『煉獄のパスワード』(3-2)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第三章 最新指定キーワード 2

 警視庁犯罪捜査部には、捜査一課、捜査二課、捜査三課、特別捜査課、略して特捜課がある。

 一課は殺人罪、二課は知能犯罪、三課が窃盗罪、特捜課はそれらの犯罪が複合したり政治が絡む特殊事件を扱う。

 捜査一課の別名は〈殺人課〉または〈殺し屋〉である。

〈こちらマンハッタン南署、殺人課のコジャク刑事〉などとドスの効いたテレヴィ・ドラマの台詞もあるように、洋の東西を問わず殺人課は犯罪捜査の花形である。だがいつもドラマ張りの事件ばかり抱えているわけではない。地味な事件の捜査で無駄骨を折ることの方が多い。捜査報告書やら出張旅費の精算やら、世間並の事務手続きの苦労も欠かせない。おまけに犯罪は曜日も時間も選ばない。いつでも出動できる態勢が要求される。

 一課の〈殺し屋〉、田浦城次係長刑事は、このところ一ヶ月休みなしだった。前日からの泊りだけでも、うんざりしていた。その上、若手の同僚のデートをカバーして、今日のデスク当番まで続けてやることになっている。自分が二ヶ月前の家族旅行で代わって貰ったお返しだから、これは仕方がない。しかし四十台ともなれば、休みなしの疲れは身体中にしみこんで溜る一方である。七時に目覚まし時計が鳴ったのだが、なかなか宿直室のベッドを離れる気分にならない。うつらうつらしている所へ、

「田浦さん、死体発見!緊急出動ですよ!」

 耳元で、いかにもわざとらしい大声を張上げられた。

 浅沼新吾という若い巡査で、柔道の稽古場で知り合ったひょうきんな新人類である。初対面の時から、捜査一課の刑事になりたいので勉強中だと名乗りを上げていた。その後も機会さえあれば〈殺し屋〉をのぞきにくる。どういうわけか田浦になついてきて、一課の中では〈田浦兄貴の舎弟〉と呼ばれ始めていた。昨晩も茶碗酒を飲んでいると、やっと捜査講習に参加できたというので乾杯してやった。日頃の成績が良ければ、捜査講習に参加すると巡査の身分のままでも刑事係りになれる。刑事と呼ばれるのは刑事係りの俗称で、身分は警察官全体と同じく、巡査、巡査部長、警部補、警部、警視などとなっている。ただし、浅沼巡査の希望のように、警視庁の本庁の刑事に直接採用されることは実際にはない。本庁の刑事は、所轄署の刑事を何年か経験した中から選抜されるのである。

 浅沼巡査は昨晩、〈今夜は一一〇番センターの夜勤ですから〉といって、茶碗一杯しか飲まなかった。

「なにを脅かしやがって!本当か?」

「本当ですよ。場所は奥多摩の山中……。良いですね。天気は良いし、目覚ましのハイキングには絶好じゃないですか。ぼくも連れてってもらえませんかね」

 田浦の躰は反射的に起上がっている。何度も経験していることなので、左程興奮はしないが、やはり職業意識が働く。

「おれを叩き起こしておいて、何を調子の良いことばかりほざいてやがるんだ。殺しの線がなかったら承知しねえぞ」「それが、おおあり名古屋のコンコンチキで、……」

「奥多摩の山中だって?……白骨か?腐爛か?……臭いのは御免だね」

「それが、まだ全然腐ってないそうです」

「全然だって、……珍らしいね、山の中にしちゃ。どういう状況で発見されたのかな」

 質問しながら、田浦は手早く身づくろいを済ませた。今のところ、彼が現場の最高責任者である。状況を掴んだら、課長の自宅にも連絡を入れなくてはならない。鑑識を同行して奥多摩まで行くとなれば、チーム編成の必要もある。最初に現場を踏んだチームが捜査を継続するのが、一番望ましいのである。鑑識と写真班はすぐ出られるだろうか。現地の所轄署に応援態勢があるだろうか。やらなければならないことが次々に頭に浮かんでは消えた。田浦は、脂気のないばさばさの頭髪をかきあげた。目を覚ますために頭の後ろと顔面を叩いた。そして、低く吐き捨てた。

