『電波メディアの神話』(1-0)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

 電波メディアの理論構造は意外に複雑なので、順序を追って解明しないと、舌たらずの説明でかえって新しい誤解をうむことになりかねない。

 そこで第一部の説明の中心テーマは「電波メディアとはなにか」ということになる。

 一見かたくるしいようだが、決して物理学上の定義ではない。経済学でもない。法律も必要最少限しか紹介しない。むしろ歴史学か政治学である。もっとかたくるしい書物の『資本論』の構成と比較すると、第一部第一編第一章の「商品」に相当する。

『資本論』の著者、カール・マルクスは、現実全体を脳裏に想いうかべながらも、「商品」という基本的な形態から上昇して資本主義社会を説明しなおすのが正しい方法だとした 。

 私には『資本論』を通読した経験しかないが、今のところマルクスの方法論や分析を根本的に訂正するにたる材料をもちあわせていない。東西冷戦構造とソ連の崩壊以後、「マルクスは間違っていた」という趣旨の、それみたことかという感じの論評があふれているが、私がみたかぎりの文章では、その種の論者がまともに『資本論』を勉強したとはとうてい思えない。むしろ、『資本論』の内容への賛否以前の問題である。これまでに、この世紀の問題の書物を読みとおすことができずに内心ジクジたる状態だったエセ・インテリが、これで長年のコンプレックスの原因の除去が可能になったと錯覚し、この世紀の怪物を一刻もはやく忘却の彼方に葬りさろうとあせっているように思えてならない。本当に自信をもって『資本論』のあやまりを指摘できるのだったら、マルクスに匹敵する程度の説得力のある論文を発表すればいいのだが、そういう実例はいまだに聞こえてこない。

 私があえて「根本的に訂正するにたる材料」という微妙な表現をしたのは、ほかでもない。経済学としての『資本論』の分析への疑問ではないのだが、別の大問題が生じていると感じるからだ。

 第一には、その後の歴史の経過や、人類学、動物行動学などの新知識によって、人類という名のはだかのサルが、マルクスの予見のような「自由の王国」への入居をはたたすことができるような機能を、本当にもちあわせているのかどうかを疑いはじめたことだ。

 第二には、裸のサルそのものの愚行の数々が、自らの生存環境をも決定的に破壊しつつあるという、マルクスの予測をはるかにこえた悲劇的事態の進展である。

 それはさておき、マルクスの『資本論』における方法論を人類社会の研究という側面で理解すれば、市民個人の権利をまず重視して、そこから上昇して人類社会全体にせまるという考えもでてきてしかるべきだろう。ところが現在われわれは、実際には個人の思想上の権利をことごとく無視しつづけたエセ社会主義の崩壊を目前にしている。

 それでもこの際、あえてマルクスの方法論にみならって、電波の政治的本質を考えなおすというのも一興ではないだろうか。


第一章 「天動説」から「地動説」への理論転換
(1)奇妙な矛盾におちいる反体制派の「公平原則」合唱