Political Criminology

企業が人権の社会的責任を果たすとき

「社会的責任経営と生協の課題」生協総研レポートNo.45(2004年9月)掲載


「20年前、環境に関して方針を持っていた企業はほとんどありませんでした。しかし今日、環境問題は疑いもなく、企業活動の主流です。人権もそうならなくてはいけません。企業が人権について強い方針を持ち、しっかりとした実施計画を持つということは、リスク管理や企業イメージの保護そのものです。人権とは、企業活動にとって肝心要の部分なのです。」

(メアリー・ロビンソン国連人権高等弁務官、2000年4月。)

経済がますますグローバル化する中で、企業の社会的な役割はより重視されるようになってきた。規模の大小を問わず、どの企業も、地球規模で進行している事態に関わりを持たないではいられない。資源が地球規模で動いているということのみならず、情報も一瞬にして伝わる世の中である。地球の裏側で起こっていることも、何らかの形で製品や労働条件、顧客の満足度などに関わってくるのが自然だといえる。

企業の社会的責任(CSR)という言葉が企業社会の中で定着し始めたのも、こうした世界的な動きと無関係ではない。すでに環境問題については、さまざまな企業が取り組みを本格化させている。環境問題が企業イメージに大きな影響力を持つことを意識しているからに他ならない。

こうしたビジネスシーンの変化は、企業のマネジメントにも表れてきている。昨今の企業は、確かに「社会的責任」をマネジメントの中核に位置づけ始めている。多くのCSR部がマネジメント系の部署として設置されていることからもそれがうかがえる。

ステークホルダーとは誰か

企業の社会的責任という発想は、従来の株主重視型の企業観を変えるものだという指摘が、主に企業倫理(ビジネスエシックス)の領域でされている。企業は株主のために存在し、その利益追求を第一の目的としているという立場が株主重視型の企業観だとすれば、社会に暮らしているさまざまな利害関係者(ステークホルダー)に対する責任を果たすのだという企業観が、「企業の社会的責任」を主導しているというわけである。このステークホルダーの範囲については、「社会」をどう捉えるかによって、さまざまな考え方があり得るだろう。最も一般的に挙げられるのは、株主を含む投資家、従業員、顧客などであり、ある程度、従来から企業が配慮していた層と重なっていると考えられる。

しかし、もしステークホルダーがその範囲にとどまるものであるなら、「企業の社会的責任」とは、従来からある企業活動を根本的に変えるほどのインパクトを持つものではない。企業の目に見える範囲について、企業がある程度の配慮をおこなうのは、企業活動をおこなう上ではむしろ自然な流れである。

実際、よく指摘されるのは、日本の企業社会では社会的責任が伝統的に経営理念として根付いている、といった主張である。確かに多くの企業で、創業者が企業の社会的責任を説いていたという事例には事欠かない。

しかしながら、現在取り上げられている「企業の社会的責任」の議論を、その枠に押し込めて理解しようとすることには無理がある。今問題とされているのは、グローバル化が進む社会の中で、どのようにステークホルダーを見極め、企業活動の方向性を見定めるか、という実践的な課題である。ステークホルダーという概念は、本来、狭い範囲で特定できる層を意味していない。グローバルに考えるならば、地球社会に住むすべての人が、程度の差こそはあれ、ステークホルダーとして認識されてしかるべきなのである。だからこそ、企業活動の方向性も、必然的にグローバルな関心と呼応するものになっていく。そうしなければ、グローバル化する社会の中で、企業活動の意味を外部、すなわちステークホルダーに対して説明できない状況に陥るからである。

そうであるとするならば、「企業の社会的責任」を考える際には、まず誰をステークホルダーとして意識するかを戦略的に選び取らなければならない。逆に言えば、あらかじめ、どのような影響を意識するべきかということを、企業戦略的な観点から選び取っておく必要があるということになる。つまり、この場合、企業の社会的責任をどう捉えるかについての企業としての経営方針が先に定まっている必要があるということになる。

人権を社会的責任の指標に

従来、「企業の社会的責任」として考えられていたのは主に環境問題であった。環境問題に対する社会的な関心が広く存在していたとはいえ、それが企業の社会的責任を論じるトピックとなり得たのは、環境問題を経営の方針に含めること自体を、企業が戦略的に選び取ったことの影響のほうが大きい。ただし、それは一足飛びに実現したわけではない。

