Political Criminology

「共謀罪」を市民社会の中で考える

-越境的草の根ネットワークを断ち切らせないためにー

「やっぱり危ないぞ!共謀罪」樹花舎
2006年10月20日所収、pp127-136


捜査の口実として使われる「共謀罪」

2001年9月21日未明、アルジェリア国籍のロフティ・ライッシさんは、英国で逮捕された。突然銃を突きつけられ、妻と弟と一緒に車に押し込められたのである。2000年に成立した反テロ法にもとづく措置だった。弟は2日後、妻は5日後に釈放されたが、本人は7日後に釈放された直後、今度は米国への送還令書を根拠に再逮捕され、最厳戒囚としてベルマーシュ刑務所に収監された。この送還令書が出された理由は、米国政府が、彼が9.11のパイロットのインストラクターだったこと、またアルカイダとの「共謀」があったことを証明できると主張したためである。この証拠は、密かに入手した会話記録、電話盗聴、そしてビデオ録画であったといわれるが、実際にはそのような証拠が送還令書の発布の際に用いられたわけではなく、些細な免許手続規則違反が理由であった。ロフティ・ライッシさんは、結局その後、裁判官の手で無実が晴れるまで、5ヵ月を獄中で過ごすこととなった。

越境組織犯罪条約の批准のための法改正と称して、日本で「共謀罪」の導入が審議されている。共謀罪は、犯罪の実行を相談する行為自体を処罰しようとするものだが、実際には何らかの別の犯罪の容疑者への捜査を促進するために利用されることが多いようである。実際、米国などでは、司法取引などの際の材料として、共謀罪がよく利用されているとも指摘されている。

共謀罪を導入しようという議論のきっかけになったのは、世界的に検討が続けられていた組織犯罪対策だった。先進国首脳会議(G7)などの枠組みで長年協議され、国連の犯罪防止会議などでも取り上げられた組織犯罪対策については、ここ十数年、国境を越えて活動する犯罪組織に対して各国の対応の足並みを揃えようという動きが世界的に広がっている。日本は、特に組織犯罪に対する規制が弱いと批判され、国際的な組織犯罪の「抜け穴(ループホール)」と化しているという指摘が、主に法執行関係者から出されていた。

「組織犯罪対策」から「テロ対策」への転換

しかし、この各国の立場は、世界情勢の推移を受けて、徐々に変化していく。従来の組織犯罪対策という側面が徐々に転換し、より大きな安全保障の外交政策との関連が強調されるようになったのである。その大きな転換点の一つは、いうまでもなく、9.11であった。この時期の前後から、「組織犯罪対策」自体が、国際的にも「反テロ」の文脈でも語られるようになったのである。  ただし、実際にはそれ以前から、国際的な安全保障政策の一環として「組織犯罪対策」を位置づけようとする動きは存在した。米国は、コロンビアにおける「麻薬戦争」などを通じても、「戦争」概念と「組織犯罪」概念を結びつける方策を長年とっており、国際的な犯罪対策に対しては軍事力を用いる可能性を常に備えていた。また、そのことは国内的な捜査活動の活発化を促し、国内諜報活動ともいえる組織犯罪対策立法としてのRICO法(Racketeer Influenced Corrupt Organization Act)を生んだのである。国連犯罪防止会議での議論も、この米国での動きを反映するものであった。したがって米国の動きを見る限り、米国の安全保障政策と組織犯罪対策が統合されていくのは、必然的だったということもできるだろう。

9.11は、こうした米国での安全保障的な犯罪対策の流れを一気に世界の主流へと押し上げることとなった。そして、軍事力と組織犯罪が、公式に結び付けられたのが、「反テロ戦争」の宣言であった。米国は、「反テロ戦争」で身柄を拘束した人びとを、従来の刑事手続の権利保障手続から除外し、一方で、戦闘員に対する権利保障を定めたジュネーブ諸条約にも拘束されないと宣明してきた。連邦最高裁による違憲判決を受けても、依然として軍事力による解決をあきらめてはいない。

