『電波メディアの神話』(5)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業

「希少性神話」を隠れ蓑とした「公平原則」の欺瞞の支配は約半世紀つづいた。

 あたらしい神話への模索は、メディアの多元化、多メディア化、ニューメディアなどなどの表現で、一九七〇年代からしきりにかたられるようになった。最近の新造語はマルチメディアである。私は、これらを「希少性神話」と対照してひとまとめにし、「多元性神話」とよぶ。

「公平原則」の玉虫色の衣装は、一九六〇年代になると権力の意図とは逆の方の輝きを発することがおおくなった。または、反権力の側がすこしは成長し、玉虫色支配の建前の逆手をとれるようになったというべきだろうか。

 アメリカでは黒人や女性の公民権運動が「公平原則」を盾にとって、放送時間をよこせという要求をつきつけ、成果をあげるようになった。この運動の理論上の意味についてはのちにまたくわしく論じるが、玉虫色が衣装が逆の輝きにかたむきはじめると、権力はそれをぬぎすてる。神官はまた、あわただしくあたらしい眩惑の衣装を用意する。

 電波メディア関係について簡単にいうと、有線放送や衛星放送などでメディアの種類と数がふえた。メディアがふえるということは、すなわち言論の自由の可能性をひろげることだ。言論の民主化の条件が拡大したのだ――などなどという大変に楽天的な展望のあたらしい衣装である。

 このあたらしい衣装の最大の問題点は、メディアの所有関係が完全に欠落していることである。具体的にはこれから、日本が模範とするアメリカの実状を紹介しながら論じたい。基本となる問題点だけをさきに指摘しておくと、ここでも目にみえない電波メディアに特有の錯覚がはたらいている。

 まずはほかのメディアと比較すると、活字メディアには「希少性神話」は通用しない。つまりもともと多元だが、その活字メディアでも大手支配が強化される傾向にある。マスメディアは、高価な輪転機、放送施設などを所有する巨大企業である。そこでは、生産手段の私有という資本主義の根本問題が決定的な要素なのだ。しかも、電波メディアで多元化を理由とした「公平原則」廃止がすすむ場合には、あらためてスタート台の平等が確保されるわけではない。むしろ従来の地上波放送で資産、ベテラン・スタッフ、ノウハウを蓄積したブランドつきの大手メディアが、衛星やケーブルまで駆使して、堂々と体制擁護の社説放送をはじめることになるのだ。多元化を民主化の土台だと称するのであれば、まずは従来の地上波の使用権と同時に、長年の使用権の独占によってたくわえた資産を、電波主権者の市民に平等に分配するのが先決である。

「多元性神話」の役割は、「あいまいさ」をふりまきながら、この歴史的な清算作業をスリぬけることにある。つまりは「キセル乗車」まがいの詐欺行為にすぎないのだが、大衆欺瞞の手段としてはいささか高度である。「高度」というのは、どうやら著名教授たちの「多元性神話」支持の発言を慎重に観察すると、かれらのほとんどは別に権力に露骨にこびるつもりではなくて、実にすなおに「メディアの多元化が言論の民主化につながる」と思いこんでいるらしいからだ。つまり、私がここで「高度」というのは、私が批判する著名教授たちをまんまとだましおおせる程度の技巧という意味である。


第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者
(1)「公平原則」の霞につつまれたまま「再検討の時期」