暮らしているように見えるのである。しかも、「個人税収日本一」と言われ、いわゆる「文化人」の住民が多い武蔵野市で、この現状を調査し、分析し、「けしからん」と叫ぶ「識者」が、まるでいない。これまた「仰天!」なのである。

 この「おおらか」な有様自体も、私には「仰天!」すべき事態なのである。

 いわゆる「文化人」には、「民主主義は地方から」などと論じる向きが多いが、これもほとんど口先だけと判断せざるを得ない。

以上で(その1)終り。(その2)に続く。


(その2)武蔵野市の猿山のボス彦にボス媛
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