環境問題が企業の社会的責任として意識されるようになったことには、環境問題についての社会的な影響力を拡大させるべく、自主的な社会運動が広がったという要素を無視することはできない。この社会運動は、市民社会セクターが自覚的に企業の活動に関心を向け始めたことから生まれている。それは企業の社会的影響力が増すにつれ、必然的に伴ってきた社会の中のチェック機能である。そして、企業側にもまた、そうしたチェック機能によって社会の関心の流れを把握することができるというニーズが生まれた。企業イメージに影響するような社会的な声が、企業活動のどの側面に関心を向けるのか、ということを市民社会セクターからの批判によって、ある程度初期段階で予測し、そのリスクを最小限度に抑えることが可能になるからである。

同様に、現在各企業がそのような意識を強く持ち始めているのが「人権」の分野である。特に欧米では、人権に関する社会的な関心を十分に把握していないと、企業イメージに直接的な影響が出るという状況がすでに生まれている。少なくともこの10年で、企業は、人権の問題を社会的責任の一部だと認識するようにはなった。先進的な企業家たちの中で、「人権と企業活動は関係ない」と豪語する人はいない。言葉としての「人権」は間違いなく、企業活動の中で意識される問題となってきている。

このような意識が、市民社会セクターと企業の双方に生まれるようになった背景事情は、環境問題が取り上げられたときと様子が似ている。環境問題として深刻な問題になった事例が、実は人権問題としての側面も持っていたということもしばしばある。具体的な人権侵害事例に企業が関わっていることが明らかになり、それが実際の企業イメージに重大な影響を及ぼしたり、訴訟沙汰になったりしたことが、企業に「人権」に関するリスク管理を進めるべきとの認識を高めた大きな要因である。

ナイジェリアのオゴニ州で1996年、環境保護活動家のケン・サロウィワさんら9人が軍事政権により死刑を執行された。彼らは、同州で石油採掘に当たっていたシェル石油が軍事政権と共謀していることを告発しており、シェルがナイジェリア軍事政府に供与した賄賂をオゴニの先住民族に返還するべきであると主張していた。国際社会は彼らの死刑執行に強く反発し、同時にシェル石油に対して世界規模で非難の声が起こった。シェルは、当初非難に対して反論ないし攻撃をしていたが、後に態度を軟化させ話し合いに応じる姿勢を見せた。しかし依然として各国における石油採掘をめぐる同じような事件が、さまざまな企業を巡って展開されている。

コロンビアでは、武装した政府軍系の民兵組織が企業などに雇われ、労働組合員に対する嫌がらせや脅迫に従事している。そうした中、同国にあったコカコーラ社の工場で、労働組合活動家らが殺害されるという事件が起こった。この事件について、同社は、同国の労働者と連携する米国の労働組合から訴えられた。

アンゴラやシエラレオネなどでは、ダイヤモンドが産出される。こうしたダイヤモンドの採掘が、現地で活動する反政府武装勢力の軍事費調達手段となっている。そして、こうして仲買人の手に渡ったダイヤモンドが、各国の市場に出回っている。NGOがこうした状況を1998年に告発し、それを受けて2000年に南アフリカのキンバリーでこうした紛争ダイヤモンドの問題を協議するプロセスが立ち上がり、紛争ダイヤモンドを排除する証明書システムが導入された。しかし依然として、紛争ダイヤモンドが再研磨などで出回る可能性がある。

希少金属コルタンから精製されるタンタルは携帯電話のスタビライザーとして用いられる。このコルタンをはじめとする希少金属はコンゴ民主共和国付近で産出されるが、紛争地域の複数の勢力によって資金源として利用されている。こうした紛争希少金属は、二次、三次と各仲買人を経る中で原産がわからないように洗浄され、欧米の市場に流通する。

地元の環境に大きな影響を与えるような採掘や開発は、環境問題であると同時に、その利権をめぐって国家レベル、政治レベルでの争いが関わってくる可能性が高い。そこには人権問題を誘発する契機が多く含まれている。軍事政権や反政府武装勢力との関わりには、直接的な取引だけでなく、仲買人などが介在した間接的な取引もある。仲買人が関与する場合、サプライチェーンの統制は至難である。通常、企業は仕入先の情報を第一次サプライヤーまでしか把握していない。第二次、第三次とサプライチェーンが拡大した場合、そうした仕入先情報を十分に管理することは、個々の企業にとって事実上ほとんど不可能に近い。

