『本多勝一"噂の真相"』 同時進行版(その16)

本多勝一の同志「朝日『重鎮』」井川一久「改竄疑惑」

1999.4.16

 以下は、前回に紹介した「朝日『重鎮』井川一久」「疑惑」の告発記事である。この奇々怪々な経過についての応酬は、『週刊文春』(1997.11.27)「改竄疑惑」、『正論』(1998.7)井川反論、『正論』(1998.10)大川再反論と続く。それ以外にも目下照会中の『週刊金曜日』記事問題とか、「朝日『重鎮』」同士の仲の本多勝一の介在もあるので、引き続き関係資料を紹介する。大川均の人柄については一昨年来、友人から聞き知り、直接の電話でも、いくつかの問題点を質した。その他の取材結果も含めて、逐次、紹介する。

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ベトナム戦争を描いた小説はかく改ざんされた!

製本会社経営・おおかわ・ひとし
大川 均

著者紹介:大川均氏 昭和15年(1940年)和歌山県生まれ。大阪外国語大学中国語学科卒。青山学院大学大学院文学研究科聖書神学専攻修士課程修了。アジア福祉教育財団難民事業本部姫路インドシナ難民定住促進センター日本語講師をつとめる。同財団刊行の「漢字語彙集(べトナム語)編集。昭和60年(1985年)、「べトナム難民漂流記」で朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞奨励賞受賞。

写真説明:[戦争の悲しみ」の著者バオ・ニン氏と大川氏(1997年9月1日撮影)

 以下が本文。

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中断された出版作業

 ベトナム戦争を描いた、ハノイの作家バオ・ニン(元北ベトナム軍兵士)の「戦争の悲しみ」は悲しい小説だ。著者の分身ともみえる主人公、北ベトナム陸軍の志願兵キエンは、米軍との南ベトナム中部高原での合戦で全滅した大隊の、わずか数人の生き残りの一人だ。瀕死の重傷の癒えるのをまって戦線に復帰し、米軍、南軍と死闘をつづけ、戦後、遺骨収拾隊員としてジャングルを経巡った後、除隊して作家になるが、戦争の心的外傷(ルビ:トラウマ)から逃れられず、幼馴染みの歌姫フォンとの恋にも破れ、ついには精神の崩壊へと進む。

 この戦争小説は、北ベトナム軍の、どこの国の軍隊とも共通する、善悪とりまぜたありのままの姿を描いている。そのために軍当局の不興を買い、また却ってそのために英語、フランス語その他十数か国語に訳されて欧米で高い評価をえた。そして欧米での評価が高まるほど、国内での作者の立場は困難になった。今でもやはり「人民の軍隊は正義の軍隊」という看板をはずすことは許されないのだ。1991年に2000冊印刷された初版は出版と同時に絶版とされた。

 1995年春、読売新聞と日本経済新聞が「戦争の悲しみ」と作者バオ・ニンを紹介した。1996年春、私の友人の里帰りしたベトナム難民がホーチミン市中を探しまわり古本屋でやっと1冊見つけて買ってきてくれた。私は元南ベトナム空軍中尉、元北ベトナム陸軍大尉の協力を得て翻訳に取りかかり、途中で著者に手紙を書いた

「私は学生時代ベトナム反戦運動にかかわり、その後ベトナム難民に日本語を教えるプロジェクトにたずさわってきた。アメリカの映画や小説、ルポや回想録で、アメリカ側の事情はかなり分かる。難民と接することで南の事情もかなり分かるようになった。

 しかし、当時も今も肝心の北ベトナムのことはほとんど分からない。とりわけ、北の人々の心の中はまったく分からない。あなたの作品ではじめて、人々の喜び悲しみを知ることができるように思う。この作品は欧米と同じように日本の読者にも暖かく迎えられるだろう。今、私はべトナム語原文から翻訳を進めている。翻訳の許可をいただきたい。」

 そして著者と電話で話すことができた。著者は私に原文からの翻訳の労にたいする謝意を述べ、版権のことは分かりかねるのでそちらで研究してほしい、と述べた。そして私が確認のため底本の奥付の記載事項を告げると、彼は「間違いない。それで続けてほしい。」と答えた。こうして私は翻訳を進め、完成した訳稿のコピーを今年[1997年]4月に著者に送ることができた。東京・築地の手堅い出版杜、築地書館社長が作品のよさに魅かれ、私の訳の出版を引き受けてくれた

