『電波メディアの神話』(9-3)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.15

終章 送信者へのコペルニクス的展開の道 3

マスメディアの限界を知りつつ批判と啓発を追及

 私は昨年(93)の一月、ヴェトナムとカンプチアの現地取材にでかけ、そのおり、うまれてはじめてのヴィデオ・カメラによる取材をこころみた。帰国後、「民衆のメディア連絡会」の仲間とともに作品構成を考え、これもはじめて自分が出演したヴィデオ作品、『軍隊の影に利権あり』を発表した。

 私は、日本テレビ放送網(株)に二七年半在籍したものの、現場の技術者でも制作者でもなかった。映像技術に関してはまったくの素人である。「民衆のメディア連絡会」の中心になっているビデオプレスの松原明から、せっかく現地にいくのならヴィデオ撮影をしろとはげまされ、たった一時間の即席講習をうけただけで、松原からアマチュア用の8ミリ・ヴィデオ・カメラを借りていった。だから、市民制作のこのヴィデオが、二百本をこえる予想外の売行きをしめしたのには本当におどろいたし、不十分な内容に責任を感じている。ヴィデオ上映の後で講演という市民集会への参加依頼も四〇回をこえた。

 『軍隊の影に利権あり』の基本的な構想は、私が発行する手づくり新聞、B4版の自称個人メディア」、『フリージャーナル』のPKO資料シリーズ、都合11号、28ページの内容にもとづいている。『フリージャーナル』の方は、自分の本の広告をいれてスポンサーのつもりになるという落語の「花見酒」まがいの方式で一刷千部(増刷もある)を無料配布するのだが、結果として、数十人の有志の積極的なカンパにより、紙代と印刷費はすべてまかなえている。湾岸戦争以来、現在までに21号をかぞえた。いまのところは、大手メディアにくらべれば「蟷螂(カマキリ)の斧」とも思えるが、私は、同じカマキリでも野生のカマキリだという心意気でやっている。

 朝日新聞の保科龍朗記者は、私の長話をつぎのようにじょうずにまとめてくれた。

 「メディア・アクティビストは本来、マスメディアと敵対する存在ではない」

 「マスメディアの企業としての限界を知り抜いたうえで、批判したり、場合によっては協力すればいい。うまくいけば、我々は、マスメディアを啓発する力を手に入れられるかもしれません」

 専従者もいない「民衆のメディア連絡会」の運動内容にはまだ不十分な点がおおいが、放送なりメディア全体なりへの疑問と批判を胸にひめた市民が、いかにおおいか、またはいかに組織運動のはたらきかけをまっているか、という私の実感にはたし確かなものがある。

 電波メディアはいまや、残念ながら愚民政策の根幹をなしている。たとえば民放のスポンサーなら当然の権利があるかのように日常的におこなっている番組内容への干渉は、実際には明々白々、憲法に違反する検閲行為という重大な犯罪行為にほかならない。「あの」文部省でさえ、弁解の台詞を工夫しなければ簡単にはできない時代錯誤の野蛮行為なのだ。このような憲法違反の実態の告発をさけてとおりながら、口を開けばイケシャーシャーと民主主義国ニッポンとか、ジャーナリズムの使命とかを云々するような学者先生などは、やはり詐欺師の風上にもおけない。

 しかし、市民一人一人がその気になりさえすれば、電波メディアには逆手にとれる性質がある。土地や財産の過度の私有にも問題はあるが、電波はその性質上、私有にはなじまないのである。だからこそ、天皇制国家日本は遠慮なしに国有を宣言した。だが、すくなくとも現行の日本国憲法の字面では、国家の主権者は国民ということになっている。その主権を行使する勇気さえ発揮すればいいのだ。

 くりかえしになるが、「人は生れながらに平等」という近代論理を尊重するのなら、電波主権にもとづく使用権の平等の要求は、すぐれて近代的な論理である。ここで腰をひいてはならない。完全な平等を要求する横綱曙流の両手突きこそが、優勝への電車道である。


(4)印刷・活字をふくむ「公共性」メディア全体解放の視点