一方で、人権侵害に直接加担している、という場合もある。これには、武器の提供や、部品、その他サービス等の提供などが含まれるが、その範囲は広い。特に、一般的な生活サービスに関係するような製品が、人権侵害に関わる場合には、製品の提供後のチェーンを含めて監視が必要になってくる。

小型銃器などは、分解して流通させることも可能なため、銃器としての管理のみでは不十分である。二次、三次で流通する銃器のうちかなりの量がロシアおよび米国製であるといわれている。

国際法は18歳未満の子どもが兵士として戦うことを禁じているが、世界には数多くの子ども兵士がいるといわれている。彼らの多くは、誘拐されたり、強制徴用されたりしており、前線やゲリラ戦などで兵員として実際に武器を持って戦う。この子どもたちが使用する武器は、さまざまな国から流れ込んできた主に小型の銃器などであり、そうした武器の流通が子ども兵士の利用を可能にしているという側面がある。ウガンダやコンゴ民主共和国、スリランカ、アフガニスタンなど、子ども兵士が生まれる背景事情には、武器供与と小型武器の一般への流通がある。

中国で死刑囚を処刑する前に使用される車体として、日本製の車が使用されているという。また、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権が、国内での弾圧に際して使用する車も日本製の車体であると言われている。結果的に人権侵害に使われることとなる車体だが、どの企業も、こうした使用法を十分に意識した対応策は持っていない。

インターネットを利用した行動が反政府活動として規制されるベトナムや中国で、特定のサイトの閲覧を禁止したり統制したりするためのソフトウェアを、米国のシステム開発会社が提供しているといわれる。結果的に、表現の自由の侵害や政治的自由の侵害に用いられるわけだが、知的財産権に関しては敏感なソフト会社も、公権力による人権侵害に用いられていることに対しては十分な説明責任を果たしているとは言えない。

こうしたさまざまな例が表面化したことにより、企業が「人権侵害」の問題を意識しなければならない、というニーズは出てきた。しかし、この企業の社会的責任をめぐる状況の中で、人権を核とするという捉え方は、多くの企業にまだしっかりと根付いていない。仮に名目として人権を取り上げている場合でも、実際にどのようにしてそれを実現するのか、という段になると具体的にどのようなことをすればよいのかわからなくなるようだ。この傾向は世界的に見られるとは言え、現在の日本の企業社会の状況は実は深刻である。

企業の社会的責任と日本社会

社会的責任投資(SRI)に関して日米英を比較した2003年6月の環境省の報告書を検討すると、日本も決して米英に比べて社会的責任投資に対する興味は低くはない。個人投資家に比べ機関投資家が影響力を強く持っている日本の市場においても、企業の社会的責任に対する意識が強まっていることが明らかになっている。ところが、日米英では、社会的責任のどの分野に関心があるかという問いに対し、「環境」に関する分野には同程度の関心が寄せられているのに対し、児童労働や強制労働の回避、差別や機会均等への配慮、労使問題や雇用などに関する分野については、米英に比べて日本における関心が著しく低い。

企業側が「人権」に関して問われることにとまどいがあるのと同様、投資家の側でも「人権」に対する意識が十分に持たれていないという実態があらわになっている。社会的責任投資というのは、本来、すべての投資行動において、企業の社会的責任をメルクマールとするべく働く指標であるが、特定の投資ファンド商品の性格付けに矮小化されてしまっている。そして、上記のような傾向を受けて、日本の社会的責任投資のファンドはいわゆる「エコファンド」に傾斜することになる。

各企業が現在制作している社会的責任報告書でも、多くの紙幅が環境への取り組みに割かれている。社会的責任報告書の一般的ガイドラインを提供している「グローバル・レポーティング・イニシアティブ」(GRI)でも、環境性指標、経済性指標とともに人権などの社会性指標を含んで「トリプル・ボトムライン」と呼び、三分野の収支尻を合わせることを提唱している。しかし、現実にこのGRIのガイドラインを用いて作られている報告書では、社会性指標に関わる説明は「コンプライアンス」の問題に傾斜し、人権の問題とされるものや労働環境などは、あまり明確な形では記述されない。また、各企業のCSR担当部署に聞いてみても、「うちは環境のみ」と断言されるケースが少なくない。その場合、人権という概念が企業の社会的責任の一部であることは認めつつも、自社の問題として考えることができない、という難関が立ちはだかっているようである。

