仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記(その8)

借金火達磨・巨大政治犯罪都市

「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の神々お披露目

1999.2.19

 さて、前回に「左ギッチョンチョン」箱庭紛争を予定しながら、市長5選を狙う土屋正忠の彦が、現職の強みを生かすにもほどがある「違法」市報特集号で、塩漬け用地問題を、これまたごまかすにもほどがあるスリカエ報道したために、一回分を差し替えた。

 そこで今回から、いよいよチョンチョンと拍子木が鳴り、「紛争」開始となる。

 ただし、箱庭と形容したのは社会的な縮図の意味で、武蔵野は、やはり広い。狭い日本列島のド真ん中ではあるのだが、それでも北海道を別とすれば、一番広いのが関東平野である。チャリンコ族の私が、武蔵野市に来てイの一番に気付き、一番気に入ったのは、およそ坂道とおぼしき場所が見当たらないことだった。

 ただ、ここでも、ただし、になるのだが、そのために意外も意外の危険が増す点もある。武蔵野市には、若者言葉で「雷オバサン」と呼ばれる種族が跋扈(ばっこ)しているのである。雷は雷でも、雲の上から臍ばっかり狙うあれではないし、昔風の雷親父とも違っていて、大声で怒るのでもない。語源的にはオートバイの雷族からきた言葉で、ママチャリ暴走族のことである。「ここは自転車で飛ばす人が多いですね」と、某大手紙の新任記者が、こぼしていた。私も、3度ほど、住宅街の交差点で正面衝突しそうになった。幸いにも、運動神経は人並み以上、えへん、だから、キキキッとブレーキをきかせて、自分が横に倒れて、膝にかすり傷。ああ、この騎士道精神を見よ!

 で、閑話休題。すでに紹介済みの現市議、山本ひとみの媛も、ママチャリに桃太郎旗を立てて走っている。もう一度繰り返すと、その媛のオットットの夫が山本あつしの彦で、この夫婦が、元京都大学の同期生で、学生運動のMPDとやらで、同志の指示により、ああ、健気にも、この関東空っ風のピュ-ッ、ピュ-ッと吹きすさぶ元荒れ野、現住宅地帯にパラシュート候補として降り立ち、最初はオットットが「大衆党」新人市議となったのでありました。

 ああ、今は亡き黒沢明監督作品『用心棒』よ!

 関東空っ風のピュ-ッ、ピュ-ッと吹きすさぶ武蔵野市に、山本夫婦が、パラリと落下して以後、最初に側杖の悲劇を味わったのは、現市議会副議長、畠山よし子の媛、いや、媛その人ではなくて、わが武蔵野市は西久保ご町内の後援会員の皆様なのでした。なぜかというと、日本共産党の当時流行「マドンナ」候補として見事、市議の座を射止めましたる畠山よし子の媛が、これはあくまでも本人の言によればとして置くものの、山本あつしの彦「問題」に端を発しまして、こともあろうに、無所属は無所属でも現市長、土屋正忠の彦の出身の会派、「市民クラブ」に鞍替え(クラブ変えの方が分かりやすいのかな)してしまったからなのであります。

 それというのも、大手紙ではヤクザの仕事なのに、『赤旗』の拡大を議員様に義務として課す日本共産党の方針に、泣く泣く従った畠山よし子の媛が、やっとのことで、議会の新人同僚の山本あつしの彦の勧誘に成功したというのに、日本共産党の武蔵野・三鷹地区委員会の機関紙部が、断固として、配達を拒否したからなのでした。

 この意味、お分かりかな。それとも、とても、お分かりでないかな。畠山よし子の媛に言わせれば、その頃、大手紙では拡張販売、略してカクハン、配る品をカクザイ、角材ではない、拡材というが、ともかくカクカクシカジカだが、『赤旗』読者拡大運動では、東京電力の武蔵野支店の労務部にまで行かされたというのである。東京電力は、その頃、当事者が「共産党員及びその支持者」と呼ぶ社員を差別しているとして、差別反対の裁判闘争までしていた。その「階級敵」の「明白な資本主義の牙城」に『赤旗』を勧めて、取らせて、配達するというのに、なぜ、同じ「左翼」の大衆党だけが駄目なのか

 日本共産党は、この種の新左翼を「トロッキスト」とか「暴力分子」とか呼ぶのである。しかも、これは本当のことなのだから、いよいよ硬直してしまうのだが、山本あつしの彦が、京都大学で、日本共産党の子会社のような位置にある民主青年同盟、略称「民青」系の学生組織と対立関係の組織に所属していて、いわゆるゲバ時代、一度は傷害の罪で3万円ほどの罰金を課せられたというのが、本人が私に対しても認める事実なのである。こうなればもう、罰金を払っても、もう、公民権は制限なしでも、もう、本人も暴力に訴えるのは反対と言っても、もう、金輪際許さないのが、もう、日本共産党の掟なのである。

 この、つむじ風のごとき「トロッキスト」こと、山本あつしの彦と、ひとみの媛が起こした波乱万丈の紛争には、まだまだ続きがあるが、ここでひとまず、市長選の概略の経過を紹介して置く。その背景の中で、再び、つむじ風の経過と及ぼした影響を振り返った方が、分かりやすくなると思うのである。

 さて、きたる市長選に立候補を表明した3彦については、すでに一応の紹介をした。

 その配置を簡単に説明するために、市議会内の会派で分類すれば、自由民主クラブ他の推薦を受け、無所属に分類される市民クラブ出身で5期目の立候補の現職市長、土屋正忠の彦に対して、会派では日本共産党だけの推薦、市長選は初めてだが市議会では最長不当距離(かな?)の同党現市議団長で、最高齢ながらの「新人候補」、栗原信之の彦と、「よくする会」代表、前回は3位で落選、2度目の「新人候補」、桜井国俊の彦という構図である。