 ところが、版を組み終え、印刷製本をまつばかりになった時、英訳本からの井川一久氏による重訳が「めるくまーる」社から出ることが分かった。築地書舘が誠意を尽くして「め」杜に挨拶したところ、「め」社と井川氏は驚き激怒した。「め」杜は「こちらは最初から著者と連絡をとり、英訳本からの翻訳出版の許可も得ている。そちらは嘘を言っている。そちらの訳者はどこの何者か。」と言い、つづいて、井川氏から連絡を受けた原著者バオ・ニン氏から「版権はイギリスの会社がもっている。築地書館の出版は取り止めよ。」とのファックスが届いた。

 そこにはさらに驚くべきことに、「自分はオカワ、イカワを同一人物だと思い込んでいた。朝日の支局長には何度か会ったが、オカワには会ったことがない。今までオカワとくりかえし連絡をとったが、イカワと連絡しているつもりだった」とあった。井川氏は訪問した築地書館会長に「あくまでも出版するならハノイでマスコミを呼んで原著者といっしょに記者会見を開くなどして築地書舘を非難する。」と警告した。井川氏はプノンペン特派員、サイゴン支局長、ハノイ支局長を歴任した顔日新聞の元記者だ。

 おっかけて、イギリスのランダムハウスから築地書館に「版権は当杜にある。日本語版の翻訳出版権は当社から版権を買った『め』社にある。即刻、出版を取り止めよ」とのファックスが来た。築地書館は「ランダムハウスがもっているのは英語版についてだけだ(英語版には『イギリスにおける著作物』として版権が生じる)。当方の出版はベトナム語原版からで、英語版とは無関係だ。取り止め要求の明確な法的根拠を早急に示せ。」と反論した。この反論への返答はついになかった。商標権や著作権にからんで欧米人がよくやるブラフにすぎなかった。

 べトナムは国際著作権条約(「べルヌ条約」「万国著作権条約」)未加盟国である。したがって、外国とベトナムでは、相手国の著作物の翻訳出版はお互い自由にできる。法的に外国人とベトナム人の間で版権は売買の対象にならない。版権の売買はありえない。私がバオ・ニン氏に出版の許可を求めたのは道義上のことだ。しかし、築地書館は井川氏と「め」社の剣幕に恐れをなし、ベトナム入作家の版権への無理解や人物の取り違えなど混乱した状態に嫌気がさし、七月、出版作業を中断した。

 一方、六月中旬、井川一久訳「戦争の悲しみ」が「め」社から出版され、各紙誌に書評が掲載された。私は井川訳を読んで驚いた。これは翻訳ではなく贋作だ。

井川一久氏の改竄

「そのころタンソニュット空港は、にわかに騒々しくなっていた。周辺の貧しい住民があろからあとがち押し寄せ、あらゆる施設からあらゆる資機材ど備品を先を争って運び去ろうとしていたのだ。機械類や食品はもとより、電線、食器、椅子、灰皿、窓ガラスまでが略奪の対象だった。その物音にまじって、入民軍の兵士たちがなかば祝賀気分、なかば破壊衝動で天空へ射ち上げる銃声が響いていた。

 住民の略奪物品は、この日に南北統一を事実上達成したヴェトナム国家の財産となるべきものだったが、略奪者たちはそんなふうには考えず、サイゴン政権がつぶれたからには空港の物件はすべて所有者なしの、誰でも勝手に処分していいものになつたと思っているらしかった。とにかく、ひどい騒ぎだった。眼を血走らせて金目の物品を取り合い、あるいは喜色満面で略奪品を運び出す群衆の叫び。これを制止しようとする兵士たちの銃声。」(井川訳142,143頁)

 これはサイゴン陥落当日の北軍によるタン・ソン・ニュット空港略奪の場面。ここでは、原文のどこにもない「周辺の貧しい住民」を登場させ、略奪の犯人を北軍将兵から彼らに書き変えたうえ、よけいな書き込みをし、説教をひとくさり書き加えている

 原文は左記のとおり。

「ちょうど、飛行場の至る所で、勝利を祝って乱射する銃声が鳴り響き、兵隊も将校も一緒になって、どたばた走り回り、叩き破り、打ち壊し、市場の中のようにごったがえして、獲物を漁り始めていた。」(ベトナム語原版109頁からの拙訳。印刷の都合で原文は割愛)

 なお英訳は左記のとおり。英訳本は誤訳が多いが、この箇所は比較的原文に忠実である。

 The whole airport was full of officers and soldiers alike running as though they were in a marketplace. They were looting, destroying, and firing rifles into the air at randam.

