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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第五章-6

第五章《組合征伐》

「決死」とか「捨て身」が飛び出す本人談の真相とマスコミに報道されない実状

6 「軽井沢発言」の血しぶき

 一九七二年八月二〇日、ときの日本国総理大臣田中角栄は、軽井沢の料亭「遊ふぎ利」に、いわゆる田中番記者九名を集め、例のダミ声をはりあげていた。

 ことの次第は、『文芸春秋』、『週刊現代』、『赤旗』などにスッパぬかれた。だが、活字化された放言は、本物よりも品がよくならざるをえない。言外のふくみがうすれる。その時に記者たちの脳裏をかすめた過去の事実の再認識や未来への恐怖などは、行間にかくされてしまう。

 メートルのあがった最高権力者は、赤鬼のごとき形相で、「わだじゃね、キミ」と身振り、手振り、全身でりきんだのだ。「この男(記者)があぶないと思えば、外すのはわけない」とすごんで、一座をぐるりとひとにらみ。「わだじゃね、キミ」と一息いれて、「マスマミ各社の内情は全部知っているから、やれないことはない。その気になればコレヘ首に手を当てる)だってできるし、弾圧でもなんでもできる」とばかりに舌なめずりをしたのである。

 事実、日米間の沖縄密約電文をスッパぬいた毎日新聞の西山太吉記者が、逮捕、休職処分、起訴という目に会ったばかり。上司の中谷編集局長も更迭されていた。そこで赤鬼は、思い入れタップリに記者たちをねめつけて、「アレ(西山事件)もわしが爆弾(逮捕の意か)を落した方が良いと言った」、とすごんだのである。

 これは単なる放言ではない。血刀を振りかざしての、マスコミへの脅迫にはかならなかった。それゆえ、この発言の暴露には、また、決死の覚悟も必要であったのだ。

 赤鬼は、記事さしとめに関して、「私は佐藤(元首相)のように電話などしない。ちゃんとなっているのだ」と自慢したという。ではどのように「ちゃんとなっている」といえたのであろうか。

 その典型例を、読売新聞と日本テレビ、いいかえれば、読売系巨大マスコミにみることができるのである。

 まずここでは、「軽井沢発言」の前後に、血しぶきがとびちっている。

 一九七一年二月には、日本テレビ生えぬきの常勤重役が、六名も一挙にクビをきられた。かえす刀で、翌年の春闘序盤戦において、民放労連日本テレビ労組の河野慎二委員長以下六名(木村を含む)に、出勤停止六日から一日の処分通告、やがて懲戒委員会打切りの処分強行。ついで、調査・国際職場代議員(斗争時には斗争委員)であった木村のクビキリヘと進んだのである。

 木村解雇事件の『訴状』の「不当労働行為」という項目から、木村の活動歴を抜き出してみよう。

《本件解雇は、次のとおり原告が活発な組合活動を行ってきたためになされた不利益扱いであり、同時に組合の組織弱体化を意図した支配介入の不当労働行為であるから、労働組合法七条一、三号に違反するもので違法・無効なものである。

一、原告が長期にわたって活発に組合活動を行ってきたこと。

(1) 原告は、昭和三六年四月一日に入社したが、入社後すぐに同期生や職場の先輩に組合結成を呼びかけ、同年六月九日組合結成と同時に加入し、以降一組合員としての期間も、代議員会の傍聴参加等、積極的に組合活動に参加した。

(2) 原告は、同三七年八月、編成職場の職場委員に選出され、代議員を補佐し、代理として何度も代議員会に出席した。また、訴外横江川らと日本テレビ放送研究集会を主催した。

(3) 原告は、同三八年一月、右職場の代議員に選出され、土曜半休または隔週休日の交渉が行われていた時期、時短委員会の委員として活動した。また、この時期に九州のRKB毎日放送で、芸術祭参加ドラマ「ひとりっ子」の放映中止事件が起き、民放労連は「ひとりっ子」放映運動を起した。原告はこの「ひとりっ子」のスライド上映、放映中止抗議署名集めに積極的に参加し、前記日本テレビ放送研究集会のメンバーを中心にして、組合内の「ひとりっ子実行委員会」を結成し、その中核となって活動した。また原告は、前記運動の一環として、同年六月二三日の横須賀原潜寄港阻止大集会 同九月一日大集会の実行委員会の主宰者としても活動した。右の二集会には組合として二台のバスを仕立てて参加するなど、組合員の政治的関心も高まってきた。

