『煉獄のパスワード』(6-4)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第六章 カイライ帝国の亡霊 4

「今度のハルビン行きでは時間が取れなくて惜しかったよ」と達哉はつぶやいた。

「ついでに少しは現地取材をしたいところだったんだけど、そうもいかないしね」

「すまん、すまん。事件の展開が急なもんだから、無理をいっちゃって。しかし、今度の事件はアヘン問題の裏面を知る上では大変なもんだっただろ」と智樹。

「うん。大変だ。大変な悪臭を放ってるね。ハハハハッ……。このところ、俺はこの極秘スパイスの悪臭の物凄さに圧倒されっ放しで、気持ちを整理し切れないよ」

 

 このテーマに関する達哉の思い出は、敗戦直前の北京に遡る。達哉の家族が北京市内に移り住んでいたのは、達哉が六歳から九歳までの四年間である。敗戦当時は国民学校、いまの小学校の三年生だから、かなりはっきりした記憶がある。

 北京の冬は寒い。公園の池がそのままスケート場になる。だから冬の思い出が多いのだが、そのなかでも特に不気味で強烈な映像を留めているのが、路上に放置されたままの凍死体》である。学校へ通う道に、ゴロゴロという印象なのである。毎朝ではないが、それ以外には登校の道筋についてのはっきりした記憶がないから、思い出す度に印象が強まり、本当に毎朝で、そこらじゅう死体だらけだったような気がしてくる。

 《凍死体》はアンペラにくるまっていた。そして厳密にいうと、《凍死》した死体ではなかった。後年になって、達哉はその事実に思い当たったのである。

 辞典ではアンペラを〈かやつりぐさ科の多年生植物。原語未詳。アンペラの茎で編んだむしろ。敷物・砂糖袋等にする〉などと説明している。しかし、達哉は父親の口からアンペラはトウモロコシに似た高粱(コウリャン)の皮でつくるものだと聞いていた。見た目にも隙間だらけで、砂糖袋にはなりそうになかった。辞書にも〈原語未詳〉とあるから、どこかで言葉がすり変ったのかもしれない。ともかく達哉がアンペラとして記憶する粗末な敷物は、日本の米ワラのゴザよりも夏の麦ワラ帽子などに近い折り方のゴザで、いささかも暖かいものではなかった。だから、野宿用の夜具には適さない。

 しかも厳寒の北京の路上では、余程の準備がなければ野宿は考えられない。日本列島とは違う大陸性気候だから、北京の冬は日本の高山並みの寒さなのである。

 つまり《凍死体》は、アンペラにくるまって野宿していた浮浪者が、急な寒さで行き倒れ凍死したものではなかったのである。しかも、達哉の頭のなかには《凍死体》の映像と一緒に、いつの間にか、その当時の日本人の大人の説明が植え付けられていた。

〈支那人は昼間からアヘン吸って怠けとる〉と、……。

 アヘン中毒患者は遙者(いんじゃ)と呼ばれていた。《凍死体》は、アヘン窟で息を引取った身元不明の遙者が、安物のアンペラにくるまれて路上に放り出された最後の姿だったのである。

 達哉の脳裏には、《凍死体》になり果てた遙者(いんじゃ)たちの姿がずっと住み着いている。

 帰国してからすぐに読んだ戦後のベストセラー、パールバックの『大地』にも、アヘンを吸う中国の金持ちの老人が登場した。世界史にはイギリスと中国の〈アヘン戦争〉があった。ディ・クインシーの『アヘン常用者の告白』は息を潜めて読んだ。五味川純平の戦争と人間』にも怪しげな日本人「浪人」や「アヘン売人」たちがうごめいていた。

 しかし、まさか自分の国の日本が、国家政策として中国でアヘンの増産を督励し、軍事機密に重用し、輸出さえしていたとは……。

 東京裁判では当時のアヘン窟支配人が、こう証言していた。

「日本の占領中、北京には約二七四のアヘン窟、二万三〇〇〇人の登録乃至許可済アヘン吸飲者、八万の非登録吸飲者、時折アヘンを吸飲に来る一〇万人がいた。盧溝橋事件以前はアヘンは公然と売らしていなかった。然るに日本軍占領数ヶ月ならずして……日本軍によりアヘンの販売が公認された。……占領後吸飲者の数は占領前の一〇倍以上になったに違いない」