「畜生!朝飯はどうしてくれるんだ!」

 浅沼新吾は、宿直室を出る田浦の横に並んで歩きながら、要領よく報告し始めた。

「発見者はガン・マニアです。サバイバル・ゲームを始めたばかりの所で死体を発見したそうで、……おかげさまでかわいそうに、その連中のゲーム気分は台無しですね」

「馬鹿。そんな心配はしなくていいから、早く要点をいえッ」

「はいッ。たまたま一人が無線電話機を持っていて、現場から直接一一〇番に掛けてきました。そのまま電話をつないであります。先方は井口という方ですが、なかなかしっかりした感じで、専門用語まで使っています。話を要約しますと、……現状保存を心掛けながら、一応、脈を取って死亡を確認した。首に数箇所、紫色の斑点がある。男性。年の頃は四十代半ば。絞殺ではないか。固くないから、死後硬直は解けているようだ。しかし、まだ腐臭は感じられない。熊笹が倒れているので、現場まで引摺ってきたと思われる。こんなところですね」

「発見者の商売はなんだ?医者か?」

「いや、建築士だそうです。一応、住所、氏名、職業、年齢を聞きました」

「またァ、……まさか推理小説マニアじゃねえだろうな。かえって面倒臭いんだよな。……よし、直接話そう」

 田浦は、当番デスクで電話をとり、責任者であることを告げ、官職氏名を名乗った。発見者の機嫌を損ねて捜査に手間取った経験があるので、こんな場合には、まず丁寧に応対することにしている。自分でも歯の浮くような台詞である。

「恐れ入りますが、やはり、直接伺いませんと、聞き漏らしがあるといけませんので、もう一度、詳しく状況を話していただけませんか」

 奥多摩側の井口は、ほとんど同じ話を繰返した。田浦は念の為、いくつかの確認をした後、こう頼んだ。

「分りました。御協力有難うございます。直ちに現地の所轄署と連絡を取りまして、そちらに急行させます。私も追掛けて行くことになると思います。御面倒でしょうが、それまで、そちらに待機していただけないでしょうか」

「仕方ありません。私は残ります。皆で三十人ですが、なにしろせっかくの楽しみで来ていますので、……」

「他の方は結構でしょう。連絡だけは取れるようにしておいてください」

 規則通りに堅苦しくいえば、現場の第一発見者として同格なのだから、全員に残ってもらうべきである。警察学校を出たての警官だとか、なりたての新米刑事なら、そういっただろう。しかし田浦は、いま聞いただけでも充分だと感じていた。まったく偶然の発見者だし、現場は屋外である。扉が開いていたかとか、発見者の指紋がついたかどうかとかいう、屋内の殺人事件に付きもののややこしい状況はない。警察官が到着するまでの現状保存さえできていれば、何の心配もない。代表者だけ残ってもらえばいい。

 田浦は課長に電話を入れ、部下に現地の所轄署、監察医、鑑識班、写真班、パトカー等の手配を命じた。浅沼新吾が、自動販売機のハンバーガーを買ってきてくれた。お茶を注ぎながら、またせっつく。

「田浦先輩……、連れてって下さいよ」

「馬鹿いうな。管轄違いで、おれが怒られちゃうよ。ほら、ハンバーガー代だ。買収されたら困るからな。ハハハハハッ……」

「冷たいなァ。……僕は明け番ですからね。非番で積極的に捜査協力するのもいけないんですか」

「だからいってんの。遊びじゃねえんだから。パトカーごっこされても困るんだよ」

「そんな!酷いこといいますね」

 いい争っているところへ、長崎一雄がふらりと現れた。大日本新聞の若手社会部記者である。いかにも徹夜麻雀の朝帰りといった雰囲気を全身に漂わせている。夜討ち朝駆け、特攻型取材の一種といえばいえる。早朝から〈殺し屋〉に張込む記者は、そう沢山はいない。大日本新聞は大手紙にのしあがる前から警察種のセンセーショナリズムを売物にしてきた。その伝統あればこその徹夜麻雀であり、朝駆けなのであった。麻雀屋が新人教育の場に成っているかのような趣きさえあって、確かに不健康な習慣である。しかし、記者クラブでのお仕着せ発表をまたずに現場取材を心掛けている点は、それなりに評価されて良いのかもしれない。

「よう、田浦先輩!僕も連れてって下さいよ!」

「悪いのが揃ったな」

「そうです。そうです。さあ、現場へ急行!ぐずぐずしちゃいられませんよ」

 浅沼巡査は勇気付けられたように、尻馬に乗ってはしゃいだ。

「もう、しょうがねえな。えいっ!行け、行け!」


(3-3) 第三章 最新指定キーワード 3