仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記(その15)

借金火達磨・巨大政治犯罪都市

自民党都議で学識経験者(?!)井口秀男の彦とは?

1999.4.9

 1999年3月中・下旬以降から、桜前線北上に先駆けて、武蔵野市の要所、要所は、事前運動のポスターが花盛りとなった。現在、桜は、ほとんど散ってしまったのだが、少し汚れたポスターは壁の花、いや、滲みとして貼り付いている。

 現職の市長で5選を狙う土屋正忠の彦は、後援会長同士の仲の自民党都議、井口秀男の彦と、現市議および新人候補との、3人の顔写真を並べ、いずれも子細に見れば同じ「4月12日」の演説会のポスターを貼り巡らせた。いわば親亀(井口秀男の彦)の上に子亀(土屋正忠の彦)、子亀の上に孫亀(わが近所では紹介済みの水道屋のドラ息子こと山下倫一の彦)が載り、子亀たちがポスター貼って回る構造である。しかも、なんと、ああ、……

「清新で活力のある武蔵野市を作る『市民連合』」と来たもんだ!

 いくら何でも、「清新」とは、図々し過ぎるのではなかろうか!

 私は、すでに1997.11.14.発行の『武蔵野市民オンブマン』準備号で、井口秀男の彦の土地購入の件を報じた。以下の縦2行の見出しであるが、ここでは、ホームページに掲載中の記事を増補する。

落選中の最有力支持者の土地を購入

違法な市道造成で残部を優良宅地化

 1997年7月15日に武蔵野市土地探偵団長こと、現市長候補の桜井国俊の彦が起こした土地開発公社情報公開裁判の訴状には、つぎの部分がある。

「(武蔵野市関前の「関前公園」、隣接市道、隣接宅地は)、訴外井口秀男から同公社が購入し、翌年市に売却して市道が造成されている。しかし、もともとはこの一帯は農地であり、右道路の造成によって、周囲の土地は良好な建築基準法に適合する道路に接した宅地となったわけである。市の宅地開発指導要綱には、事業主は六メートルの舗装道路を作って市に寄付するよう求めているにもかかわらず、このような処理を行ったことにつき、同人(井口秀男氏)が被告(土屋市長)の後援会長であり、前職の都議会議員(公社購入当時、現在現職)であり、土地開発公社の評議員であったことから、問題が生じた」

 土地開発公社の評議員会については後に詳しく説明するが、「規程」によって、議員6名、学識経験者4名、市職員3名の枠が定められている。

 この内、まず、「学識経験者」の歴代一覧表を示すと、以下のごとくである。

1975年度   江見康一  実川博   中川文雄  三宅操
1976年度   江見康一  実川博   中川文雄  三宅操
1977年度   江見康一  実川博   中川文雄  三宅操
1978年度   江見康一  実川博   中川文雄  三宅操
1979年度   江見康一  実川博   中川文雄  川村よし枝
1980年度   江見康一  実川博   中川文雄  川村よし枝
1981年度   鈴木諒一  実川博   中川文雄  中村富男
1982年度   鈴木諒一  実川博   中川文雄  中村富男

……………………………………………………………………………(土屋市長当選)

1983年度   井口秀男  中山善次  中川文雄  榎本正治
1984年度   井口秀男  中山善次  中川文雄  榎本正治
1985年度   井口秀男  中山善次  中川文雄  榎本正治
1986年度   井口秀男  中山善次  中川文雄  榎本正治
1987年度   井口秀男  中山善次  中川文雄  榎本正治
1988年度   井口秀男  中山善次  中川文雄  榎本正治
1989年度   井口秀男  中山善次  河合昇   榎本正治
1990年度   井口秀男  中山善次  河合昇   榎本正治
1991年度   井口秀男  中山善次  河合昇   榎本正治
1992年度   井口秀男  中山善次  河合昇   榎本正治
1993年度   井口秀男  中山善次  河合昇   榎本正治
1994年度   井口秀男  中山善次  河合昇   榎本正治
1995年度   井口秀男  中山善次  河合昇   竹内邦雄
1996年度   井口秀男  中山善次  河合昇   竹内邦雄
1997年度   井口秀男  中山善次  河合昇   秋本弘明
1998年度   井口秀男  中山善次  河合昇   秋本弘明

 井口秀男の彦の名は、土屋正忠の彦が市長に当選した1983年(昭58)に初めて出現し、以来、現在に至るまでの15年間、何を根拠としたものか土地開発公社に聞いても分からないのだが、「学識経験者」の筆頭に記載され続けている。記載された書類は横書きだから、一番上になっている。

 しかも、その任期の長さは、最長不倒距離であり、「都」議の井口秀男の彦の真下に、あたかも2人3脚のようにピタリと並んで名が記されている元「都」職員の中山善次の彦とまったく同時に、武蔵野記録を毎年更新中でなのである。ああ、ト、ト、様、様!

