武蔵野版『不祥事隠し』独自捜査シリーズ(その8)

検察への告発2. 泥棒が自分を裁く手際の疑惑

2000.4.7

 今回の告発の論点は、過去の実例を対照した方が分かりやすくなるので、最初に、実例を紹介してしまう。それも、やはり、同じ武蔵野市の実例なのである。

 実は、今度の納税事務を巡る不祥事は、この同じ武蔵野市で2度目の事件なのである。現市長の土屋正忠の彦が市議会議員の当時に、納税事務を含む4件の「不祥事件」が続発し、市議会では当時の市長に対する「問責決議」が、満場一致、……ということは当然、与野党一致で、採択されていたのである。しかも、その際、土屋正忠の彦は、野党議員として、市長の責任追及、糾弾の先頭に立ち、翌年新春、恒例の市議会議員が全員揃って写真入りで抱負を語る『武蔵野市議会報』(1983.1.1)でも、次のような、実に雄々しい決意表明を行っていたのである。

土屋正忠の彦の過去の「不祥事徹底追及」決意表明


『武蔵野市議会報』(1983.1.1)

「年頭所感」の22番目。

写真説明:土屋正忠

 新年明けまして、お目出とうございます。

 昨年、12月市議会で、たて続けに4件の職員の不祥事件が明らかになりました。藤元市長となって、永年の職場の弛緩と、士気の低下は、極限に達したといえます。自己革新出来ない“革新市政”では困ります。

 清新で効率的な行政組織を! 21世紀をめざす明日の子らに自然体験を遊びを! 自助と連帯の福寿時代を! 等々……。先見性に富んだ活力ある市政をめざして、今年も全力投球で頑張りますので、よろしくご支援下さいますようお願いいたします。

 年頭にあたり、市民の皆様のご健康とご多幸を心からお祈り申し上げます。


 全員で34名の市議会議員の内、特に肩書きが写真説明に入っているのは、議長と副議長のみで、この2人は「不祥事」に言及していない。土屋正忠の彦以外に不祥事に言及したのは4人のみで、その部分だけを紹介すると、以下のようである。

榎本重夫:「昨年末の市議会で自由民主党市議団は、職員の不祥事件を始めとし、他市と比較して飛び抜けて高く支給している特殊勤務手当などを中心に、職員給与の在り方など市長の行政責任を追及しました」

井口一男:「一部職員の市税使い込み事件、税の消し込み事件等一連の不正事件が発生し、市民の皆様に大変ご迷惑をおかけしました」

望月彰夫:「昨年は、市職員の一連の不祥事のため、市民の皆様に多大のご迷惑をおかけしたことを深くおわびいたします」

木村勇次:「特に昨年来、相次ぐ職員の不祥事件は、市民の代弁者である市議会議員の一人としてその責任を痛感しております」

 以上のように、地元の大地主の一族で「自由民主党市議団」を名乗る榎本重夫の彦以外は、すべて、市議としての反省を述べている。当時は無党派の「市民クラブ」に所属していた土屋正忠の彦の“革新市政”攻撃は、最も戦闘的な姿勢を示すものである。そして、この年、1983年の市長選挙で、土屋正忠の彦は、市長に初当選を果たすのであるが、その件は別途、詳しく記す。ともかく、この戦闘的な「“革新市政”攻撃」の姿勢が、当時は野党の「自由民主党市議団」にも評価され、保守派の野党の統一候補に推薦されたのである。だから当然、土屋正忠の彦にとって、強烈な印象を残す事件の経過であったことは、間違いないのである。

1,157万850円の税徴収金「消し込み事件」との比較

 同じく『武蔵野市議会報』(1983.1.1)の一面記事トップでは、上記の「4件の職員の不祥事件」を、(1)清掃職員の不燃物不正売却事件、(2)バス運転手謝礼金収受事件、(3)市税収納金の未払込事件、(4)市税収納カードの不正消込事件、と表現している。

 この内、(4)が主たる事件で、「消し込み事件」と通称されていた。帳簿上からの「消し込み」作業によって、職員が、高額納税者の脱税の共犯者になったという不祥事件である。金額は、次に示す議事録によると、各種税の合計で、1,157万850円となったり、問責決議では1,500万円余となったりしてる。ああ、私も、一度ぐらい、その程度の税金を請求されてみたいものである。