(英訳本 103頁。傍線[注]は大川。以下同じ)

[Web週刊誌『憎まれ愚痴』編集部注:上記傍線(underline)箇所は下記の部分。その後の傍線付きの箇所では、単に「*[傍線1.]などの注記のみとする。]
2018.10.26追記:傍線部分に赤の下線を追加表示。

*[傍線1.「兵隊も将校も一緒になって」(officers and soldiers alike)]
*[傍線2.「獲物を漁り始めていた」(They were looting)]

「『ごらんよ、ひどいじやないか』と、キエンは胸を締めつけられる思いでフォンに言った。『学校をめちやめちやにするなんて、もう誰も命ってものを大切にしなくなったのかなあ』

どこかの男たちのしわざだわ』とフォンは突き放すように答えた。…『人間ってそんなものなの。戦争がそうさせるの。戦争が何もかも壊してしまうの』」(井川訳 320頁)

*[傍線1.「どこかの男たちのしわざだわ」]
*[傍線2.「人間って」]

 これは北ベトナム、クイン・ホア市近郊の廃校の場面。自国の学校を荒らす北ベトナム軍の十気の低さを示すこのエピソードを、「どこかの男たち」を登場させて書き変えた。なお、英語のlifeを「命」と誤訳したためにキエンの台詞は意味不明になっている。原文のcuoc song[ヴェトナム文字の鬚は省略] も、英訳のlifeも、「生活」である。原文は、

「『学校をこんなにして!』彼は嘆いた。『よく壊したもんだ。連中は、生活を大切にすることを知らないのか』

『軍隊が立ち寄ったのは確かね。兵隊なんて。戦争なんて! 戦争って何もかも、一つも残さず蹴散らしして、壊して、食べ尽くすのよ!』フォンが、人の世の習いだとでもいうように言った。」(原文260頁からの拙訳[『憎まれ愚痴』編集部注:大川訳]。原文は割愛)

 英訳は左記のとおり。

"Look at this," he said to Phuong. "How could any one destroy school? Don't they respect life any more"

"May be it was our soldiers", she replied. "Soldiers do this sort of thing. War does this. war smashes and destroys."

(英訳本 216頁)

*[傍線1.「生活」]
*[傍線2.「軍隊が立ち寄ったのは確かね。兵隊なんて」May be it was our soldiers", "Soldiers do this sort of thing.]

 ここでは紙数の関係でこの2例だけをあげるが、井川訳はこうした改竄で全編が覆われている。読者の要請があれば例はいくらでも提示する。

 井川氏は巻末の「解説」に次のように書いて、翻訳の方針を表明している。

「この小説に登場する兵士たちは、人間的弱点をたっぷり持ち合わぜているが、その弱点は他者を傷つけるようなものではない。米軍やサイゴン軍とは違って、彼らはわが身を犠牲にしても非戦闘員の命を守ろうとし、傷ついた敵兵や投降した敵兵には決して危害を加えない。彼らは戦いの場に投げ込まれた自他の運命に泣きながら戦うのだ。

 この人民軍の兵士像は、ヴェトナムやカンボジアでの私の見聞とも一致する。この軍隊に関する限り、私は女子供や老人の殺傷、レイプ、金品略奪、捕虜虐待などの悪業[ルビ:ママ]を、ただの噂としても一度も耳にしたことがない。」(368頁)

*[傍線1.「米軍やサイゴン軍とは違って」]
*[傍線2.「この軍隊に関する限り、私は女子供や老人の殺傷、レイプ、金品略奪、捕虜虐待などの悪業を、ただの噂としても一度も耳にしたことがない」]

 原作はこの線で改竄するぞ、というわけだ。井川氏は英語の能力があやしいだけでなく、翻訳者の禁欲も畏れもなく、原作者と読者を尊重することも知らない。訳者失格である。

井川氏の改竄が意図するところ

 戦争当時、北ベトナムは「南ベトナムに北ベトナム軍は存在しない。」と強弁し、日本のマスコミはおおむねこの強弁に屈していた

「…いわゆる南に存在する北ベトナム軍なる問題については。

 答え われわれは交渉の中で『北軍の存在』なるものをきっぱり拒否している。政治的、法的にも根拠がない。」(「パリ和平協定」締結時のレ・ドク・ト北代表団特別顧間の発言。「読売新聞」1973年1月25日夕刊)