しかし、そもそも環境問題だけを企業の社会的責任から分野を切り出すことは可能なのだろうか。これまで世界的に問題になった例は、たとえば日本の企業にとっては、業種的にも、地理的にも関係を考えにくいものだといえるのだろうか。逆に言えば、これまでの日本の企業の中で、人権に関する問題はどう処理されてきたのだろうか。

日本の各企業の中での社会的責任に関する担当分野が環境を母体にしていることは、重要なポイントである。これまで日本の企業は、概して「人権問題や労働問題は人事、労務、法務の担当」という縦割りで理解してきた。そのため、人権問題はステークホルダー重視の結果としてではなく、労務問題の延長に位置づけられてきた。そこでは、従業員の処遇の問題のみが意識化された問題として取り上げられることになる。そして差別問題として取り上げられることを除けば、「人権」に関して企業が意識するべき事情はほとんどなかったものと推測できる。その結果、社会的責任を担当する部署は環境が主で、人権はあくまでも傍流として付け加わるのみという体制が多くを占めることになる。

これは一面では、日本のステークホルダーの弱さを露呈しているともいうことができる。先に挙げた環境省の報告書でも、その傾向を見て取ることができる。逆に言えば、企業が、人権に関する問題を提起する先触れとしてのステークホルダーを認識するまでに至らなかったということになる。

現実には、そこには人権に関して活動する市民団体と企業との接点が極めて限られていた、という事情も影響しているかもしれない。環境省の報告書にもあるように、米英の投資家が日常的に有力な市民運動団体との関係を持っているのに対して、日本では伝統的に投資家の層と市民運動に関わる層との間には距離があった。その結果として、市民運動団体の動向などが企業の今後の方向性を決定する上で重要な意味を持つとは認識されてこなかった、という事情があるように思われる。

しかし、閉じられているかもしれない日本の社会の中では、仮にそのような傾向が見られるとしても、グローバルに展開してる現在の経済社会は、このような事態の把握そのものを問い直していると言わなければならない。実際、世界のどこからどのような形でステークホルダーの声が出てくるのかを予測するのは並大抵ではない。日ごろから、世界規模でステークホルダーの意識がどこに向けられているかを把握するように努めなければ、企業イメージのリスク管理は十分であるとはいえない。

それでは、企業が人権を守るとはどういうことなのだろうか。

コンプライアンスは人権を擁護することではない

コンプライアンスは、法令遵守と訳されることもあるが、法的、内部的なルールを守り、社会的責任を果たすことを指す。これには消極面と積極面がある。

消極面はルールの遵守そのものである。既存のルールを遵守すること自体が目的となる。合法性の担保は、社会活動を進める上で必要なことでもあるし、これを無視してよいということはない。そして、これまでに「企業の社会的責任」の分野で展開されている多くの「コンプライアンス」についての説明は、むしろこの消極面に着目したものである。しかし、それでも次のことを意識しておくのは極めて重要である。すなわち、ルールとは、社会的責任を果たす際に援用される道具に過ぎない。コンプライアンスにおいて、最も重要なのは、社会的責任を果たすということそのものである。そして、これこそが、コンプライアンスの積極面である。

本来、コンプライアンスを考える際には、技術的にどのようにルールを遵守するか、ではなく、どのような価値をどのように実現するか、ということを考えなくてはならない。逆にそうでなくては、無数にある国際的、国内的、そして内部的な規範の趣旨を理解することはできない。一般には、国内法規に従っていることが最優先と考えられているふしがあるが、企業の社会的責任がグローバルな価値として取り上げられている現状を考えれば、企業には国際的レベルの基準を十分に満たすことが求められていると考えなくてはならない。この国際的な基準については、2003年8月の国連人権小委員会で決議された「多国籍企業その他の企業の行動に関する道徳規範」(通称、Norms)の前文に、さまざまな先行する人権、労働、環境基準が挙げられている。さらに、国際労働機関(ILO)が定めている数々の基準、関係する国際機関などの決議などがあることを考えると、消極的にコンプライアンスを理解しようとしても、それが対象とする範囲は極めて広い、と考えなくてはならない。