 そして、原告は同年八月、右代議員に再選されたが、次項の如く、上部団体役員に選出されることとなったため、中途辞任となった。

(4) 原告は、同年九月関東甲信越地連(現在は関東地連に改組)の執行委員に選出された。 同地連は、地区協議会から改組されたばかりであり、地連活動は緒についたばかりであった。原告はそのなかにあって、共斗、放送対策担当として、同地連活動の中心的役割を果した。そのころから原告は、現在の民放労連フジテレビ労組の結成を援助した。

(5) 原告は、同三九年一月一八日横田基地包囲の大集会に際しては、在京民放実行委員会を主宰し、最大の動員をかちとり、同年四月に行われた「ひとりっ子」関西芸術座東京公演実行委員会を主宰した。

(6) 原告は、同三九年九月右関東甲信越地連執行委員に再選され、東京春斗共斗マスコミ部会委員として、東京地区マスコミ共斗の組織強化に努力し、青年婦人対策も担当した。

 また、原告は在京民放各労組の放送対策担当執行委員を中心に、地連放送対策委員会の活動を定期化し、放送の反動化反対の斗いを組織した。

 原告は、被告会社系列で、自衛隊物語「列外一名」が企画製作されようとしたことに反対し、前記「ひとりっ子」実行委員会を中心として、職場の中に「列外一名」阻止対策委員会をつくり、パンフレットの発行、宣伝組織活動に努め、この活動はマスコミ共斗規模の会議に発展し、被告会社は遂に「列外一名」の放映を中止するに至った。

 更に、原告は同四〇年四月一日に、放送の反動化に反対し、民主化をかちとるための有料新聞「おしゃべリアンテナ」を創刊し、同新聞は以来続刊され、「おしゃべリアンテナの会」という市民運動に発展した。

 そのころ、民間放送下請関連企業の組織化の活動がすすんだ。これは、日本映画テレビ産業労働組合(略称、映産労)の分会を経て、現在の民放労連東京地区労組(組合員約三五〇名)に発展したのであるが、原告は当時、関東甲信越地連の責任者として、その組織化のために積極的な努力をした。また、原告は映産労の活動に協力し、「映画・放送・芸能関係者憲談会」を主宰し、それを一年間で十数回にわたって成功させた。

 同四〇年五月には、被告会社で『ベトナム海兵大隊戦記』(ノンフィクション劇場)、NETで教科書問題を取り扱った『佐紀子の庭』(判決)の一方的中止事件が起きた。「おしゃべりアンテナ」は『佐紀子の庭』シナリオ全文と『ベトナム海兵大隊戦記』中止の経過をのせた六月九日付号外一万部を発行した。事態は緊急であったので編集は原告が単独で行った。この号外は、教育、出版労働者にも広く読まれ、大きな反響をよんだ。また、組合は『ベトナム海兵大隊戦記』スライド、テープ、上映台本を作成したが、原告はその複製、全国的普及に努力した。……

(7) 原告は、同四〇年八月組合の書記次長に選出され、共斗担当、共斗委員会責任者、財政委員会責任者となった。

(8) 原告は、同年一〇月、千代田区労働組合協議会常任幹事に選出(兼任)された。原告は同区労協の組織部活動の中心となり、麹町ブロック議長を二期つとめ、つづいて事務局長を二期、合せて四期四年間にわたって区労協活動の発展にとりくんだ。また原告は、同区労協十日年誌の発行にあたっては、編集委員長の任を果した。……

(10) 原告は、同四一年八月組合の執行委員に選出され、区労協常任幹事兼任のまま、財政担当となった。原告は前期からの財政確立運動をさらに強化し、職場別未納組合費台帳と合わせて、個人別未納組合費台帳、納入督促状へ職場プロック担当執行委員用、職場委員会用、個人宛、控えの四色伝票)などの体制をつくり、この一期間で赤字を大幅な黒字に転じ、上部団体未納金を一掃し、なおかつ約二百万円の斗争資金積立てを成功させた。……

 同時期原告は、区労協常任幹事、麹町ブロック議長を兼任していたが、麹町ブロック内で発生した同年末のビラはりに対する刑事弾圧事件では、積極的な活動を展開し、不起訴を勝ちとったり、一〇・二一べトナム反戦デーでは、麹町ブロックのストライキ委員会を組織し、ストライキとデモ行進を大成功させた。