 バオ・ニンの「戦争の悲しみ」は、北政府が終始一貫否定しつづけた「北軍の南での戦闘」を描いている。そこでは米軍の庄倒的な強さと非常、南軍の勇戦と冷酷、北軍の人情味と残虐、窮乏を描いている。私たちは戦争当時、アメリカ軍の物量と奢りの陰のもろさや南軍の駄目さ加滅については十二分に聞かされた。反面、「解放勢力」の果敢、廉潔についてもたっぷりと聞かされた。しかし、この作品は、勇敢であるが卑怯にもなり、女も殺せば、捕虜虐待も略奪もレイプもする、どこにでもある普通の軍隊としての北べトナム軍を描きだしている。これが作品の歴史的意義であり、ベトナム軍当局が激怒した理由でもある

*[傍線1.「普通の軍隊」]

 しかし、井川氏は原作にも英訳本にも逆らって、北軍の略奪行為は隠蔽し、米軍と南軍にはきたない言葉を投げつける。北軍の不行跡を消去し、美化するための、また米軍、南軍をおとしめるための、長短の語句を至る所に紛れ込ませる。麦めしのコメの間から麦つぶを一つ一つ摘まみ出すのが困難であるように、井川氏の混ぜ込んだ偽りのことばを摘まみ出すのは極めてむずかしい。井川氏はこうした荒っぽい手口で自昼堂々、原作の意図を逆方向にねじまげたのだ。矢作俊彦氏が朝日の読書欄(1997年8月24日)でこの本を評し、「しかし、翻訳がいただけない。この文章から原作に思いをはせるには労力が必要だ。」と書いてあるとおりだ。

*[傍線:「原作の意図を逆方向にねじまげたのだ」]

 井川訳が底本にした英訳本も、南ベトナムのジヤングルにオランウータンを登場させたり、徒歩で接近する南軍降下部隊をパラシュート降下させたり、書き変え、削除、誤訳だらけの困った代物ではあるが、そこにはこの種の原作の精神に逆行する改竄はない。こうした改竄の意図はいったいどこにあるのだろう。自分たちが美化しつづけた解放側のありのままの姿が現れるのがそんなに怖いのだろうか

*[傍線:「原作の精神に逆行する改竄」]

 我々日本人にとってベトナム戦争はたいへん分かりにくかった。中でも分かりにくかったのは、戦争当事者の片方が何者なのかがはっきりしなかったことだ。当初、南ベトナム軍の対戦相手は南ベトナム解放民族戦線、いわゆるベトコン・ゲリラだとされた。ベトコンとは、南ベトナム政府の暴政に耐えかねて蜂起した南の民衆の組織で、弓矢や落とし穴、奪った武器で果敢に戦うゲリラだといわれた。北ベトナムはこの組繊を北から支授しているだけで、「南で作戦展開している北ベトナム軍は存在しない。」とされた

*[傍線:「南の民衆の組織」]

 途中からアメリカ軍が南政府側に付いて参戦し、北からの補給路を断ち、北の戦意を挫くためとして、、北爆(北ベトナム爆撃)を強行し、ラオス、カンボジアにまで戦線を拡大した。が、思うようにゆかず、だんだんと嫌気がさし、ついに、北側と「パリ和平協定」を締結し、「これによって戦争は終桔した。」と宣言して撤退した。「協定」を実現したアメリカ大統領補佐官キッシンジャーはノーベル平和賞を受賞した。

(2人セットで受賞するはずだった北のレ・ドク・トは受賞を拒絶した。)

 しかし、終わったはずの戦争は続き、2年後の1975年5月初めに、我々はサイゴンの南ベトナム大統領官邸に突入する北ベトナム軍とその戦車隊をテレビで見た。4月30日、北ベトナム軍が南ベトナム軍を撃ち被り、南の首都を落としたのだ。しかし、サイゴン入城の北ベトナム軍部隊が掲げていたのは「南ベトナム解放民族戦線」の旗だった。日本の新聞で、「突入したのは北ベトナム軍だ」とずばり報じたものはなかった。北ベトナム自身が頑として認めない以上、どう呼ぶべきか分からなかったのだろうか。解放勢力軍、解放軍(以上、朝日、読売)、括弧つき「解放軍」(毎日)、北・革命軍(サンケイ)、臨時革命政府軍(日経)とまちまちだった。10年以上もつづいた戦争で戦争当事者の名前が特定できなかった例が史上ほかにあるだろうか。ニューヨーク・タイムズは「北ベトナムと南臨時革命政府の共産軍(Commmunist troops of North Vietnam and the Provisional Revolutionary Government of South Voetnem)」(5月1日)と報じた。我々は、北ベトナムに騙されたマスコミに騙されていたわけだ。