 井口家は、江戸時代に現在の練馬区から移住して武蔵野の原野を開拓し、歴代、関前村の庄屋を勤めてきた地元随一の「名家」こと、大地主である。わが日本の首都東京の周辺には、旧多摩地区を初めとして、この種の「名家」の自治体トップが意外にも多い。先頃、ギャンブル癖がばれて、頭まで丸めて辞任した狛江市長も、「名家」の出だった。

 以下、『武蔵野史』(藤原音松、武蔵野市役所)から一部引用するが、戦後3年目の1948年初版で、旧漢字、旧仮名遣い。しかも、現市長時代の1990年に出た2版も、写真製版らしく、かすれた文字なので、折角習得したばかりのスキャナ-技術が、まるで通用しない。仕方なしに、ポチポチとワープロを叩いて、旧漢字、旧仮名遣いを、当用漢字、当用仮名遣いに直した。ああ、われながら、ご苦労さん。褒めて上げたい。

「武蔵野町吉祥寺は以前東京都内水道橋にあった吉祥寺門前住民の移り開いた所、西窪は芝区西久保城山町民の移住した所」(p.284)

「関前村は旧北豊島郡石神井村関の前方の原野であったので、この名を生じた。寛文初年関の百姓井口某の請負開墾した所である。その開発は吉祥寺、西窪より少し遅い」(p.530-531)

「元禄8年関前新田萱芝改帳、翌9年関前新田内割帳、享保6年御年貢内割帳、明和8年御年貢勘定帳から当村名主は八郎右衞門、または忠兵衞であったことが知られる。

[中略]

八郎右衞門の家は井口一門である。戦国時代北条早雲に滅ぼされた相模の名族三浦義同の一族義村は伊豆に逃れたが、後三浦一又坊入道のとき、走水庄井口郷に移って帰農し、井口氏を名乗ったが、義清(10代目にあたる)は天文年間武蔵新座文井之頭郷に住み、更に豊島郡関村に移住した。義清の子源次重信は家康に仕え大阪夏之陣に加わって大阪城中に於いて討死した。この軍功によって井口氏は徳川氏に取立てられ、八郎右衞門春森の代に(寛文年間)関村以下2ヵ村総名主となった。其の一族は順次隣村に出て開墾した。大宮前新田、関前村井口新田等は井口氏の開墾に係る。宝暦年間には、その所領新開墾地が一千町歩に及んだといはれる。関前村の開発責任者は八郎右衞門で、その一族が八郎右衞門を名乗って、開発後関前に一家を興し、名主支配役となった。その子孫は今日に至る。

[中略]

 関前村同関前新田の開墾当初の住民で現存して居る家は秋元家、伊藤家、岩崎家、井口家、後藤家、桜井家、中村家、保谷家、名古屋家、土方家、田中家、坂本家、榎本家である」(p.532)

 さて、「プライヴァシー」を重んずる市長、子亀こと土屋正忠の彦は、当然、いざ鎌倉こと、土地問題ともなれば、親亀こと井口秀男の彦の「イ」の字も口にしない

 前述の桜井国俊の彦の訴状には、「同人(井口秀男氏)が被告(土屋市長)の後援会長であり、前職の都議会議員(公社購入当時、現在現職)であり、土地開発公社の評議員であったことから、問題が生じた」などと記されている。

 武蔵野市の場合、市議会と土地開発公社をつなぐ唯一の場が、評議員会である。本来ならば、市を相手取って裁判をするのだから、武蔵野市土地探偵団長こと、現市長候補の桜井国俊の彦、または、その代理人を買って出た「よくする会」事務局長こと高木一彦の彦は、訴状に記した以上、すべての評議員会に関する資料を収集すべきである。ところが、これも、某国際問題で超多忙中の私が、公社の定款のコピ-までを提供している始末である。

 評議員会の構成についても調べていない。これまたいい加減な仕事振りなのである。仕方なしに、これも、私が、議会事務局から得た資料で一覧表を作成した。上記の「学識経験者」の一覧表は、その一部である。

 以下、若干、冒頭と重複するが、評議員会設置の目的は、公社の定款によると「公社の適正な運営を図る」ためであり、その構成は「13名以内」と定められている。だが、「評議員は、理事会の推薦を得て理事長が委嘱する」のであり、その理事長は「理事の互選」によって選ばれるが、その理事たちは、市長が「任命する」のである。

 さらに評議員会に関する「規程」によって、議員6名、学識経験者4名、市職員3名の枠が決まっている。公社の定款によると「規程の制定又は改正若しくは廃止」は「理事会の議決」事項である。結局は、市長の「任命」権によって、すべてが独裁的に処理される仕掛けになっている。

 評議員会は、通常は1年に2回のみ、1時間程度開かれ、少数派の意見は常に暖簾に腕押し。予算と決算を事後承認するだけであり、議事録は非公開である。

 議員の場合、各種委員会に関する希望を求め、最終的には籤引きでメンバーを決定している。議員6名については次回に一覧表を掲載し、驚愕の問題点を指摘するが、簡単に言うと、バブル崩壊とベラボウな土地購入の時期に、なぜか、いわゆる左派(?)の市議の評議員が1人もいなかったのである。これでは、「牢」名主、井口秀男の彦と、規則上も独裁権を握る土屋正忠の彦の切り取り勝手放題になるのも無理はない

以上で(その15)終り。(その16)に続く。


(その16)塩漬け用地“隠れた公的資金投入”説の報道例
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