「反テロ」という文脈には、国境を越えた活動に対する、国境を守る立場からの応答という側面がある。いわば近代以来の「ネーション・ステート(国民国家)」の軋みがそこに表れているのである。国境を管理する入国管理政策は、特に、その影響を直接的に受けた。世界各国で、国境線ないしそれ以前の段階での外国籍の人びとの排除が継続して行われており、そうした施策を「反テロ」の目的のもとに正当化している。

「反テロ」を口実にした人権制限

2006年通常国会で入管法改訂が成立し、「テロリスト容疑者」の国外退去の制度が新設されたのも、こうした動きと無縁ではない。本来、刑事事件として厳密な立証が必要なはずの「テロリスト容疑者」の特定を行政手続だけで可能にしようとすることと、それを国境線の水際で「外国籍の人」を対象として乗り切ろうとするところに、そうした意図が見て取れる。

各国の刑事手続は、刑事法や国際人権法の活発な動きによって、当局が恣意的に左右することが難しくなっている。そこで、そうした権利保障手続が弱い行政処分で対処しようとする発想が生まれてくる。だからこその入管法改訂である。この発想は、刑事手続についても、厳密な規制がかけられている処罰の部分よりも、むしろ行政の裁量が広い捜査が可能な範囲を拡大する方向へと向けられる。実際に処罰できるかどうか、ということよりも、当局が必要だと考えた際に自由に捜査が行えるかどうか、ということのほうが問題なのである。

「反テロ」を正当化事由にするかぎり、現代の世界ではほとんどの権利制限が許されるし、捜査活動に対しても抵抗が排除されるようである。9.11以降顕著となったこの傾向は、現在の多くの治安対策を、「反テロ」の口実の下で大きく進めることになる。共謀罪の捜査でターゲットして浮かんでくるのは、たとえば入管法改訂とも関係する外国籍の人びとであったり、国内だけの対策ではカバーしきれない国境を越える活動をする主体などである。そうした越境的な主体も、当局の方針に沿ってい場合には問題にされないだろうが、もしも当局の方針と相容れない行動をとることになった場合はどうなるか。その際は、「越境犯罪組織」にあたる可能性があるとして、捜査の対象になる可能性が高まる。

実際、世界各地で起こっている政府の手による人権侵害の多くは、政府の一方的に決め付けによって、その被害者に対して「犯罪性」が付与される場合がほとんどである。だからこそ、犯罪の認定にあたっては、国際人権基準に則った厳密な権利保障手続がとられなければならなかった。しかし「反テロ」政策は、政府と異なる意見の持ち主の権利を制限しようとする際に、人権保障が充足されているかどうかという審査を、できるだけ捜査当局の手間にならないように、簡略化させようという方向性で作り上げられている。この「反テロ」を口実にしたあまりにも広い範囲にわたる人権無視の態度が、現在の社会の人権水準を著しく後退させているのである。

「テロリスト」という仮想敵を表に出すことによって、捜査当局の自由な活動を優先させる体制が整う。かつて組織犯罪対策の中で語られていた多くの施策が、「反テロ」の名の下に統合され、捜査当局の権限強化への著しい傾斜をなしている。そして、この「テロリスト」等のラベルを貼るのは、捜査当局の恣意性によるところが大きいのである。

当局の狙いは捜査範囲の拡大か

そうした目から見ると、共謀罪が本当に目指しているものが見えてくるようにも思える。共謀罪は、それ自体として処罰を目的とするというよりも、当局の必要に応じて捜査できる範囲を拡大するために構想されている面が強い。そして、その必要性を導くきっかけとなるのが、国際的な協調による組織犯罪対策であり、それが拡大された「反テロ」の文脈なのである。この文脈を、現在事実上主導しているのは、米国であり、だからこそ、RICO法などによって隠密捜査や盗聴捜査を可能にした米国流の捜査との連動が意図されているのが、条約が目指しているところである。日本もこうした流れには、主体的に関与してきている。現在問題となっている共謀罪の導入は、まさにこの世界的な傾向への日本の捜査当局としての対応であると考えられるだろう。

「反テロ」対策への配慮が加速させたのは、捜査当局による「国際的な」活動への関心である。九〇年代からしきりに捜査当局が協調してきた「国際化」とは、捜査当局の捜査技術の国際的な連携のことであった。国際化が必要だとされたのは、国境を越えた犯罪組織の活動に対抗するためだったのだが、「反テロ」という口実によって、必要性はさらに強まったわけである。