 しかも、我々がテレビで見たこの勇ましい戦車隊突入の場面は、実況ではなく事後のやらせであったことを現場にいあわせた毎日新聞の記者が後に書き記している。(古森義久著「ベトナム報道1300日/ある社会の終焉」349頁、昭和60年、講談社)

 朝日新聞記者、井川一久氏は当日の状況を次のように伝えている。

「大統領官邸高く、解放戦線の2色金星旗がひるがえった。驚くべきことにこの旗は邸内の一部にひそかに用意されたのだ。」【サイゴン=井川特派員】(朝日新聞1975年5月1日)

 *[傍線:「驚くべきことにこの旗は邸内の一部にひそかに用意されていたのだ」]

 井川特派員はこの旗が「邸内の一部」から取り出される現場を目撃したのだろうか。誰かに聞いたのだろうか。ここには根拠が示されていない。「解放側」の浸透力を強調するために一筆書き加えたのではあるまいか。だとすれば、22年後の今回の改竄の根は極めて深いと言わねばならぬ。正に確信犯だ。

バオ・ニン氏を訪間

 9月1日、私はハノイのバオ・ニン氏を訪ねてアパートの一室で話し合った。ときおり小雨の降るハノイの街は翌2日の国慶節(独立記念日)を祝う紅の横断幕で飾られていた。1945年9月2日、インドシナの東京[ルビ:トンキン]デルタのこの都市で、ホー・チ・ミンがベトナムの独立を宣言した。同日、日本の東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」上では日本の降伏文書の調印式が行われた。20数年後「ミズーリ」はベトナム戦争に参加してベトナム沿岸に艦砲射撃をあびぜた。私は両国の歴史の深い因縁を想った。

 バオ・ニン氏は版権の国際的な扱いが全く理解できなかった。訪問以前から、電話で話し、手紙を送り、そして今、膝つきあわせてくりかえし説明したにもかかわらず、国際著作権条約の論理がどうしても飲み込めないようだった。理解不能事の理解を強要された形になって当惑しきったようだった。私は事前に、ロシア専門家や国際著作権法の専門家から、かつてのソ連や中国でも国際著作権の概念が理解されなかったことを聞いていた。専門家たちは「べトナム人作家にはとうてい理解できまい。」と予告していた。これは彼個人の柔軟性の欠如というよりも、べトナムのように法治の経験のない社会に住む人々に共通する悲しい限界だ。

「自分はイギリスの会社に版権を売ってしまった。お金をもらった。版権はイギリスの会社にあるのだ。売ってしまった以上、二重売りはできない。」と言うばかり。もらったのは謝礼金にすぎないのだが、それを版権譲渡の代金としか解せないのだ。私はつぎに、井川訳の改竄を例証しようとした。私は井川訳の改竄例を1例、日本語からベトナム語に訳し直して、あらかじめ郵送しておいた。そして今回、他の数例を追加して持参した。彼は「自分はいわば脚本家の立場だ。脚本家がいちいち演出家に口出ししないように、翻訳家に口出ししない。英語も日本語も分からないのだから、翻訳家を信用するしかない。」と言い、「他人様の訳を批判するようなことはすべきでない。」と私をたしなめにかかる始末。しかし私が「その例のようなむちやくちやな訳でも信頼するのか。」と迫るとさすがに困惑し、「もしこれが本当ならば、何とかしなければならない。しかし、あなたのこのべトナム語訳が井川訳の正確な訳かどうか自分には分からない。日越両語の分かる人に比較検討してもらってから判断する。」と言う。

 私は、とりあげた改竄例だけでなく、拙訳、井川訳の全文の早急の比較検討を求め、「井川訳の大幅な改竄が、私の指摘どおりだと納得すれば、原著者として抗議なり、非難なりを公表すべきだ。」と言ったところ、彼は「そうする。」と答えた。

「戦争の悲しみ」は不運な小説だ軍当局に非難され、出版と同時に絶版とされた。欧米には誤訳だらけの英訳本によって紹介され(仏訳以外は全て英訳からの重訳)、日本では原作の精神に敵意を抱く訳者の手に掛かり無残な姿で紹介された。私は、原作の名誉を守り、原作の本当の姿を日本の読者に伝えるため、この優れた作品を何としても出版したいと思う。

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 以上で(その16)終り。次回に続く。


(その17)続1:「朝日『重鎮』」井川一久のベトナム小説「改竄疑惑」
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