読売グループ新総帥《小林与三次》研究(6-3)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.11

第六章《突撃隊長たちの末路》

アカ攻撃もあったドロドロの争議で専務も人事局長も更送

3 通俗的「反共理論家?」小林与二次

 もとより小林自身が、反共的な発想を持たないわけはなかった。ただ、小林には、表面立ったアカ攻撃を自分がしては、損になるという計算があっただけのことである。日本テレビでのスタジオ演説には、早くから、例の「運命共同体」論」つまりは戦前型の反共理論の押しつけが続出していた。いわんとするところは明らかであった。

 生の形での反共理論の吐け口は、別のところにあった。小林は、「自治雑記」の連載で、「行政とは何か」にことよせながら、延々とぶちまくっていたのであった。

 まずは陳腐極まる「受け売り」歴史観から。

《先進国といわれるものは、いずれも自由主義的資本主義国であって、中進ないし低開発国には、自由主義的資本主義国と共産主義的社会主義国とが併存している。共産化は、先進資本主義国では見ることができず、後進、低開発国で進んでいる。この事実は、マルクス主義の公式的な歴史発展の理論と全く逆である。先進資本主義国では、富や所得の均衡的な高度化は、中進国や低開発国より遥かに進んでおり、物質的自由の枯渇窮乏は、先進国においてではなく、低開発国ほど甚だしい。共産主義革命を産む社会的条件は、先進国においては見ることができず、低開発国に多いのである》

 だが、どう見ても、小林自身がマルクスの原典に接した形跡はない。マルクスやエングルスが、その晩年に、ロシアなどの遅れた農業国で、ブルジョワ革命が社会主義革命へと急速に転化する可能性に注目していたという話は、その道の初学者にも常識となっていることだ。小林はこの話を、ごひいきの竹村健一センセイあたりから、教わらなかったのであろうか。しかもマルクスは、競馬の予想屋とはほど遠い学者。むしろ、資本主義から社会主義への、社会変革の主たる担い手が労働者階級にならざるをえないという、最も原理的な学説の論証に、一生の大部分を費やしたのである。そして、その原理と、労働者階級の形成不充分なプロトタイプとしての「周辺革命」の現実と失敗と成功の数々とは、いささかも矛盾を生じはしないのである。ともかく、かつての天下の秀才が、俗悪テレビタレント並みの「受け売り」稼業とは、ちと恥かしかろう。

 そして、これまた、赤尾敏“愛国党”総裁がお得意の、お古い話。

《生活の安全について、体制的に問題が存するのは、思想、信仰、言論、文書等の、人間の自由の保障の問題である。特に、人間の個人的、集団的生活そのものでなく、ある体制を確立し、これを維持しようとするための自由の侵害、拘束である。それどころか、その名の下において、革命活動及び反革命防圧活動も行われるのである。それは、単に自由の制限拘束どころか、武力の行使により、個人や集団の殺傷破壊までも意としないとすることである。プロレタリア階級による武力革命と独裁がそれである。

 それが共産主義体制を絶対に容認することのできない最大のポイントである》

 だがいまや、日本共産党も“平和路線”を確立した。世界的にも、その傾向は明らかにされているし、もともと先に暴力を行使したのは、小林自身も認める「反革命」の弾圧者側であったから、“暴力”呼ばわりだけを続けていると、分が悪い。

 そこで、これまた核心に触れる“経済”論である。

《ただ、社会主義体制の確立についてプロレタリア革命という武力による階級闘争を手段とし、プロレタリア階級の独裁を絶対視する共産主義と、平和な民主的手続によってこれを実現し維持すべきだという、社会民主主義ないし民主社会主義の二つの考え方がある。プロレタリア階級の独裁を前提とする革命主義ないし反革命排撃主義は、容認することができないことは前述した。ここでは、自由主義的資本主義を否定する平和的な社会主義体制そのものの当否である。……経済活動には経済の論理が働く。それは、単に経済現象をつらぬく論理というよりも、人間性をつらぬく論理である。人間性につながっているからこそ、人間の相互活動である経済活動にもつらぬいて存するのである。利益のあるもの、その相対的に大なるものは、そうでないものより、より活発に経済的活動を誘引し拡大する。利益ということばは生産性と言い換えてよい。利益ないし生産性は、社会的な需要に相対的である。人間は、理屈を超えて、自己の利益が拡大し、損失が縮小することを、欲する。利益とは物質的金銭的とは限らない、物、心、名誉、地位、権力、あらゆる面における個人的利得である》

 つまるところ、小林の口癖、「我欲」、「競争」、これなくして個人も集団も、はたまた国家もなり立たぬという、「競争教」理論に行きつぐのである。しかし、こちらが代りに顔を赤らめてしまうような「ド本音」もあった。小林は、東南アジアにも、「エロパ」,という自治体交流でチョッカイを出しているのだが、視察旅行での自分の発言を、トクトクとして活字化している。

《タイの僧侶たちが、金を受け取るようになることが、タイの発展のために望ましいのではないのか。無欲であるよりも、むしろみんな物欲を持つようになった方がよい。男子のほとんどが修業のために僧門に入ること自体は、悪いことではないが、国民が生活の向上と発展のために、もっと欲望を強くして、その充足のために力を尽くすようにならなくてはならぬ。その意味では、タイの僧侶たちがみんな金をほしがるようになることが早道じゃないかな》

 小林の眼には、無欲な人間も、名誉欲の固まりとしか映らないのであろうか。真理への愛という人類至高の歓びも、ついに理解しえないのであろうか。そして、眼の前の日本テレビで、度重なる迫害に屈せず闘ってしいる労働者の、「連帯」の支えとなる仲間への愛さえ、見ようとしないまま一生を終えるつもりなのであろうか。

 こういう小林社長と闘う組合のニュースには、大いに抵抗精神溢れる記事が載せられている。

 たとえば、こんな投稿もある。

《四月三日のロッキード疑獄裁判で贈賄側の中心人物の一人である丸紅元専務の伊藤が、元運輸相で当時自民党幹事長だった橋本登美三郎に、秘書を介して丸紅東京支店で五百万円を渡したと証言しました。その数日前の三月三〇旧、わが日本テレビの小林社長は、こともあろうに、この黒色高官橋本の全快祝の呼びかけ人になっていたという記事が四月一日付の東京新聞に報じられていました。又起訴されている被告を、現職の法務大臣が、激励したというのですから、腹が立つより、あきれてしまいます。大臣の首は一年ぐらいですげかえられるから、どんなことでも平気で出来るのでしょうが、『マスコミをリードする人」である小林社長においては、単に金もうけの上手な、私企業の社長とは、全く立場が違います。「国民の生活を左右させる」程の力をもった責任ある立場にあるはずです。その人が、国家的関心のあるロッキード事件の黒色高官を、積極的に励ますとは、一体、どのように説明するのでしょうか。こんな社長を、マスコミの中枢にいつまでもすえておいたら、今でさえ、事あるごとに、政府や、自民党に手をかしているのですから、やがて、国民が気づいた時には、わが国の若者が銃を持って、外国で戦っていたヽなんてことにもなりかねません。悪の芽は早いうちにつみとらなければ、大へんなことになります。金もうけの上手な社長だからと云って、放置しておくことは、放送労働者として恥かしい事だと思いました。(平社員)》(『闘争ニュース』’78・4・18)


4 組合は征伐などされてはいない