 市議会では、この「一連の不祥事件」について、「深夜に及ぶ長時間にわたる白熱の質疑が交わされた後、問責決議が可決された」(同上『武蔵野市議会報』)のである。

「深夜に及ぶ長時間」を、1982年(昭57)武蔵野市議会会議録25号(第4回定例会)の議事録で確かめると、11月25日の午前11時35分から、問責決議文の作成に要した休憩時間を挟んで翌日の11月26日の午前4時2分まで続いていた。しかも、この11月25日の午前11時35分開会は、前日の11月24日の定例会が、やはり深夜に及び、11月25日の午前0時10分に「開議」となり、その終了時間は記されてはいないものの、同じ11月25日の午前11時35分からの「日程第2号」による会議が始まり、議事の冒頭で、当時の市長の藤元政信の彦が、「昨日に続きまして、本日も新たな行政報告を申し上げることを非常に遺憾に存じて……」と切り出すのであるから、これはもう連日の午前様、この事件の発生よりも「ひと昔前」の学園闘争さながら、連日の市長吊し上げなのである。

 11月25日から翌日の11月26日までの議事録の内、不祥事件に関わる部分は、A4版で78頁にも及んでいる。冒頭に当時の市長、藤元政信の彦が、「行政報告」している。「事件の発端」は、1982年(昭57)11月13日である。つまり、この「行政報告」の12日前に「事件」が発覚したのである。逆に言うと、「事件発覚」の12日後に議会に報告して、市長が詫びていることになる。

 まずは、この「発覚」から「報告」までの期間を、今回の不祥事の処理と比較してみよう。土屋正忠の彦の「報告」によると、「事件が発覚したきっかけは、5月17日に納税者から」「連絡があったこと」(『市報むさしの』1999.8.1)であり、市議会への「行政報告」は、7月1日であるから、手元の手帳のカレンダーをめくって、「オイチニ、サン、シ……」と数えると、45日後である。かなり長い。本シリーズで追及している「疑惑」では、実際の発覚は半年前、前年の3氏への「差押え通知」の日付、10月16日の直後の可能性が高いので、その10月16日から数えると、ちょうど36週間、252日後となる。とてもとても長い。

自らを処分する手際の「良さ」か、「臭さ」さか

 さらに数えてみれば19年も前のことになる「消し込み事件」の場合には、上記のような「行政報告」に至る期間の短さも、さることながら、すでに詳しく述べた告訴の経過はもとより、責任者の処分に至る経過も、今回の「不祥事件」の場合とは、大いに違っていた。「消し込み事件」の「行政報告」では、不正行為の内容と金額が「ほぼ」正確に示され、「問責決議」が先に行われ、翌月の12月6日に、「武蔵野市長等に支給する給料の特例に関する条例が可決され」、それによって、「市長は10分の3、税務担当助役10分の1、環境担当部長10分の0.5、収入役10分の0.5を12月の給料から減額する」ことになったのである。

 ところが、今回の「不祥事件」の場合には、議会への行政報告以前の6月30日に「武蔵野警察署と相談の上」、告訴を行い、7月1日の定例会の最後に行政報告し、その際すでに冒頭の発言で土屋正忠の彦が「私を初め、関係職員に対して厳重な処分を行う」とし、「臨時会などをお願い」し、7月14日の臨時会で処分を発表するという「手際の良さ」をしめしたのである。ただし、被害金額の総額が「ほぼ」確定するのは、半年後であった。

 19年前の「4件の不祥事件」の内でも、満場一致の問責決議で「被害金額も1,500万円の高額にのぼる市政始まって以来の不祥事」と表現された「消し込み事件」の場合には、同決議の「勧告」の「記」の冒頭「1」で、「厳重な処分」を求めているのであるから、責任者の処分は形式上、議会の決議に基づく処分となる。

 ところが、今回の「不祥事件」の場合には、野党は虚を付かれ、「少数」の弱みもあり、問責決議を上程できず、「真相究明決議」も否決され、いまだに全容を明確にさせることすらできずにいる。本来なら、立法、司法、行政の3権分立の原則から言えば、立法府の議会により糾弾され、処分されるべき行政の責任者が、議会に報告する以前に勝手に処理方針を決め、密かに告訴を済ませ、事後報告のみで、多数派の「グル」議員団を背景にして居丈高に居直り、議会の鼻面を引き回しているのである。

 繰り返す。「厳重に処分」を求められ、責任者として追及されるべき市長、つまりは、少なくとも、「監督不行き届き」の政治犯罪を犯した本人、土屋正忠の彦が、「自分で自分を処分する」、つまりは、分かりやすく言えば、泥棒が泥棒を掴まえて自分で裁判を行い、判決を出すような、とんでもない「一人芝居」を演じているのである。

以上で(その8)終わり。(その9)に続く。


(その9)『武蔵野市民オンブズマン』・兼・検察への要望書
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