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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第四章-3

第四章《“民間”の官界ボス》

刑事被告人から“キング与三”とおだてられた“ブレイン”の無法人脈

3 《部落選挙》の戦後ルーツと全国的利権構造

 さて、内務省解体から、その実質的再建・腐蝕構造の肥大化といおうか、話が先に進んでしまったのだが、そのスピード復活の秘密も、やはり《地方行政》にある。しかもそのルーツは、なんと、内務省解体以前から、始動していたのである。

 その第一点は、すでにふれた「公職追放」問題だ。そこで小林らは、戦時中の地方ボスをかばい、やむを得ぬ場合には「身代り立候補」などの手段を駆使して、保守地盤を温存した。くり返すが、その時の小林の肩書きは、「選挙課長」だったのである。

 第二点は、それら地方ボスのより所であった「町内会部落会」という組織の温存である。GHQは、公職追放につづいて、この日本型ファシズムの末端組織にも、解体の指令を出した。その指令の一節にはこうある。

《多くの場合、長にはボスがなった。このような長は、公共精神に欠けており、構成員の困窮には無関心であり、多くの場合において、その地位を利用して、地方的な暴君となった。彼らは、大政翼賛会、思想警察その他抑圧の機関の役になった。単に彼らは、過去において監視と組織化に没頭していたのみではなく、彼らの多くは、地方選挙を支配し、あるいは自分の官職のために、派閥を作り、組織を作った。このような人々は、地方行政の民主化を成功させるために、非常に危険な存在である》

 なんとまあ、いまの千葉県や、青森県は名物“津軽選挙”などの、自民党ボス議員の名産地にピッタリの、“ナウイ”表現ではなかろうか。それというのも、小林ら高級官僚が、ここを先途と、“お国のため”、この場合は自らの地盤、後進県の保守支配維持のため奮闘したからである。小林は、このGHQ布告に対しても、かく闘えりという自慢をしている。

《私は、………、町内会部落会、隣組の廃止については直接関係していなかったが、何かの会議で、このビラはできるだけ進駐軍の眼につくように、とくに進駐軍のいる前の壁には、ベタベタ貼って置け、そして、それだけでよい、といったことを、記憶している。要するに、ありったけのビラを進駐軍の眼につき易いところに貼って、あとは形だけにしてほおっておけというのが、私の考えであった》

 もっともその頃、GHQの本体をなすアメリカ軍は、石井中将の“悪魔”のノウハウを吸収し、本来ならA級戦犯で絞り首になるはずの服部卓四郎らの元参謀をも、対ソ戦研究に登用していた。元特務機関員も、そして元特高も、つぎつぎとGHQにやとわれていた。まさに、日米支配層は、おたがい様の関係。民衆の眼をあざむく、うすぎたなさの競争であった。

 第三点は、さらに大掛りであり、制度的には現在まで続いている問題である。その典型が、たとえば「地方制度調査会」である。この前身ともいえる「地方財政委員会」が、内務省解体ときびすを接して発足し、“旧内務省丸”の守護神となった。奇っ怪なことには、いまや高名な元特高の奥野誠亮が、自治庁の財政課長と地方財政委員会の財政部企画課長を兼任していたことさえあるのだ。

 この種の、「委員会」だとか「調査会」だとか「審議会」だとかの現存組織は、戦後民主化の鬼っ子のようなものである。GHQは、アメリガ式の行政委員会や民間人参加の公聴会、諮問機関等をつくることによって官僚支配に対抗させようとした。放送関係でも、放送委員会や電波監理委員会があった。これらを、解体したり、骨抜きにしたり、変質させたりした結果が、現在の状況である。それらは、片や天下り機関、利権談合、闇資金ルー卜、そして、OB官僚と政財界がグルになった“私的政府”ですらある。まさに反対物への転化といえよう。

 本書では、深入りを避けるが、「地方制度調査会」などは、その最悪のボス組織であろう。つまり、すでに何度も強調した「地方行政」のベテランたちが、ここに巣食い、全国的利権構造の調整に当っているのである。そして、彼等の最大の武器は、その法律知識、いや、なによりも長年の経験にもとずく「法網くぐり」もしくは「抜け穴づくり」の忍法百般というべきであろう。とりわけ重要なことは、地方財政いじりの特殊技能の持主の集まりだということである。

 その秘密あればこそ、小林も、汚れたりとはいえ元日本国首相から“キング与三”と呼ばれたのである。

 小林のその面での“実績”を、いちいち紹介はできない。すでに述べたように、別の企画で考えなければ、位置付けも難しい。要点だけに留めざるをえないのだが、すでにその一端として、《百万都市計画》の例を紹介したところである。

 その前段には、《町村合併》と、一連の地方制度改正(改悪)がある。《町村合併》を一言で評せば、革新地区つぶしのムラ構造抱き合せであり、保守地盤の掘り起し強化であった。そして、その成功を誇る小林は、当時の自分の地方まわりの演説まで再録している。

