『本多勝一"噂の真相"』 同時進行版(その7)

本多勝一がヒトラーなら和多田進はスターリンか?

1999.2.12

「同時進行版」としては今の今、インターネット上で「本多勝一研究会」の熱心な投稿と議論が続いている。つぎつぎに、本多勝一の化けの皮が剥がれ落ちている。その剥がし作業に熱心な若い層のほとんどが、これまた元「ホンマ狂」信者だったと告白するのだから、こりゃ、ほんまに、本多勝一の罪は重い。

 その投稿の一部を本連載にも引用したいのだが、ことがことだけに、礼儀上、引用の仕方について投稿者の了解を得たいと思う。となると結構、手間が掛かるので、それは宿題として残し、もう一人の「キーパーソン」として指摘しておいた『週刊金曜日』初代編集長、和多田進の紹介を急ごう。

 私は、すでに、「本多勝一研究会」の投稿mailの中で、和多田を「類は友を呼ぶ」と形容し、本多勝一の「改竄癖」と並ぶ「変節癖」を指摘した。和多田には、朝日新聞社に次ぐ位置ではあるが、「この編集者にして、この執筆者あり」という編集者の責任を問う必要がある。私が、この形容の公表に踏み切る気になったのは、すでに本連載の第1回でも記した新宿は歌舞伎町、地下3階の薄暗い「ディベイト酒場」こと「ロフトプラス1」での幕前の1場面の経過以後である。ただし、日付は少し溯る。

 その日、昨年の1998年7月2日の出し物は、「ロフトプラス1」が、新宿の外れの厚生年金会館よりもさらに先の裏ぶれたビルの2階の狭い旧店から、花の歌舞伎町の「家賃が高いぞという噂がしきりの」広い新店に移ったばかりの時期の「開店記念」豪華版目玉商品の一つ、「噂の真相プレゼンツNo.1」だった。一日店長が『噂の真相』編集長の岡留安則、ゲストが元『週刊金曜日』編集長の和多田進とくれば、宣伝のプログラムには名前の出ていない陰の「登校拒否」ゲスト、または刺身の妻が本多勝一であることは誰の目にも明らかだった。すでに『噂の真相』誌上で、本連載の冒頭を飾った「岩瀬」記事問題をめぐる乱闘が開始され、情報通の話題になっていたからである。

 私は、例によって少し質問をする予定だったから、一日店長とゲストには事前に挨拶した。ところがその時、和多田の方は、私が近寄っていくと非常に焦った調子で、いきなり、こう言ったのである。

「ああ、ここで会えてちょうど良かった。あなたは私が本蛇蝎一(あっ本当だ。これぞ「噂の真相」。これは本当に「ほんだかついち」のワープロ変換の一発で出てきてしまっちゃったのである。だからやはり、忘れずに新語登録の「ほんかつ」で打って変換しなければならないのだ。そこで、もとへ!)本多勝一のことをジャーナリズムから追放すべきだと言ったと書いているそうだけど、それは事実ではありませんから、訂正して下さい」

 和多田のしゃべり方の特徴でもあるが、いかにも、あらかじめ用意した台詞のようだった。だが彼は、私が「どこで」そう書いたのかを言わなかったので、咄嗟に「あれかな」と思って「イニシャルにしといたはずだけど」と答えた。

 私は、『週刊金曜日』記事を名誉毀損で訴える決意をした直後に、手作りの『歴史見直しジャーナル』に、S.K.W.の本多勝一評を載せた。「本多を熟知するW」こと、その直前に会って聞いた和多田の発言要約は、つぎのようになっていた。

「いずれ明らかにするが現在はノーコメント。本多はジャーナリズムから追放すべき人物」

 ところが、和多田は今度は、「弁護士から実名で書いていると聞いた」と言う。それでやっと「ああ、あれか」と思い出した。すぐに思い出せなかった理由は、その「実名」で書いた部分が、大変な追い込み作業で作り、その後にも書き直しの差し替えをした全体でB5判64頁に及ぶ長文書面、「陳述書(1)」の中の、特に深く考える必要のない部分だったからである。その部分(上記書面p. 13-14)は、つぎのようである。

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3、「南京事件調査研究会」に関する批判的私見

[中略]「南京事件調査研究会」と称する組織[中略]の創設に奔走したのは、訴状に記した『週刊金曜日』初代編集長、和多田進ですが、その和多田が編集長を辞任した背景には、被告・本多勝一との不倶戴天の敵同士に至る激しい対立関係がありました。和多田自身は現在、『週刊金曜日』創刊以前から社長を勤めていた晩聲社の立て直しに集中せざるを得ない状況にありますが、私に対して「本多勝一はジャーナリズム界から追放すべき人物だ」という主旨の激励発言をしています。和多田は、そう断言する根拠について、「いずれ明らかにする」と語っています。その内容には、当然、「南京事件調査研究会」の内幕も含まれています。