 判決文は「禁煙政策」のためと称していた日本の「専売機関」について、「麻薬からの収入を増加するために、その使用を奨励する徴税機関にすぎなかった」と断じていた。

 北京で路上の死体を見てから三十数年後、これらの禁断の事実に突当たった時、達哉は頭から血がスッと引き、全身が凍る思いを味わった。達哉はそこに、自分の宿命を見たような気がした。この事実をとことん突詰めることが、北京で《侵略者の子供》として少年前期を過ごした自分の生きる証となるのではないだろうか、とそう思えたのである。

 かつての《大日本帝国の小国民》は、すなわち中国大陸への《侵略者の子供》であった。

 

《日本小鬼子!》(リーベン シャオ クェイズ!)………突如、甲高い女の叫び声が達哉の鼓膜を震わせた。

 中国語で罵られたある朝の記憶には、いまだに生々しいものがある。年を経るとともにかえって深まる心の傷跡である。当時九歳だった達哉は、まさに《日本小鬼子》以外の何者でもなかった頃の、自分達の奇妙な姿と周囲の光景を明瞭に記憶に止めている。

 北京の国民学校に通う日本人の子供は、一年生から六年生までが一緒の通学班に編成されていた。男の子は戦闘帽をかぶり、カーキ色の学生服のズボンにはゲートルを巻く。背中のランドセルのほかに、両脇に水筒と防空頭巾、バッグを掛ける。バッグの中には非常用食糧のカンパン、ロウソク、マッチ、マーキュロ、包帯などが入っていた。通学班には隊長がいる。集合すると〈お早うございます!〉の敬礼、〈整列!〉、〈番号!〉、〈一、二、三……〉、〈前へッ進めッ!〉の号令、何から何まで軍隊の真似ごとである。

 それだけではない。隊長が先頭に立って音頭を取り、本物の軍歌を歌って行進したのだ。達哉は自分が二年半もの歳月、ほとんど意味の分らない軍歌を毎朝歌いながら学校に通っていたのだと考えると、いても立ってもいられない気分になる。当時は意味が分らずに勝手に解釈しながら、かなり間違えて歌っていたのだが、その難しい軍歌の歌詞の始まりはこうだった。

〈御稜威の下に益荒男が、一死を誓う御戦の、堂々進む旗風に、威は平原を圧しつつ、粲たり北支派遣軍〉

 達哉らの隊列は毎朝この軍歌を歌いながら、立並ぶ中国人の住居の前を通り過ぎるのだった。今思えば、いかにも中国人の神経を逆撫でする風景である。誇り高い中国人にしてみれば、なんともいまいましい毎朝だったに違いない。

 ある朝、中国人の老婆が門口に立って何やらブツブツつぶやいていた。

 家族が二、三人、何やら叫びながら飛び出してくる。老婆の両腕をつかんで中へ引きこもうとする。老婆は身を振りほどこうともがき、一際高い声で叫ぶ。家族はますます慌てて老婆を取り押える。言葉は分らなくても、大いに危機感を覚える情景であった。

 その時の言葉が〈リーベン シャオ クェイズ〉だったのである。達哉は意味が分らないままに、これを自分達に投げ付けられた罵りの言葉として記憶し、後年それが《日本小鬼子》であることを知った。

〈リーベンシャオクェイズ〉……〈リーベン シャオ クェイズ〉……その声はますます高まる。北京の町並を行進する少年達とともに、口惜しげにもがく老婆の姿、そして《凍死体》が繰返し達哉の脳裏に現れる。達哉は自虐的な贖罪の意識にさいなまれ続けている。

 そのままにしては置けないという気持ちは、年を取るに連れて強まってきた。〈自分は子供だったし、何も悪いことはしていない〉といった風な理屈は、達哉の気持ちにはなじまなかった。〈自分は人間である〉という自覚は、歴史を背負うことに始まるのではないだろうか、というのが達哉の意識だった。クリスチャンなら、それを〈原罪〉と呼ぶのであろう。


(6-5) 第六章 カイライ帝国の亡霊 5