『本多勝一"噂の真相"』 同時進行版(その22)

発端記事に見る「ヴェトナム小説」日本上陸の関心事(1)

1999.5.28

 大川均からは、先に指摘した「訳者失格」に関する相互の「罵倒」(井川表現)の真偽の決め手となる辞書、「越日」「越中」「越英」「英越」の4種類の「キーワード」部分のコピーが送られてきた。結論を先に言うと、行司としては確信を持って、軍配を大川関の方に挙げる。しかし、この件は結構ややこしいので、後回しにして、同時に送られてきた事件の発端の新聞記事の方を先に紹介する。これによって、井川訳の「動機」の不思議さが浮かび上がってくると思うからである。

 今回は読売新聞、次回に日本経済新聞の順序とする。この順序は掲載記事の日時の順序に従ったもので、他意はない。


読売新聞1995.4.19.

傷跡を越えて

ベトナム戦争終結20年 2

悲しみの自由な表現まだ先
無名戦士描いた小説家

 小説家のバオ・ニン(43)のハノイの自宅に、昨年11月、デンマーク大使館から手紙が届いた。「我が国は貴殿の業績に栄誉ある賞を贈りたい。ついては1月に貴殿を我が国に招待したい」との文面だった。

 ニンの心は浮き立った。出国ビザを取るための申請書を作った。その後で、政府から呼び出しがあった。「今行けば、いろいろと面倒が起きはしないか。あなた自身、困ることになるのではないか」。当局者はやんわりと、そう言った。

 ニンの業績とは、小説「THE SORROW OF WAR(戦争の悲しみ)」のことだ。昨年、英語やスウェーデン語、仏語に次々と翻訳され、欧州を中心に評判となった。

 舞台は激戦が続く60年代末の南部山岳地帯。主人公の北ベトナム兵キエンの後輩が、部隊からの脱走計画をキエンに告げる。「勝とうが負けようが、このままでは私は死んでしまう。それくらいなら、もう一度、母親に会いたい」。彼はいなくなった。数日後、ジャングルの中で死体で見つかる。

 戦争が終わってからのある日、キエンは黙考する。

 ……数限りない名もない兵士が、戦争の犠牲になった。ベトナムの犠牲になった。ベトナムの名前を誇りあるものにした。しかし彼らにとって、戦争は、苦しみ、悲しみであり続ける。

 ……米国に対する勝利は、たぶん正義が勝ったということだろう。しかし勝利したのはそれだけではない。残酷、死、非人間的な暴力もまた、勝ったのだ。

(中略)戦争の精神的な傷跡は、永久に残る。

 この小説は91年に出版されたが、ベトナム国内では美談としか伝えられることのなかった戦争の悲惨さを、元北ベトナム兵士が初めて強調したところに意味があった。

「ベトナム戦争によって民族の解放と統一を果たした」とする共産党が、「戦争の悲しみ」をこれだけ描かれて面白いはずがない。当局が「面倒なことになる」と言うのは、この小説が海外でさらに評判になり、それが国内に跳ね返って、戦争とそれを指導した党の意義が問い直されるのを恐れたからであろう。

 ド・ムオイ共産党書記長は先月の作家協会の大会で、「人民と国家の利益から逸脱する文学は許されない。文学は、体制の転覆を図り革命の成果を否定する敵対勢力と戦わなければならない」と警告した。

「戦争の悲しみ」には、北ベトナム兵として6年間従軍したニン自身の体験が強く反映したいると見られる。同じ部隊で5百人のうち、生還したのは彼を含む10人だけだったという。

 だがニンは、「小説は想像の産物だ」として、直接多くを語ろうとしない。

 サイゴン陥落の日、ニンはサイゴンの町を見たくて、捕らえた南ベトナム兵にジープ型車で案内させた。「殺されると思っておののいていた相手も、会話を交わすうちに緊張が解けたようだった。その時初めて、おれたちは同胞だったことを思い知らされた」と述懐、複雑な心境をのぞかせる。

 当局の忠告があってから、ニンは2か月間、考えた。そうこうしているうちに、デンマーク大使館から、コペンハーゲンまでの往復航空券が届いた。彼は招待を断ることを決めた。

「私たちを取り巻く環境は、日本などの他の国とは違う。我々文学者は、政府の後ろにいるのだ。今はそういう時代なんだ」

 ベトナム戦争を文学者が自由に評価出来るようになるまでには、まだ時間が掛かりそうだ。(敬称略)

(ハノイ・林田裕章、写真も)

[写真説明:]自著についてハノイの自宅で語るバオ・ニン氏


 以上で(その22)終り。次号に続く。


(その23)発端記事に見る「ヴェトナム小説」日本上陸の関心事(2)
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