Political Criminology

求められる国内人権機関

いわゆる「人権救済機関としての人権委員会」設置法案をめぐって

「月刊社会民主」No.685 2012年6月号


はじめに

 2012年5月現在、政府、民主党は、人権救済機関としての人権委員会を設置するための法案を準備している。すでに法務省のサイトでは、法案の概要が示され、この制度にまつわるQ&A他の関連資料が公開されている。しかし、未だ法案成立に向けた具体的な日程は明らかにはなっていない。

 人権委員会を設置する動きは、2001年の人権擁護推進審議会の答申に基づき、2002年に人権擁護法案が提出されたことで、具体化した。この法案は、ほとんど審議されないまま、2003年に衆議院解散に伴い廃案となったが、その後、野党時代の民主党が人権侵害救済法案を提出し、同党が政権についてからは、その実現に向けて党内および政府部内で検討が進められてきている。今回の法案も、この流れの延長線上にある。

 自民党政権と民主党政権時代を通じて検討が続けられてきた人権委員会の案だが、数々の批判に晒されてきた。特に、行政からの独立性の確保、対象となる人権侵害の定義の不明確性、メディア規制の問題などについては、さまざまな立場から批判が集中した。かえって人権を侵害しかねない制度だという批判である。

 これはある意味で、奇妙な議論状況である。そもそも人権委員会を設置するという提案は、世界各国に設けられている国内人権機関を日本にも設置すべきである、という趣旨に基づいたものであったはずだ。これまで、人権条約機関による日本の政府報告書審査の際や、国連人権理事会の場で、何度となく日本政府に対しては、国内人権機関の設置が勧告されている。また、国内でも、実際に人権侵害に苦しむ人びとが、国内人権機関の設置を待ち望んでいる。各国ではすでに十分機能している人権保障のための制度が、なぜ日本の場合には、かえって人権を侵害する、という逆の批判を受けるのだろうか。

 そのような批判は一部の偏った立場からのものだ、と断じてしまうのは容易い。しかし、ここには、そもそも重大なボタンの掛け違いがあるように思える。日本政府や主要政党は、法務省が主に担っている人権擁護施策を推進することこそが国内人権機関の役割だと理解している節がある。しかし、国内の被差別当事者や国際的な勧告が言う人権機関とは、そうした人権擁護施策の問題点を指摘し、実際に問題を解決するための具体的支援を担う機関であったはずなのである。だとすれば、人権擁護法案や、現在の法案の方向性は、はたして本来の国内人権機関を目指したものであるのか、という点が問われることになるのである。

パリ原則にいう国内人権機関

 国内人権機関の国際的な基準であるパリ原則は、国内人権機関の機能として、人権に関する政策提言を担う点を重視している。さらに、国内の法制度、実務や人権政策が国際的な条約や諸基準と合致するよう、各条約機関や国連の人権諸機関と連携することを要求している。

 つまり、国内人権機関は、国内法の体制を超え、世界人権宣言を中心とする国際人権条約の体制の中に位置づけられることで、各国の人権保障体制や政策に対する監視機関として機能するのである。

 こうした性格を反映し、国内人権機関には、立法によって行政機関からの高い独立性が求められる。予算についても、行政機関の都合によって介入されないよう独立していなければならず、完全に独立した執行権限と、事務局が設けられなければならない。また、立法府に対しても、行政府から独立して情報を発信することになる。さらに、条約機関の政府報告書に対しては、政府としてではなく、独立の立場でコメントする権限を持つことになる。

 このパリ原則については、国連人権高等弁務官事務所の下に各国の国内人権機関の国際調整委員会が設置されており、そこで原則との整合性が審査される。そして、国内人権機関がその役割をしっかりと果たすことができるかどうか、それだけの独立性が確保されているかについて、制度設計を精査されるのである。  ただし、ここでいう独立性とは、本来は、形式的な独立性のみをいうのではない。最も重要なのは国内人権機関の機能を果たす上で、実質的に独立が確保できているかどうか、という点である。それについては、どのような人材が国内人権機関の委員として、あるいは職員として採用されているかが重要な関心事項である。パリ原則では、国内人権機関は、さまざまなマイノリティが生活している社会の多元的構成を反映した人員配置を保障するべきであるとしている。すなわち、人権活動の経験を持つ被差別当事者や支援者が国内人権機関に多く関わるべきであるという態度を示しているのである。この点では、委員の選任プロセスにおいて、立法府の同意といった形式的な選任手続き以外にも、できるだけ社会一般の意見を得ながら多様な人材を確保できるような独自の仕組みを考える必要がある。

