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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第2章12

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第2章12) 家庭菜園

 すでに、川田順造の描写の中に、油ヤシが登場していた。この他に、コーラ、アキーなどという名の大きな種子をつける樹木性の農作物も、アフリカ熱帯隆雨林の原産である。つまり、この地帯の野生種に発すると考えられている。

 その他に中尾佐助は、2種のウリの原産がたしかだとしている。そのウリの1種は、ニワトリのタマゴ大の種子を食料にする。以上のものに、主食のヤムを加えた農作物の組合わせについて、中尾佐助は、オセアニアの組合わせと比較しながら、それよりも、「油科食物を含んでいる点で、決定的にすぐれている」と評価している。これに、狩猟動物による蛋白質を加えれば、栄養は満点である。

 面白いのは、バナナの利用法である。たとえば、ザイール(コンゴ)に派遣された外交官夫人、山本玲子によれば、大型の料理用バナナ、数種のデザート用バナナ、親指大のモンキー・バナナ、皮が赤くて中味がピンクの赤バナナといつたように、沢山の品種が栽培されている。

 ただし、バナナはやはり、または「まだ」、東南アジアからアフリカにつたわったのだと主張されている。ところが、まだ真の野生種は発見されていない。しかも、中尾佐助によると、「西アフリカのバナナは、まだまったく科学的に何人[なんぴと]によっても調査されたことがなく、いまにいたっている」。東アフリカ海岸のバナナは、少し調査されているらしいが、西アフリカ以外でも、熱帯降雨林のバナナは、全く調査されていないらしい。わたしは、最低限必要な調査をしていない主張を、学説とは認めない。また、アフリカ大陸に、バナナの野生種がなかったとも考えられない。現に、エチオピア南部では、類縁のニセバナナ(エンセーテ)を主食にしており、これはアフリカ原産である。

 それゆえわたしは、バナナも最初からアフリカで利用されていたと想定する。もちろんわたしの想定が誤りであるという調査結果がでれば、それにはしたがわざるをえない。しかし、それまでは、このわたしのバナナ栽培アフリカ起源説は、調査なき「学説」と同格である。

 では、以上のような農作物の栽培は、どのようにしてはじめられ、どういう栽培方式を生みだしたのであろうか。

 まず、植物性の食料採集を受けもつ女たちは、せまくなったなわばりの中で、成長の悪い、もしくは未熟なヤム、バナナ、ヤシの実、ウリなどをも採集しなければならなくなった。そこで、植物の成長の条件に注目しないわけにはいかなくなった。いささかこじつけめくが、ヤムのイモのような根っ子をほる作業をしていた女性たちは、字義通り、植物の生態を「根本的」に理解する機会にめぐまれてもいた。

 最初の農作業は、食用にならない植物をとりのぞき、食用植物の日当りをよくすることだっただろう。大きな木がじゃまになるときには、男性も手伝わされたであろう。しかしまだ、男性が完全に農耕文化にひきこまれるのは早い。農作業は当分、女、子供、老人の仕事である。

 さて、ここで面白いのは、ヤムやウリのつるが、樹木にまきついて成長することである。これは、現在でも、各地で行われている方式なのだが、わたしは、最初から、樹木性作物と、つるをのばす作物とは、組み合わせになって栽培されていたと考える。もともと自然状態でそうなっていたものを、見逃がすはずはない。

 いったんこの方式が成功してしまえば、あとは急速にすすむ。不用な植物をとりのぞき、そこに幼樹を植える。もしかすると、このころからすでに、不用な植物を焼くこと、つまり、焼畑耕作の原型がみられたのかもしれない。灰がすてられた場所では植物の成育が早いことも、すぐに発見されたのではないだろうか。

 これらの農作物は、また、植物としての性質もあり、熱帯という条件の下では、つねに収穫が可能である。つまり、つねに新鮮で、しかも、貯蔵の必要がない。この点も、最初の農作物として、最適の条件をもっていた。

 熱帯降雨林の農業社会の「楽園」的様相については、中尾佐助の描写を紹介しておきたい。まず、つぎの参考図のようなオセアニアの方式である。

「いまでも南太平洋の離島などでみられる裏庭型ともいうべき畑で、キチン・ガーデンともいわれる方式……何本かのパンノキやヤシ類が点々とあり、ヤムイモの蔓がそれらにまといついている。樹の下には半日陰でもよく育つタローイモの各種があちこちに雑然と生え、バナナやサトウキビの幾株かがところどころに育ち、野菜になる雑草が残っている。豚がそのあいだをときどき歩きまわっているといった風景である。畑といえば1種類の作物が整然と植えられている風景に見慣れた人にはキチン・ガーデンは畑にみえないかもしれないが、生産力は予想外に高い方式である」(『裁培植物と農耕の起源』、p.54~55)

 こういう生産性の高い農業方式があればこそ、「南太平洋の楽園」が存在しえたのである。そして、同じ方式は、現在のナイジェリア南部にもある。中尾佐助は、ナイジェリアのヤム栽培農民が、「南太平洋の島で見られるキチン・ガーデンの植え込みを、大規模に行なっている」と説明している。

 残念ながら、こういう生産性の高い「楽園」は、熱帯隆雨林地帯、または赤道地帯でしか成功しない。また、石器による伐採では、ジャングルの奥深くまでは切りこめない。

 しかし、人口は増えつづけた。人々は次第にサバンナへも進出し、それまでは、種子の採集ですませていた雑穀をも、栽培するようになった。農作物の種類はふえていった。方法も多様になった。こうして、新しく進出していった土地の条件に応じて、新しい栽培方式が工夫された。わたしはこのように、農業文化の一元説を考えている。

 紀元前8000年、アフリカ大陸に湿潤期が訪れた。農耕民族も、相変らず狩猟をつづけていた民族も、サハラへ、ナイル河流城へ、そしてオリエントへと流れだしていった。

 では、これらの民族、とくに農耕文化をきずきあげた中心的な民族は、その苦難の歴史を語りつたえてはいないだろうか。すでに双分氏族性の社会構造をつくり、指導者、つまり、長老の教えを受けついでいた人々は、それまでの歴史を教訓としなかっただろうか。

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