『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第2章7

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

農耕民と狩猟民

 まず、ヤムベルトが、紀元前1000年頃に形成されたという説がある。ところが、そのヤムベルトのすぐ北方には、イネやソルガム(モロコシ)を栽培する地帯がある。そして、アメリカ人のマードックは、アフリカ稲の栽培のはじまりは、紀元前8000~5000頃と主張している。また、中尾佐助は、この地帯の「サバンナ農耕」は、地中海のムギ栽培と同時期だと主張している。つまり、紀元前7、8000年頃のことになる。

 さて、サバンナ農耕地帯とヤムベルトとは、大小の河川で縦横につながり、境界はいりくんでいる。一方で8000年、他方で1000年、つまり差引き7000年の落差が主張されている。

 では、7000年も待たなければならないほど、熱帯隆雨林地帯でのヤム栽培などは、むずかしい技術を必要とするのだろうかというと、全く反対である。東南アジアでも、熱帯隆雨林地帯で、ヤム、タロイモなどの栽培が広くおこなわれている。しかも、東南アジアのヤム栽培については、紀元前1万年という年代さえ提唱されている。アメリカ人のサウァーは、東南アジアのヤムなどの栽培が、すべての農耕の起源をなしたという一元説をたてている。また、中尾佐助は、農耕技術の上でも、料埋法の上でも、ヤムなどは、最初の農作物にちがいないと主張している。

 しかるに、何故、アフリカの熱帯降雨林地帯では、7000年もしくは9000年も、人々は、ヤムを栽培しなかったといえるのであろうか。

 わたしが見出しえた唯一の障害は、人類学者による「一見科学的」な仮説であった。彼らの主張によると、熱帯降雨林や中央アフリカの大湖水地帯より南方には、バトワ民族(ピグミー)やサン民族(ブッシュマン)のような、狩猟民しかいなかったことになっている。しかし、この仮説には何の証拠もない。これは大まちがいである。

 この仮説の唯一の根拠といえるものは、現在、アフリカ大陸に少数の狩猟民がいるという事実でしかない。しかし、現在の日本にも、古来からの伝統を守りつづけるマタギの集団がいる。那須の与一も、ウィリアム・テルも、ロビン・フッドも、農業社会の真只中にいた。また、漁撈というのは、獲物を求める場所がちがうだけで、狩猟と同じ経済パターンである。このパターンは、農業経済と併行してつづいている。狩猟民の存在を理由にして、農耕民の進出がおそかったと主張するのは、錯覚を利用した手品にすぎない。

 さらに、この主張は、論理的にみても、いわゆる「本末転倒」の典型である。つまり、「狩猟民しかいなかった」という主張は、「農耕民が全くいなかった」という事実の確認ができて、はじめて成立する。ところが、ここでは、「狩猟民しかいなかった」という仮説を板拠にして、だから、「農耕民はいなかった」、そして、「農耕は行なわれていなかった」とまで主張されている。だが、農耕が行なわれていなかったという証拠はないのである。わたしは、むしろ、その逆の、つまり、農耕が早くから行なわれていたという証拠物件も、のちに提出する。

 その上、農作物としてのヤムの発祥地についても、全く逆の主張がある。前出の鈴木秀夫の『高地民族の国エチオピア』によると、エチオピア高原では、紀元前3000年ごろには「イモ類」(ヤムのこと)が栽培されていたらしいのである。これで、まず、紀元前1000年頃のヤムベルト説には、すくなくとも2000年の狂いがでてくる。しかも、鈴木秀夫は、このヤム栽培をしたのは、「古ネグロ(バンツーネグロ?)」だとしている。南方系の人々だと考えているわけである。つまり、ヤムベルトは、南下したのではなくて、その逆に北上した可能性の方が、示唆されているのである。[注]

 従来のほとんどすべての外来起源説と同様、ヤムベルトの仮説も、近いうちに、同じ運命をたどりそうである。だが、最も重要なのは、ほとんどの農学者が、農耕の発明にいたる「必然的な過程」の説明を、全く放棄している事実である。

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