 つまり、もっと簡単に言うと、「現職の保守」1人に対して、「革新」(言葉が古臭くなったかな?)2人であり、すでに「革新」の分裂が誰の目にも明らかある。「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の典型以外のなにものでもない。

 この構図を前回と比較すると、前回は、同じく現職市長、土屋正忠の彦、土屋支持の保守派から今は消滅した「新進党」がらみで決裂した市議、深沢達哉の彦、よくする会の桜井国俊の彦、日本共産党地区委員長の佐久間某(その後、解任で「去る者はうとし」とか、名前が思い出せない)の彦の4人だった。つまり、「保守」2、「革新」2だった。

 票数の概略は、1位当選の土屋正忠の彦が、その前の3万票から2万票に減少、深沢達哉の彦が1万5千票、桜井国俊の彦が1万票ぐらいだった。途中で桜井国俊の彦の推薦を中止(事情は後述)して急遽出た佐久間某の彦は、無残にも日本共産党市議のすべての票を合わせた数字の半分、3千票ぐらいで、有効投票数の10分の1以下となり、100万円の供託金没収となった。

 今回も一応は、現職市長への反対派の「統一テーブル」が提案された。その経過と問題点は後に詳しく紹介するが、これもとりあえず簡単に言うと、このテーブルが昨年秋にひっくり返って、日本共産党が、またもや独自候補を立てると発表したのである。とりあえず簡単に言うと、前回の大失敗にもかかわらず、今回も独自候補を立てざるを得ない経過と相成ったのである。

 結果として、現在の布陣を鳥瞰すると、「保守」は前回の2が1となり、「革新」は前回と同じ2のままなのだから、よほどの事情がない限り、「保守」有利である。おまけに現在、中央政界で「字」、じゃない、ええと、「俺は今、何党だっけと秘書に問い」なんて川柳まであるぐらいから、政党の名前なんか、どうでもいいのだが、「自」「自」提携とやらが進んでいる。

 さて、さて、ただでさえ勝ち目のない革新が、なぜ統一候補を擁立できないのか。「それが問題だ」などとハムレットなら悩むが、ドンキホーテの私は「しゃあねえな。どうせ、あいつらのすることだから」と達観している。

 こういう宿年の状況を俗に「しがらみ」とか「しがらみが解けない」とか言うが、それこそ万葉の昔からあるはずの言葉なので、私の脳ミソの中では若い頃から、よく渓谷で見掛ける流木が、もつれ合って自然の堰を作る状態の映像が、これに対応していた。ところが今度、念のために手元の安物辞書で確かめると、当用漢字にはない「柵」(さく)が当てられている。「水流をせきとめるため、くいを打ち並べ、それに木の枝や竹を横たえたもの」とある。人造の意味であるが、これには納得できない。自然にできた状態を見て、真似したのが「柵」なのではないだろうか。

 少なくとも、武蔵野市を一つの典型として、「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の「しがらみ」は、なかなか解けないのが最大の特徴なのだが、それは、誰かが意図的な人造物として計画的に複雑に作ったからではなくて、不用意に、または自然に、こじれ、ねじれ、ひん曲り、複雑に入り組んでしまったので、構造そのものが分からなくなっているからに他ならない。見ればすぐ分かるよううな「くいを打ち並べ」たものではないから、ほぐし方が分からなくなるのである。

 さて閑話休題。以下、底の底までは分からないとしても、少なくとも表面に出ていた限りでの「しがらみ」の経過を辿ってみる。

 前回までに述べたように、16年前に「社・共」共闘型の社会党系市長が、現職の土屋正忠の彦に敗れ、以後、4期16年、「革新」は屈辱に塗れてきた。12年前には、それ以前の「社・共」共闘型の継続による「市民の会」で「奪還」を図ったが、あえなく敗北。8年前には、その敗北後の「社・共」共闘型から日本社会党が抜けて、なかなか候補者をしぼり切れない内に日本共産党が独自候補を発表し、「市民の会」は置いてきぼりの「見逃し三振」、現職の土屋正忠の彦の圧倒的勝利に終わった。

 その頃、パラシュートもなしに、ふらりと武蔵野市に転居してきたのが、かくいう私である。友人知人に転居通知を出した途端、打って返すようにすぐ届いた知らせには、黒い縁取りこそなかったが、ともかく昔話に連なることで、「武蔵野市には元争議団の市議会議員がいる」とあった。しかも、私のことを知っている人だというのである。いや、これは旧悪暴露か、といささかギョッとしたが、それが、なんと、すでに紹介済みの畠山よし子の媛だった。だが、この奇縁にかかわる秘話は、別途、後に紹介する。

 時は1990年秋。湾岸危機。翌年の1991年1月17日が54歳の誕生日。まだまだ若い。

 まさにその日に勃発したのが、湾岸戦争であったが、武蔵野市は「ぬるま湯」気分。その当時、「市民の会」にとっての最大かつ天地開闢以来の大問題は、新人市議会議員、山本あつしの彦の入会申込みであった。というよりも、むしろ、その入会申込に対する日本共産党の猛然たる反対であった

 ただし、会の申し合わせには、入会拒否の定めは記されていなかったのである。

 ああ、かくして、「左ギッチョンチョン」箱庭紛争、天気蒸籠、じゃない、これも一発では変換できないのだ。武蔵野の野原、天気晴朗なれど風強し。ピュ-ッ、ピュ-ッ。

 ジャン、ジャン、ジャンジャカ、ジャンジャン、

 ジャンジャカ、ジャンジャン、ジャン!

以上で(その8)終り。(その9)に続く。


(その9)やはり分裂、青菜に塩の「左ギッチョンチョン」神々
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