既存の規範を遵守することに腐心するのは、結局、防御的な姿勢を示すだけのことにしかならない。本来、企業の社会的責任が目指すべきは「防御」ではない。それを超えて、より広い意味で「人権を守る」ということが目指されている。それが、状況に応じて、「環境」、「労働」、「人権侵害に加担しない」といった分野に分かれ、「コンプライアンス」という形式をとっている、というのが人権という観点から考えた理解である。「人権」というキーワードで、企業が社会的責任を果たしているかどうかを総合的に見据えるのである。

より根本的に言えば、既存の法令の遵守は、必ずしも人権の擁護を意味しない。たとえば、就労資格のない外国人を雇用しない、と宣言することは、確かに法令を遵守した行為であるとは言えるかもしれない。しかし、一方で、不当に低い額で労働に従事せざるを得ない不法就労外国人の労働環境をより厳しくする、一種の人権侵害を助長しているともいえる行為である。人権擁護の観点からは、就労資格のない外国人を雇用しない、ということではなく、外国人を含めたすべての労働環境を整えるべく、不法、合法とを問わず、適切な是正措置を講じているかどうかが評価されるべきであろう。その点に言及せず、単に不法就労者を締め出すというのは、人権擁護の観点からは許されない。

また、必ずしも民事上の不法行為などを構成するとは限らないが、従業員や顧客の人権を侵害している可能性が高い場合も考えられる。職場等での監視体制の強化は、法技術的には「合法」とすることが可能かもしれない。しかし、これは従業員の人権に配慮した措置と言えるだろうか。少なくとも、こうした場面での法令遵守は、単に解釈技術の上で「合法性」を得ようとしているだけで、人権擁護とは明らかに逆の方向性を示しているとしか言えないだろう。これらをコンプライアンスの名の下に認めるのは、企業の社会的責任を果たすものではない。

したがって、企業の社会的責任で言うコンプライアンスの性格は、受動的、防御的な遵守ではない。より積極的にどのように人権擁護のための措置を講じているかを内外に示すという、能動的なものである。

グローバルな市民社会の中の企業として

かつて、企業の社会的責任は、主に多国籍企業の問題であると認識されていた。しかし、現在では、その多国籍企業という概念自体が大きく揺らいでいる。典型的な多国籍企業は、各国に支社を持ち、多国籍の従業員を擁する企業というイメージであったろう。ところが現在の企業は、たとえば、ある国に本社を置き、ブランドを他国の企業にフランチャイズしていたり、本社は極力小規模とし、他国の企業と契約を結んで、下請け、孫請けを多用したりと、業務の態様にあわせてさまざまな形態をとっている。昨年の国連人権小委員会で採択された「Norms」も、多国籍企業のみならずあらゆる企業を対象としている。

このような企業の業務形態の変化は、グローバル経済の一面であるともいえる。したがって、グローバルな枠組みの中で、例えば主に一国で活動している企業についても見ていかなければならないし、企業自身もそれを十分に理解しておく必要がある。

市民社会もまた、グローバル化の流れの中で地球規模で展開をしている。経済のグローバル化に対してどのような評価をとるにせよ、NGOのような組織も、地球規模での活動をおこないつつ、国際的にさまざまな組織が連携している。かつて国が中心となって進めていた国際政治の場でも、今や企業とNGOとが、それぞれ別の立場ではあるが、関わりを強めている。

各企業がどのように社会的責任を果たしているかの評価は、こうした世界の流れの中で見極められる必要がある。一つの国の社会のみでの社会的責任とか、自社防衛的な釈明などは、このような流れの中では意味をなさない。

企業の社会的責任とは、美しい、整理された報告書を制作することでもなければ、従業員がどの程度ボランティアや社会貢献活動に従事しているか、といったことでもない。グローバルな流れの中にある現実の社会の中で、企業が「人権」という価値を守るために、どのように活動し、どのような成果を挙げているか、を実際的に問い直すことである。

人権もまた、ルールと同じく、社会的弱者が闘うための一つの道具である。したがって、究極的には、企業は、社会的弱者に対して、どのような配慮を払っているのか、というステークホルダーからの問いに直面していると考えるべきだろう。企業の社会的責任とは、「人権」であれ、「環境」であれ、企業が地球規模の市民社会の一員として合格できるかどうかを問われている、まさに試験なのだと理解するべきだろう。

そのような形で、今一度企業の社会的責任を企業の経営理念の中に位置づけなおすことが今求められている。

グローバルビレッジでの講演(2006年2月)

大和証券グループ本社のCSR対談(2004年)

CSR Consortiumでの対談(2003年11月)

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