《町村合併といえば、まさしく最大の行政整理である。町村長の首が吹っ飛ぶ、議員の首が吹っ飛ぶ。議員の地位は暫定的に継続を認めたので、とりあえず百何人の市会があるじゃないかと世間の人は笑うが、それも一年かそこらに過ぎない。その後は三〇人になっちゃう。教育委員会だってなくなる。町村を単位とする団体だって、おのずから統合されるに違いない。国は行政機構の改革をやるのに、一局をつぶし、一課をつぶし、一人の人間を整理するのに大悶着がある。なかなか進まない。しかるにもかかわらず、これだけの大事業がどうして行なわれつつあるのか。……》

 この時、小林は行政部長、つまり、役所ことばで「主管」部長という立場「そして、時の自治庁事務次官が鈴木俊一であった。この名コンビの企画は、やはり逆コース歴然であった。

《町村合併は歴史的な大事業であるから、大臣も自ら先頭に立って督励すべきであると、当時の塚田大臣を説いて全国的にブロック会議を開催し、各府県知事その他地方六団体その他関係団体の代表者、町村合併促進審議会の会長、報道機関の代表者等の参加を求め、自治庁長官に会議を主催して貰った。政務次官、次長以下自治庁の幹部総出である。また、とくに両陛下のお出でを願って、町村合併記念・新市紹介・地方自治総合大展覧会も開催した。(昭和二九年九月二八日より一〇月三日まで)会場を日本橋の三越に選んだのだが、皇后陸下にはデパートヘのお越しは初めてだということで、私どもは展覧会の盛況を喜ぶとともに、このことを心中大いに喜びとしたものである。

 ともかくも、町村合併推進のためなら、なんでもやろう、あらゆる知恵を絞ろう、ということにした。中央での宣伝・啓発・奨励に、いわば手段・方法を選ばないこととした……》

 ああ、ついに小林は、明治以来の“玉”かつぎ方式にも、一枚かめるようになったのだ。得意然とした語り口である。そしてこの勢いを駆って、戦後最大の反動攻勢が展開された。最早、自治庁の範囲だけではない。

《この地方制度調査会の答申に基づく地方制度の改正は、えらい騒ぎをおこした。国会で乱闘騒ぎを繰り返した警察制度の改正や教育委員会制度の改正も、それに関連していた。これらについては、無論主管官庁が別にあるので、内部的な折衝はいろいろあったが、国会での騒ぎは、そのとばっちりが、こちらの地方制度の改正に及んだけれども、いわば傍観者の立場であった。そして、それらの騒ぎは、いずれも、与野党の激突という形で起こったのだが、地方制度の改正については、むしろ、地方団体の関係者の内部で、まことに賑やかな白熱的な論争が展開されたのである。いわば内輪同士、仲間同士の喧嘩であり、それに、自治庁行政部は、あえて火をつけて廻ったという格好であった。私自身も、いくどか直接、その攻撃や論争に身をさらした。それどころか、それぞれの立場の者からみれば、もっとも挑戦的・攻撃的であったといわれるかも知れない》

 この動きを、反動だ逆コースだといわれたのが、戦前派の小林としては、よほどくやしかったらしい。「自治雑記」の連載二回にわたり、何ページもついやして、いかにも“抽象的”な弁解と捨て台詞をクダクダ並べ立てている。しかし、実に面白い論理に陥つていくので、後学のために、そのアタマとシッポだけをつまみ上げておこう。

《第一に、反対は、反動だとか、逆コースだとかいった式の、脅し文句、殺し文句で、抽象的・観念的になされ、具体の規定に対する具体的批判の形でなされることが少なかった》

《かつて戦時中「非国民」とか、「時局認識を欠く」とか、「非協力」とかという言葉がよく使われた。それは、戦後の「反動」とか「逆コース」とかと、文言は違っても言い方は一つである。いずれも、要するに、問答を無用とするのである。事柄を具体的に論ぜずに、観念的なレッテルや、抽象的な文句で事を片づけようとするのが、わが国の物の扱い方のもっとも大きな弊の一つである》

 はてさて、こちらの頭がおかしくなりそうな、奇妙な論理展開なのである。ひとつだけはっきりしているのは、小林の武器が「具体の規定」とやらにあること。つまり、いわゆる“小役人風”の法規いじりの手口にあることだ。しかし、小林らの反動性を追求した左翼勢力が、いかに法律に暗かったとはいえ、本筋を見失っていたかどうかは、現状を見ればわかることだ。ねらいは疑う余地がなかったのである。ところが、小林は、戦時中の防空濠の中での、だれも反対しない法令づくりしか知らない悲しさ。反対されると、理性まで失なってしまうのであろうか。ついこの前まで「翼賛」論をぶちまくっていたのを、自分のことではなくて、「軍部」だけのことと錯覚したものか、ミソもクソも一緒クタに、「もつとも大きな弊」だと断じ、大見得を切ってしまったのである。その上、このあと日本テレビで、自分がどれだけ「抽象的な」「脅し文句」を並べ立てるようになるか、計算はしなかったらしいのだ。


4 天下り副総裁から副社長として読売入り