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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第六章-2

第六章《突撃隊長たちの末路》

アカ攻撃もあったドロドロの争議で専務も人事局長も更送

2 「諸悪の根源」は正力ワンマン晩年の「無謀」

 上子はまた、「諸悪の根源は賃金体系」などというデマゴギーで、占領政策の錦の御旗を立てようとした。たしかに、当時の日本テレビの労使協定は、他の労組が模範とするものであった。しかし、そこには自らの節度もあったのであって、経営の傾きは、別の原因によって過重されていたのである。

 たとえば、かの『全貌』誌でさえ、こう書いていた。

《日本テレビの社員がどうして経営者不信を持つに至ったのか。同社の元重役の某氏はズバリ、核心を衝く発言をした。

 「病める日本テレビの労使関係がどうしてそうなったのか。いろいろ理由はかぞえあげられるでしょうが、要するに晩年の正力さんを筆頭に、取巻きの茶坊主的重役が公私混同をしたからでしょう」》

 最大の危機は、当時たけなわだった全国ネット系列競争(第2図参照)にあった。そしてこのネットワーク戦争こそ、最も労働組合とは縁のうすい「雲の上」の作業であった。電波をめぐる現代の「宮廷政治」において、正力軍団は、大失態をさらしていたのである。

 一九六七年(昭和四二年一一月一日以降には、UHFテレビ局の一斉予備免許が下された。一九六七~一九六九年(昭和四二~四四の三年間、つまり日本テレビでの労使関係の険悪化以前に、ほとんどのUHFテレビ局の予備免許が下っている。そして、これらの新局の系列間争奪戦の結果、従来のTBS、NTV系列の独占が打ち破られた。

 朝日新聞とサンケイ新聞の系列が、始めて全国ネットワークの態を成したのである。

 その際日本テレビ系列にとって重大な事件が起った。従来から系列関係にあったVHF局のうち、三局が奪われたのである。混合ネットだった「仙台放送」がフジ系列へ、やはり混合ネットだった「名古屋放送」が朝日系へ走った。しかも、それに先んじて、ほぼ完全に日本テレビ系列で九州地方では唯一のネット局であった「テレビ西日本」が、突如としてフジ系列に寝返ったのである。これは、日本テレビにとってだけではなく、テレビのネットワーク形成史上でも、最大のスキャンダルであったが、その背景にはまず、読売新聞の九州進出という、特殊な事情があった。

 だが、テレビ西日本の大株主は、現在、ブロック紙といわれる西日本新聞、世界最大の広告代理店である電通、それに日本財界の雄、新日本製鉄という順位である。だからフジテレビ系列へのネットワーク変更が、突如としてクーデターの如くに実現されたウラには、もっと深い事情も考えられる。

 この事件によって、日本テレビの全国ネットラークは破られ、食いちぎられ、苦境に陥入った。それは、一九六四年(昭和三九)秋のことであった。日本テレビの社史『大衆とともに二五年』にも、つぎのように記されている。

《東京オリンピック開催の三九年秋、テレビ西日本は一方的に当社とのネットを打切り、全面的にフジテレビネットに切り替えた。……やむなく福岡に九州分室を設置して、ニュースの送出だけはかろうじて確保するという窮状に追い込まれた。この形は、四四年四月、福岡放送が開局するまで五年間にわたって続いた》

 しかし、営業上の問題は、更に深刻であった。

 「この時期までの当社のニュースは、昼は(株)日立製作所、夕方は松下電器産業(株)、夜は東京芝浦電気(株)という強力な電器メーカーによるスポンサーに支えられてネットヮークを保っていた」という実情があったのだ。いわゆる高度成長期の家庭用電器メーカーは、広告業界で「ナショナル・スポンサー」と呼ばれており、全国規模の広告媒体を求めていた。日本テレビはテレビ西日本への番組ネットを失ったがために、これらの「ナショナル・スポンサー」の要望を満すことができなくなったのである。

 この事件の原因について、表面的には、最大株主でもあり地元代表の西日本新聞が、読売新聞の九州進出の経過に怒り、フジ系列にくらがえしたといわれている。しかし一方には、その西日本新聞の大株主、電通という、広告主側とマス・メディア媒体の相方の代理権を握る怪物的な広告代理店の存在がある。そして当時、広告主側である電機メーカーなどは、一九六五年(昭和四〇)をピークとした不況(過剰生産恐慌)の吐け口を求め、UHF局の大量認可をのぞんでいた。それに対して、既存のVHF局の大勢は、既得権擁護のために、反対を唱えていたのである。とくに日本テレビは、正力松太郎会長(読売新聞社主等兼任)を国会に送り、政治的にも一定の影響力を握っていた。そこへ突如、テレビ西日本のネット系列変更、全国的にもUHF局の大量認可へと、急激な動きが続いたのである。ひたすら正力松太郎自民党衆議院議員の政治力に頼ってきた日本テレビの経営陣としては、まさに寝耳に水の驚きようであった。

 しかも、正力の死後に書かれた読売新聞社の正史『読売新聞百年史』では、この九州進出を、正力松太郎の独走によるものとしているような事態だったのだから、事態は奇々怪々。周囲はオロオロするばかりであった。

 務台光雄は、正力の九州進出強行案などに反対し、雲隠れの抗議さえした。その有様は、務台の伝記『闘魂の人』や「読売新聞百年史』に、こと細かく描かれているし前著でも若千の紹介をしたところである。この九州進出は、読売グループにとっては、それほどの破局的事態であった。

 これと合せて、正力が「わたしの悲願」とまで呼んだ「よみうりランド」建設の資金問題がある。その概略も、すでに前著で紹介したところである。そして、株価操作と資金集めの増資のために、新宿「正力タワー」建設の大バクチが打たれ、それも正力の死とともに、宙に消え失せてしまったのである。

 いうところの「経営危機」の主たる原因は、これらの無謀な経営政策にあった。そのことを、ほとんどすべての日本テレビ社員は知っていたから、お粗末なアカ攻撃は通用しなかったのである。

第2図 民間放送のネットワーク系列一覧(※印は最近開局したテレビ局)
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3 通俗的「反共理論家?」小林与三次