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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第四章-6

第四章《“民間”の官界ボス》

刑事被告人から“キング与三”とおだてられた“ブレイン”の無法人脈

6 “反官僚”ポーズの手柄話の内幕

 小林与三次がテレビ音声多重放送で、免許条件に違反する“海賊”選挙報道を強行し、「厳重注意」の文書一枚で一件落着となった。ことの次第は『テレビ腐蝕検証』などにも詳しい。

 日本テレビの社内でも、『社報日本テレビ』が毎号のようにこの問題を論じ、社長の“英断”を持ち上げた。しかし、小林がみずから、

《こんどの問題について、よく日本テレビはラジオを持っていないので、その代りに多重放送の電波を使うつもりなのだ、という人がいたが、私には、そんな考えは全くない》(『社報日本テレビ』’80・10・15)

 などと強弁するのはチト見苦しかった。すでに『テレビ腐蝕検証』でも『噂の真相』誌でも紹介されたことだが、以前には小林自身がこう明言していたのだ。

《ラジオを持っていない局の弱みが、まざまざと感じられる……新しい波の問題ですからね。そう簡単に波の割り当てがあるとは思われない。……だから、音声多重放送をやろうとしているのです》(日本テレビ社史『大衆とともに二五年』)

 だが、このような矛盾だらけの強引な論法が、「厳重注意」の文書交換だけで見逃されたのは、他でもない。チョウチン記事が、露骨にも、その秘密を語っている通りなのである。

《小林には強力な政官界の人脈があり、特に郵政省に絶大な影響力を持つ田中角栄と親しいのだから、小林を相手に喧嘩をしても、とても郵政省には勝ちめがなかったであろう》(『現代』’81・8)

 しかも、田中派のブレインにその人ありと知られ、角栄の腹心中の腹心といわれる後藤田正晴は、かつて小林の直系の部下であった。もちろん、内友会の有カメンバーである。そして、『噂の真相』(’80・8)には、衆参ダブル選挙におけるテレビ音声多重放送の制限緩和について、つぎのような指摘がなされていた。

《ドサクサまぎれの免許方針変更には、まだ、ウラのウラの情報がある。田中軍団の切れ者として知られ、ハプニングの筋書きに「後藤田メモ」ありと騒がれた御当人、後藤田正晴の動きが感じられるのである。「日本テレビの衆参・ダブル選挙報道におけるテレビ音声多重放送実施要望(五月二二日要望)に対し、当局側は対応策に苦慮しつつも前向きの検討をはじめているといわれるが、当局側が前向きにならざるを得ない決定的要因?は、どうやら後藤田正晴自治相の大西正男郵政相あて要望にあったとみられている。いわば衆・参ダブル選挙を統轄する後藤田自治相が、一体どのような文面の要望書を大西郵政相あて提出(五月三〇日)したか、その内容は詳らかではない。正式な要望として郵政相が受け入れれば、事務当局としても否応なしに対応せざるを得ないというのが真相であろう」(『放送ジャーナル』’80・6・5)

 後藤田正晴、六五歳、東京帝国大学卒、大平内閣で自治大臣・国家公安委員長・北海道開発庁長官を兼務。旧内務省から警察予備隊(自衛隊の前身)を経て警察庁長官、そして田中内閣の官房副長官に転進、一九七四年の参院選で二五〇人もの大量違反者を出して落選……。

 ともかく、黒いうわさにはこと欠かぬ人物である。》

 つまり、小林の一反官僚“ポーズのうしろには、これら“旧官僚”の友人たちはいうに及ばず、官界操作に最大のパワーを誇る田中軍団さえ控えていたのだ。まさに、赤子の手をねじるに等しい所業である。とんだ手品まがいの示威行為といわざるをえまい。

