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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第四章-4

第四章《“民間”の官界ボス》

刑事被告人から“キング与三”とおだてられた“ブレイン”の無法人脈

4 天下り副総裁から副社長として読売入り

 小林与三次の自治省事務次官在任は、一九五八年(昭和三三)六月からの五年間で、事務次官の在任期間では最長不倒といわれている。これがまた丁度、警職法や安保条約改定で、日本全土が大揺れに揺れていた時代でもあり、小林は、“安保騒動”という表現を、意識的に使用している。

 ついで、一九六三年(昭和三八)七月からの二年余、住宅金融公庫副総裁に天下り。さして仕事がなかったものか、本書で紹介した「自治雑記」の連載のほかに、二冊の自治大学用教科書を著述している。『自治運営一二章』は、「○○課長に与える書」という章立ての、古風な形式のものであるが、「人事課長に与える書」の一部を紹介しておこう。

《J君――……

 公務員の綱紀については、かつては『官吏服務規律』とか、『吏員服務規律』とかいうものがあって、当時都道府県の職員の大半は官吏だったが、官吏は天皇陛下またはその政府の官吏という考え方で、服務規律の厳重な励行が要求された。われわれも、役人になりたての時は、官吏服務規律を暗誦したものだ。

 戦後は、そうした天皇の官吏といった考え方は一変したが、服務上の規律の問題は、戦前であれ戦後であれ、異なるべきものではない。……ところが戦後は、その服務観念が、率直にいって、ゆるんでいるのではないかという気がする。……

 今ひとつは、とくに行きすぎた組合運動を中心にして、単に公務員の福祉を主張し、守ろうとするだけでなく、利潤追求の私的企業と行政活動を同一に考えたり、あるいは組合の利益だけを独善的に考えて、闘争本位に走ったりする傾向があることだ》

 ここにもやはり、「戦前」への反省は見受けられない。そして、労働組合への対決姿勢も、ほの見えている。

 一九六五年(昭和四〇)一〇月には、読売新聞社の代表取締役副社長となるが、これには、自らの健康の衰えを覚えた正力松太郎の強い要請があったようだ。小林自身は、正力の地盤を受け継いで、衆議院議員たらんと心していたらしい。だが、選挙をめぐる情勢も、そう容易ではなかった。元読売新聞社会部記者の三田和夫は、正力の生前に、こう書いていた。

《正力の女婿小林与三次が、自治省次官を辞して読売に入ってきたころ、代議士の後継者は小林といわれていた。正力の地盤は高岡である。すでに当選五回、トップの松村謙三は破れないものの、前回で、定員三名の二位、六四、九〇二票を得て、三位の社会党と一万弱の差である。だが、高岡が新産業都市に指定されて、漁民がひっそくし、工員とその家族がふえてくると、他府県からの流入人口が多くなり、正力支持票が減少しているようである。ことに、地元の富山県知事が前から出馬したがっているのを抑えてきてもいるし、公明党が立候補すると、晩節を汚すおそれも出てくる。

 正力の名前ならば、地元民にも利くけれども、小林姓になれば、たとえ女婿でも馴染みがうすくなる。小林は人物、識見とも立派だが、女婿にゆずるというほど強固な地盤というものではない》(『正力松太郎の死の後にくるもの』)

 読売新聞で小林は、論説委員長を兼任した。しかし、いわゆる「大正力」の超ワンマン支配下のことだ、さしたる自説を述べることもせず、ひたすら将来にそなえ、勢力の扶植をはかった。三田は、「小林副社長“モウベン”中」という小見出しで、「正力コンツェルンの地すべり」のユ早に、こう書いていた。

《正力松太郎の政界引退声明にこめられた“声なき声”を承けて、その女婿の小林与三次は、今や真剣に「読売新聞」に取組んで、猛ベン中である。 っ

 というのは他でもない。ここ数カ月来、小林は編集各部の中堅デスク・クラスと、“勉強会”を継続的にしっているからである。

 ……小林の“勉強会”の講師は、決して部長や古参次長ではなくて、もう一クラス下の、いうなれば四、五年先の部長候補クラスなのである。これは、何を物語るのであろうか。

 小林は、読売の副社長である。彼に編集各部の仕事の内容や実情について、御進講申しあげるべき人物は、部長でなければ、筆頭次長(注。新聞は朝夕刊あるので、勤務が交代制になるため次長が三~七名ほどいる)クラスであるのが、自然というべきである。

 現況把握のための“勉強会”であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

 このことは、本稿冒頭でもふれたように、小林には、務台と対立拮抗しようという意志がなく、五、六年先の政権担当を描いているということである。務台も、もうそのころには、八〇歳に手がとどくころで、新社屋の建設も終って、正力に托された“正力の夢”を実現して、功なり名をとげての引退、という時期である》

 当時は、務台も代表取締役副社長だったから、「小林と務台の“対立”」という噂も流れたりした。しかし、小林にはすでに、あの大日本帝国の官僚組織を、一歩一歩登り詰めた経験があるのだ。下世話の権力争いよりは、着実な将来への布石こそが、小林好みの定石であろう。そしていま、三田和夫の読み通りに、小林は「ポスト務台」の読売グループ総師の座についたのだ。

 ついで、日本テレビ社長就任以後を、概観しておこう。


5 正力の後継者は“荒法師”修業か