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 再び場面は、昨年の1998年7月2日の「ロフトプラス1」に戻る。

 以上の部分の実名記載を思い出したので、私は、「ああ、あれですか。私は、あなたの発言通りに書いているので、あれは訂正できませんよ」と断った。和多田は、なおも、「いや、私は、そんなことは言ってません。訂正して頂かないと活字が一人歩きしますから」とかなんとか、この私相手にしては、まるで迫力のない迫り方をしてくる。いわゆる「言わないわけにはいかないから言う」という感じである。その時の私には、彼の腹の内は丸見えだったから、少し厳しい顔をして、さらに、「いや、私は同じことを、直後の記憶の新しい内にもイニシャルで書いてます。間違いはありませんから。これは絶対に訂正できせん」と突っ撥ねた。

 ではなぜ、私が、最初はイニシャルで書いていたことを、その後に実名にしたかと言うと、場面は「ロフトプラス1」でも、さらに一年以上前の狭い旧店に戻る。一昨年の1997年5月1日、一日店長は新右翼で知られる一水会代表の鈴木邦男、ゲストは私だった。当日の題は「読売新聞って何様?/ナベツネを批判できない新聞人に正義を語る資格があるか」だった。ところが、その直前の4月18日に、私が、株式会社金曜日と『週刊金曜日』執筆者2人を名誉毀損で提訴していたので、そちらにも話題が飛んだ。しかも、ちょうど翌週の5月8日には、同じ一日店長に、ゲストは和多田進となったので、題は確か「私がなぜ私が左翼になったのか。そして、なぜ私が右翼になったのか」と言う感じだったが、ここでも当然、『週刊金曜日』が話題に上るに違いないから、私は、客席に座った。

 その時の私の質問に対する和多田の返事の仕方は、明らかに変節を示していた。

 私の訴状の事件の発生経過の部分には、当然、和多田の名前が入っている。株式会社金曜日側の代理人、桑原弁護士は、もともと和多田が仲介した関係にある。だから、これは何か聞いたに違いないと直感した。不用意なことはしゃべるまいとしている感じだった。弁護士と和多田の関係については、私が提訴以前に和多田と会って、色々と事情を聞き、前述のイニシャルで書き、その後に実名にした「激励発言」と一緒に、いささか憤然として口調で語る「皆な私が本多勝一のために準備したのだ」という主旨の自慢話の一つとして、しっかり聞いていた。

 その時の「ロフトプラス1」での和多田の話の中には、近く『週刊朝日』の別冊として『人生相談』を出すというのもあった。本多勝一の実家の朝日新聞社から本を出すとなれば、余計な勘ぐりをしないまでも、あまり揉め事を表面化したくなくなるだろう。

 その他にも、いくつか、和多田の人格に関する情報が集まっていた。

 私が直接聞いた友人の証言では、『週刊金曜日』で前金を集める以前に、和多田は、今も社長を続けている晩聲社の経営危機があって、1口の「3万円」を貸したのに、その後、何も挨拶がない。

『週刊金曜日』編集長時代を知る元社員から直接聞いた友人の言によれば、和多田は、目下には威張るが、目上にはペコペコの典型である。これは何度か会った私の実感と合致する。出版界には、こういうタイプの編集者が実に多いのである。日常的に「必ず売れる本の著者」たる大学教授を典型として、有力な執筆者を「先生、先生」と奉る習慣が骨の髄まで泌み込んでいるのが、ベテラン編集者の典型なのである。

 ああ、またまた本当のこととを書いてしまった。出版労連で困った組合員だと噂が広がつに決まっているが、こればかりは、止められない、止まらない。

 さて、最後にまた、昨年の1998年7月2日の「ロフトプラス1」に戻る。

 この時、一日店長の岡留安則『噂の真相』編集長は、本多勝一と決裂寸前だった。そのことを店の客のほとんどが先刻承知だった。だから当然、「来いと呼んだけど返事がなかった」本多勝一と和多田との関係は、話題の焦点である。

 岡留店長は、本多勝一と和多田とが決裂した当時の『週刊金曜日』解雇騒ぎにおける自分の表現、「本多勝一がヒトラーなら和多田進はスターリン」まで持ち出して、和多田による当時の「噂の真相」公表を迫る。和多田も、いくつかの点での「本多勝一のボケ症状」を認める。しかし、これが、実に煮え切らないのである。「功績」とのバランスも取りたがる。しかも、さらに「ゲー」となったのが、何度も出た和多田のつぎのような発言である。

「本多さんは私にとって元恋人のようなものです」

 最早、これ以上の多言は無用である。

 何人かの友人知人との一致した診断によると、和多田のこの発言には、元または現「ホンマ狂」のやるせない想いを自分に引きつけて、自分のファンにしようとする心理が働いているのである。なかなかに頭の良い出版人ではある。

 以上で(その7)終り。次回に続く。


(その8)和多田「編集長」と「元恋人」本多勝一の「お返事」集
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