現在の法案の概要に見る問題点

 そうした目から、現在検討されている法案を見てみよう。法案の概要によれば、まず、人権委員会はいわゆる国家行政組織法第三条の委員会として、法務省の外局に位置づけられている。法務省には、刑罰を扱う刑事局、刑務所や拘置所、少年院などの刑事施設を扱う矯正局、入国管理政策を担当する入国管理局など、人権を制限、侵害する危険性が高い部局が集まっている。パリ原則の趣旨から言って、国内人権機関が最も独立していなければならない省庁だと言えよう。そこの外局と位置付けることは、極めて危険である。

 しかしそれ以上に、いわゆる三条委員会は、行政庁としての位置づけを前提とした制度であるため、その性質上、既存の法体制の妥当性の判断をする立場にない。パリ原則が求める、国際的な人権基準に基づいて国内の法制度や手続き、実務を監視するという根拠をそもそも持てないのである。これは三条委員会であることに伴う制度的な限界である。

 この点は、当初検討されていた内閣府設置法第四九条に基づく内閣府の独立委員会であっても事情は変わらない。つまり、三条委員会であれ四九条委員会であれ、行政庁として設置される限り、国際人権基準に沿った人権の定義を採用することは難しくなってしまう。

 それを反映して、法案の概要では、目的が「人権擁護施策の推進」とされている。国内人権機関が果たさなければならないのは、人権の促進であって、政府の人権擁護施策の推進ではない。むしろ、人権の観点からそのような施策が妥当かどうか、国際基準などに照らして判断し、改善を模索することが本来の目的である。法案は、本来監視すべき部分を不問に付してしまう構成を採っているのである。

 この点を克服するためには、国内人権機関を、そもそも行政庁と規定することに無理があることを意識しなければならない。国内人権機関は、むしろ行政を監視する機関である。これは、そもそも人権が、国家の法制度をしばり、個人に対する権力作用の行きすぎを是正させるためにある概念であることと関係している。かつての人権擁護法案も、今回の法案の概要も、人権侵害を、基本的には私人間の違法行為として認知している。しかし、人権侵害のそもそもの典型例は、法制度による個人の権利の行きすぎた制限である。人権とは私人に対して使われるよりも、まず公権力の所在に対して、その権力作用を抑制させるために働く原理でなければならない。

 本来、公権力が法制度により個人の権利を抑圧していることを示すはずの人権侵害という概念を、法案は私人間の争いごとに矮小化し、すり替えてしまっている。このすり替えは、実はこれまでも法務省を人権擁護を担当する省庁とすることで、意識的に行われてきた論理構成である。明らかに、一連の法案では、「人権」の用語を公権力がその根拠とする法制度自体に対抗して用いることを避けてきた。そのために、かえって新たな取締機関であるかのような構成を見せてしまっている。これでは百害あって一利なしである。

 人権をめぐる誤解というかすり替えは、日本の人権状況をこれまで世界の水準からかけ離れたものにしてきた元凶である。国内人権機関を設置する機会に、このような状況をしっかりと正すべきであろう。まずは、国内人権機関を、法制度および公権力の監視機関として位置づけることが急務である。

 なお、法案は、パリ原則が要請する独立性に関する他の要素も十分に満たしていない。予算についても独立した予算枠が確保されるだけで、三条委員会である場合は、行政庁の判断で予算の制限を加えられる可能性は大きい。また、独立して職務を遂行できるための職員体制も整っていない。特に法務局長や地方法務局長に事務を委任できるとした規定は、明らかに内局ラインを流用することになり、外局としての独立性すら失われることになる。

 委員の選任に関しても、法案は人格識見を有する者という要件にとどめ、選任を国会同意人事とするのみで、人権活動の当事者や経験者を加えることや、社会の多元的構成を反映させることを要件としていない。選任プロセスへのいわゆる「市民社会」の参加(ここで想定されているのは、人権団体や活動家のこと)や意見聴取の機会は今のところ考えられていないようである。さらに、重大な被差別当事者である外国人の参加に関しては、Q&Aにおいて当然の法理を持ち出してその可能性を否定している。国内人権機関においては、被差別当事者の参加が非常に重要であり、その点を考慮しないまま現在の問題の多い法慣習を踏襲するのは、重大な懸念事項である。