 しかし小林には、さらに奥深い人脈もある。田中派は大蔵省にも根を張っているが、ここにも小林自身の触手がうかがわれるのだ。

 小林と大蔵省の関係には、歴然としたものがある。というのは、小林の次女恵子の夫が、大蔵官僚の佐藤謙であり、その仲人である近藤道生は、元銀行局長、そしていまは、日本テレビとの連携が強い広告代理店博報堂の社長という立場にある。さらに、最近のCR(コミュニティー・リレーションズ)作戦の立役者として、元警視庁鑑識、暴動鎮圧の専門家として知る人ぞ知るといわれた町田欣一が、突如、一九七四年に博報堂の取締役に天下ったという事件もある。警視庁=旧内務官僚閥=小林=近藤=博報堂、そして広告代理店の巨大化とマス・メディア支配の強化という現実を重ね合せる時、背筋が寒くなるのは、わたしだけだろうか。

 しかも、この人脈構造は、しっかりとした土台、つまり利権構造に支えられているのだから、そう容易には突き崩せないのである。

 大蔵省との関係では、もうひとつ国有地の払い下げという、これも著名な利権構造がある。日本テレビの例は、すでに紹介したが、読売新聞の大手町本社の土地もそのひとつで(務台と小林の共同作戦は、公然たる自慢話になっている。その際、小林の元官僚のコネと、当時は読売新聞副社長兼論説委員長という、両方の圧力が使われていることに注意したい。

 しかも、自治省事務次官在任五年一ケ月といぅ、最長不倒記録も馬鹿にはならない。というのは、閣議と不即不離の関係で、「次官会議」が常設されており、実質的な各省庁間の協力関係や利害調整は、そこで決定されている。小林はこの次官会議で、旧内務省系官庁の多数派グループのボスとして、内務班長か牢名主並みの権力を振っていたのだ。これにプラスアルファーが、あの興亜院人脈、パージ人脈だ。それらの人脈は、もちろん利益誘導つきでなければ、そう易々とは働かないだろうが、ともかく各省庁に通じているのである。

 また、小林の度重なる海外旅行も、そういう背景とともに見なくてはならない。北朝鮮との高校サッカー親善、田中角栄と相前後する訪中、そして最早、抹殺したい過去のひとつ、かの悪名高きウガンダのアミン大統領表敬訪問・勲章拝受の“怪”挙。いわゆる発展途上国の大使。公使を招いての「観桜会」等々。その背後には、内閣調査室や外務省の影がちらつく。小林の前歴には、国際情勢調査会会長というのもあるのだ。そして、総理府広報室の外郭機関、日本広報協会会長という現職の肩書きもある。

 かつてアメリカの国務省とCIAが、海外調査・宣撫工作に、マスマミ経営者やジャーナリストを先頭に立て、珍重したことは、あまりにも有名な話だ。その前は宣教師、そして文化人類学者などが、同じ役割を果していたのである。多くは無自覚で、または密命を受けて、あるいは偽装して……。

 だが、小林の場合には、卒先してとか、自ら売り込んで、というべきであろう。行政・司法だけでなく、外交官試験も受けたかったなどと、かなり前から語っているからだ。もっとも初期には、「語学にさえ自信があったら、外交科も受験したに違いない」(『自治時報』’64・1)という説明だった。つまり、少くとも語学力の不足を理由に、外交官試験を受けても合格できなかったであろうことを、正直に告白していたわけだ。ところが、外交官まがいの旅行でスレてくると、そんな「欠格条件」はサラリと忘れたものか、ただ、「受けときゃ良かった」式の話になっている。

 とまあこんなところが、官界OBのボスとして、チラチラ目につく動きだが、もうひとつ、忘れてならぬ官庁がある。

 それは、労働省で、ここも旧内務省の一部だった。戦時中から、厚生省に含まれていたこともあるが、その前身は、労働争議や小作争議の取締りが専門。いまや、労働力流動化政策といったたぐいの、ますます巧妙な手口に変りつつはあるものの、いたるところで先祖帰りが目立つ昨今である。もちろん、その暗闇の人脈には、小林らの直系がいる。そして、小林大先輩については、「組合を征伐し、再建に成功」「財界』(’80・1)などというチョウチン記事を、編集長の署名入りで掲げる雑誌もあったのだが、その真相はいかがなものであろうか。

 まずは、決してマスコミに報道されることのない、日本テレビ争議のハイライトから、「征伐」の結果をうかがってみよう。


第五章《組合征伐》 1 ブラスバンドを先頭にデモ行進