『電波メディアの神話』(1-3)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

第一章 「天動説」から「地動説」への理論転換 3

国家による電波ジャックをおおいかくす「希少性神話」

 まず「錯覚」という言葉を頭のすみにおいて、現実をみなおしてほしい。

 すでに「法律は奇術の一種である」というマクリンの警句を紹介したが、奇術を見破るにはすくなくとも、まず最初からうたがってかかり、目をみはっていなければならない。最初から催眠術にかかったような状態におちいってしまえば、子供だましの簡単な手品のタネをみやぶることさえ不可能になる。

 電波を使用する際に免許が必要だというのは社会常識である。ところが、そういう社会常識や慣行とはまったく正反対に、電波はその自然の性質上、むしろおおくの物質的な財産とはちがって、だれかが独占的に所有することが不可能なものなのだ。電波を神棚に飾っておくことはできない。金庫にもおさまらない。財布にもはいらない。だが、設備さえあればだれでも発射できる。自然の発生の延長として考えれば一番わかりやすいだろう。ただし、みなが相談なしに一斉に発射すれば、周波数によっては混信がおきる。そこではじめて電波の自然的性質とは逆に、議長役の立場で国家の免許権を許容する理屈がでてくる。だが、事実経過はそうなってはいなかった。

 日本の場合にかぎっていうと、最初からいきなり「政府之ヲ管掌ス」とさだめていた。しかもこの条文は、江戸時代に伝来し、明治初年から実用化されていた有線の電信についての電信法の条文を、そのまま無線電信法がひきついだものだった。

 それでも戦前のスパイ団、ゾルゲらは、東京のド真中から無免許で極秘情報を無線電波にのせて発射した。フランスでは、政府の電波行政に反逆し、無免許ラディオ放送で逮捕までされたミッテランがいまや、大統領の地位にある。市民革命をへたフランスと、いまだに象徴天皇をいただく日本とでは、電波に関する市民の主権意識に決定的なちがいがあるようだ。

 さらには現在もなお、いわゆる海賊放送が世界各地の紛争地帯でつづいている。

 イギリスのホッブズ、フランスのルソーに代表され、アメリカ独立革命、フランス革命つながった思想に、自然権、自然法、社会契約説のながれがある。本書のこの第一部を「電波メディア不平等起源論」としたのは、ルソーが一七五五年に発表した『人間不平等起源論』にひそみにならってのことである。

 人間の生れながらの平等の権利をとなえる自然権、自然法、社会契約説の立場からいうと、電波のような性質のものに関して国家が免許権をにぎるには、国家と市民個人の間になんらかの同意にもとづく契約がむすばれていなければならない。ところが戦前の天皇制警察国家日本では、市民の柔順と無知をさいわいに、市民個人の同意をもとめることなく国家が最初から、だれにでもできる電波発射の権利を強制的にうばい、勝手に独占的に使用してきたのだ。

 戦後になって放送法にもりこまれた「公平原則」には、一定のはどめ効果があるにはある。しかし、これもあたらしい色なおしの神話にすぎない。「公平原則」の主たる役割は独占を維持しつづけるための隠れ蓑であった。現行放送法が成立した時には、NHKのラディオ放送しかなかったのだが、その独占を維持するためにアメリカ式の「公平原則」という口実が導入されたのだ。


(4)「基本事項」=「放送事業ハ公共的性質ヲ有スル」