「望ましい国内人権機関」

 以上の問題点を踏まえた上で、本来目指すべき望ましい組織形態を考えた場合、どのようになるだろうか。これについては、最近、研究者を中心としたグループである国内人権機関設置検討会が「望ましい国内人権機関ー『人権委員会設置法』法案要綱・解説」を発表している。これには筆者も関わっており、以下、それに沿って望ましい国内人権機関の在り方を述べてみる。

 まず、人権委員会の位置づけだが、公権力に対する監視機能を持つべきであることを考えると、行政機関の一部ではなく、しっかりと他の公的な監査機関と同様の構造を採るべきであろう。その場合、現在の国家機関で言えば、会計検査院と人事院がそれにあたる。この両機関とも、内閣の所轄の下に置かれるが、内閣の指揮監督は一切受けない。行政組織からはほぼ完全に独立することになる。制度的には、この形態が最も適切である。行政を監視する機関としての性格も、これで明確になる。

 同時に、この人権委員会は国連や条約機関との国際協力義務を直接に負う。現在、各行政機関は、原則的には外務省を窓口として国際機関との連携を行う形態を採っているが、独立した監視機関としての人権委員会は、そうした他の省庁を通さずに直接連携をすることになる。したがって、その行動基準は、必然的に国際的な人権基準に置かれることになる。また、国連や条約機関などからの勧告のフォローや、将来個人通報制度ができたあかつきにはそれに伴う条約機関との交信などは、人権委員会が直接行うことになる。政府が条約機関に提出する報告書は、行政府が提出しなければならないが、人権委員会はそれに対して独立の立場から意見を出し、場合によっては独自の報告書を提出することもできる。

 このように権力監視機関としての機能を重視した場合、具体的な人権救済の手続きをどう進めるかという問題が生じるが、個別事例についてもできるだけ取り扱えるようにするべきである。しかし、国内人権機関は、司法機関ではなく、取締機関でもない。問題となった行為の違法性の判断よりも、実際に被害を受けている当事者の救済を主として対処を進めるべきであろう。できるだけ、広い範囲の問題に対処できるようにするべきであり、厳密な定義のあまり門前払いを助長するようなことがあってはならない。

 調査手続きも原則的には、法案と同様、任意調査に限定する。ただし、公務員に対しては応答義務を課し、さらに公権力事案に関しては、是正に向けた措置として、事実の公表といった措置や、出された質問や勧告への回答期限を設けるなど強い措置をとれるようにするべきである。

 実質的な独立性を確保するためには、十分な資質を備えた委員が必要である。実際、他国でも、委員人事への政治プロセスの介入が問題を引き起こしている例は多い。委員の選任については、社会の多元的構成を反映するという規定を含めるほか、選考基準を策定、公表し、選任プロセスに対する意見募集手続きを制度化するなど、広く一般の意見を得られる制度を用意するべきである。

おわりに

 日本に国内人権機関を設置するということは、人権活動に携わってきた人びとにとっては悲願である。しかし、現在の案は、人権の概念を大いに歪めてしまっており、このままでは正常な、役に立つ国内人権機関ではなく、下手をすれば新たな取締機関を作り出してしまう危険な方向を示している。最も問題なのは、人権侵害を私人間の争いの延長線上で捉えていることである。そうすることによって公権力が制度として行っている人権侵害を問えなくしている。

 現在の法案に対する批判の中で、「表現の自由を侵害する」という主張がある。他国であればあり得ないこのような主張が大手を振ってまかり通っているのは、まさに現在の法案にあるような人権侵害の歪な理解が浸透してしまっていることの裏返しである。実際、このままでは、人権を侵害しかねない人権機関が出来上がってしまう。これは、長年にわたる、日本の人権教育の貧困のつけでもある。

 一言で言うならば、本来、現在のような法案が提出されたときに、その妥当性に疑問を突き付けるべき機関こそが、国内人権機関である。国際基準を意識し、それを日本社会の風土の中で具体的に実現していくための力。その拠点となるべきなのが国内人権機関である。抜本的な仕切り直しが望まれる所以である。


関連資料

望ましい国内人権機関−「人権委員会設置法」法案要綱・解説)(2011年12月10日)

共同通信「識者評論」2012年5月

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