『電波メディアの神話』(5-1)

第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者 1

「公平原則」の霞につつまれたまま「再検討の時期」

「多元化神話」は「希少性神話」との連続わざ、または、あわせわざとしてしかけられている。

 だから当然、すでにしかけられていた「希少性神話」または「公平原則」の玉虫色の裏をみぬく眼力と、まやかしのわざをはねかえす腰のつよさがなければ、最初から勝負にならない。「希少性神話」を奉戴したまま「公平原則」廃止に反対する論者の立場を囲碁にたとえると、「鶴の巣ごもり」とか「追い落とし」を典型とする「打って返し」をくう構図だ。

「打って返し」または「打って替え」とは、相手の石をとってもつぎの手でまとめてとりかえされてしまう石のならべ方、しかけのことで、政治的なかけひきのたとえとしても使われている。囲碁の場合には、この構図にはまってしまえば、もう打つ手がない。「まった」はゆるされない。読みがあまかったと反省し、その部分をあきめるしかないのである。しかけて成功した方は当然、してやったりとばかりに上機嫌になる。

 なにもメディア論にはかぎらないが、理論研究には「まった!」がゆるされるのだから、もとの構図にもどって考えなおすべきだろう。権威をたもつために過去のあやまりを訂正せず、結果として「打って返し」のしかけに市民をまきこんでしまうなら、二重の欺瞞行為となる。

 さて、こういう前提をさきにのべたのちに、手前勝手な議論の例としてあげるのはいささか気がひけるが、椿舌禍事件で渦中の人となった民放連の放送番組調査委員会の前委員長、清水英夫の発言の場合を例にあげて考えてみたい。椿舌禍事件がらみの発言の記録がいくつかあるからだ。ただし、私からみてのわるい例としてではない。清水の発言は最良の部類なのである。

 清水は、出版の出身で現在は青山学院大学名誉教授(言論法)であるが、やはり基本的にはまだ「公平原則」の「模範答案」に決定的な疑問を感じるまでにはいたっていないようである。たとえば、「電波の希少性を主な理由とした政治的公平原則は再検討の時期にきている」(『放送リポート』(94・1/2)という、スラスラした文脈の発言をしているからだ。また、青山がこう発言した鼎談の相手は、東京女子大学教授(ジャーナリズム論)の新井直之と立教大学教授(マスコミュニケーション論)の門奈直樹であるが、この二人も「希少性神話」の前提にたいしてなんら反論していないところから判断すると、やはり同様な状態にあるようだ。

 では、清水が「再検討の時期にきている」とかたった意図はどこにあるだろうか。

 清水はその後、『新聞研究』(94・2)の「椿発言とメディア/椿発言問題が残した課題」という座談会に筆頭格のゲストとして出席している。そこでは冒頭に発言をもとめられており、四点にまとめた「感想」の「第二の問題」のなかでつぎのような問題点を指摘している。

「放送における公正とはなにか、放送に限らずメディアにおける日本的な不偏不党の概念について、これまで十分な議論・分析がなされていなかったことが端無くも今回の問題で出てきた」

 この部分に関するかぎり、私も同意見である。清水はさらに別の箇所でこういう。

「放送法は、基本は昭和二十五年の法律であって、そこでいわれている『政治的公平』がそのまま現在に持ち込されている。それを不動の前提として議論をしていいのだろうかという気がします。しかし、そうではあっても、私は公正原則の即時撤廃には反対です。国家が公正さを監督することが、実は問題なんです」

 ここも一応、結論部分は私と同意見である。ところが、このように「公正原則の即時撤廃には反対」といいながらも、私とは議論の前提がちがっている。「希少性神話」の役割を見やぶっていないようなので、「連続わざにひっかからないこと」を条件にして「反対」を位置づけているわけではない。そのあたりが不明確なのだ。へたをすると「即時撤廃」ではないにしても、ズルズルと「打って返し」の構図にひっぱりこまれかねない。


(2)法学的な抽象用語だけで議論する世界の限界