 原告は、同年度には革新政党の区議会議員候補と協力し、麹町革新都政をつくる会を結成し、全都、千代田段階の革新都政をつくる会の下部組織として活動した。

 この時期に、区労協段階では、全国金属日本ロール支部の長期争議をテーマとした映画「ドレイエ場」の製作上映運動にとりくみ、原告は、東京の地域組織の代表として、製作上映委員に選出された。…‥

(11) 原告は、同四二年一〇月千代田区労協事務局長に選出された。

 この年、区労協はベトナム斗争委員会を組織し、一〇月一二日には千代田公会堂に七〇〇名を集めて、「一〇・二一統一行動を成功させるための千代田集会」を成功させた。一〇・二一当日には区内一四一組合がストライキ等の実力行使で立ち上った。

 また、この秋季、年末は、春斗共斗の盛り上りの上でも画期的な年であった。一一月一七日に東京春斗共斗、十二月一日に千代田春斗共斗、一二月一七日に中部ブロック(中央・千代田)春斗共斗が結成された。原告は千代田・中部ブロックの両春斗共斗の事務局長となり、東京春斗共斗の中部ブロック担当委員となった。……

(12) 原告は同四二年一一月、組合の拡大中央斗争委員(斗争時に選出され、執行委員と同格)に選出され、区労協事務局長と兼任した。組織担当として、職場委員会の結成確立に当った。また原告は、未組織の下請関連企業の労働者の組織化に努力し、関東甲信越地連未組織対策委員会のメンバーとして、以後三年間活動をつづけた。四四年三月二九日にはこの対策委員会の援助の下で、民放労連東京地区労働組合が結成された。……

(13) 原告は、同四三年八月同右執行委員に選出され(区労協事務局長と兼任)組織担当として、職場委員会活動の強化、未組織の組織化にとりくみ、未組織対策ニュースを原告と訴外田口征四郎の発行人名入りで数度にわたって作成し、被告会社構内の下請・関連企業の未組織労働者に配布するなど、下請関連企業の労働者のたたかいを一貫して援助し、被告会社の悪質な妨害に反対してきた。

(14) 原告は、同四三年一〇月区労協事務局長に再選された。……

 翌四四年春斗においては、報知系三単組に読売資本を背景とする狂暴な組織攻撃が加えられた。原告はただちに報知新聞に赴き、ストライキの泊りこみ、朝ビラ等に参加する中で、新聞労連と協議し、東京地評、マスコミ共斗、新聞労連、千代田労協を中心とする報知支援共斗会議の結成に努力した。……

(15) 原告は、同四四年八月組合執行委員に選出され、同年一〇月までは区労協事務局長を兼任した。

 この期の執行委員選挙の前段では、それに対する被告会社の干渉の動きが活発になってきた。

 田川人事部長(当時)は、執行委員改選前に数人の活動家に対して、懐柔をねらいとする配置転換のさそいをかけた。原告に対しては、同人の友人を利用して「営業に来て仕事をする気はないか。そろそろ組合から足を洗う時期だろう」と言わしめた。原告は勿論右懐柔に対しては、即座にこれを拒否した。更に、田川人事部長は、被告会社の某社員を執行委員選挙に立候補させ、会社派として利用するべく策動したが、原告が事前にそれを察知し、右某社員に対して、立候補をとりやめるよう説得した結果、右某社員は立候補をとりやめた。

 こうして田川人事部長は、前記の原告の活動によって、組合組織への内部干渉をはばまれ、以来、原告に対しては敵意を露骨に表わすようになった。

 原告はこの年度、前期にひきつづいて、未組織対策担当、関東甲信越地連未組織対策委員会の委員となった。また、原告は日本テレビ内の臨時契約者の組織化、社員化斗争にとりくんだ。この問題はとくに、当時の被告会社の労務政策と正面から衝突するものとなった。……

(17) 原告は、同四五年八月、広報職場委員、合理化対策部員および経営分析委員、同四六年八月調査・国際職場委員、合理化対策部員、経営分析委員、同四七年一月調査・国際代議員、合理化対策部員、経営分析委員を歴任した。……》


7 右翼公安情報誌『全貌』まで活用