「共謀罪」が具体的に問題にしなければならないのは、この条約との関連でいえば、国外の「テロ行為」に関与した疑いのあるターゲットを捜査する権限である。冒頭にあげた事例は、その捜査が、確たる証拠がなくても、一方的な政府間の申し入れだけである程度可能になることを示している。

草の根ネットワークが監視対象に

こうなると、他国で非合法化されている組織の構成員ということ自体が、共謀罪の対象とされてしまう可能性も出てくる。そうした組織の実質的な支配権やそもそもの存在の有無にかかわらず、どこかの当局が、名指しで容疑者の引渡しを要請すれば、自動的に手続が進行することがあり得ることになるのである。しかも、どの国で非合法化されているのかは、当該国の恣意的な外交判断に委ねられることになりかねない。

グローバルな現代社会の中で、他国と関係を持たずに暮らすことはほぼ不可能である。特に市民同士の草の根のネットワークは、それぞれの地域にある組織による相互に自発的な連携に拠り立っていることが多い。共謀罪は、こうした国際的な規模で広がる組織同士の連携を問題視し、監視対象にする傾向に拍車をかけるだろう。

NGOをはじめとする市民団体は、本来的に国境を越えた活動を視野に入れている。その意味で、国境の枠にしばられた国家当局の発想にはなじみにくい。グローバルな現代社会では、一国のみに限定された活動というのは、むしろ難しいとすらいえる。現地での活動にしろ、現地へのアクセスにしろ、地元で有力なネットワークを持つ団体と協力するのが最も効果的であるというのは、なかば常識である。しかし、そうした現地の団体は、草の根の活動に従事するため、当局とは異なる意見を持ちやすいし、場合によっては敵視されたり、非合法化されることもある。そうした団体との協議や交渉そのものが問題視され、捜査の名目で監視下に置かれることになると、結局は市民活動を制限し、抑制することになってしまう。

共謀罪の新設が提案されたことで、NGOや市民団体が従来の枠を超えて危機感を募らせたのも、国際的につながった活動を展開しているというリアリティから生まれた感覚である。共謀といった行為の当否を捜査するためには当該団体内部の協議の詳細を調べる必要があるが、それは政府と異なる立場で活動するNGOのような組織に対する恣意的な干渉となりがちである。政治的意見の自由、表現の自由、結社の自由などに対する侵害行為ともなる。前の事例であげたように、確たる根拠もなく単に政治的な意思だけで身柄拘束をともなう捜査が許されるならば、共謀罪は明らかに市民活動に対する弾圧として利用できるもの、ということになる。

各種のNGOをはじめとする市民活動への参加は、健全な市民社会の条件の一つである。しかし、共謀罪は、そのようにして参加した人びとの内心の自由を捜査当局が問い直すような事態を生みかねない。実際に参加したり、協議に加わったりする場合は、録音やその他の記録に依拠するしかない。しかし、そうした記録は盗聴や通信傍受、隠し撮り、隠密捜査などを経由しないと入手が困難である。NGOや市民団体を相手に、こうした捜査手法を講じることは、それ自体が大きな問題である。もしも共謀罪がそうした捜査を正当化する根拠となるのならば、そのような法制度を許すことはできない。

取り調べの不透明性という大きな問題

しかも、もう一つ重要なことがある。現在の日本の刑事司法は、依然として自白偏重主義に基づいており、代用監獄である警察留置場での拘禁中に自白を引き出し、それを根拠に裁判が行われる。したがって、共謀行為のような、当事者の意思が重要な要素となる状況を立証するためには、その場にいた人びとの証言を集めて立証するという手順が、警察留置場という閉じられた空間の中でおこなわれることになる。身柄の取調べが密室でおこなわれているという不透明性は、日本の取調べの信頼性を著しく低くしているのであるが、これは未だに改善がされていない。取調べの録音、録画すら拒否された状態である。これでは、共謀罪のように主観的な証言によらなければ立証ができない事件を調べるための準備が整っていないというしかない。まだ起こってもいない、したがって具体的な被害者もいない状況で、当局の恣意的な判断のみで、事件が作られてしまう危険が極めて大きい。

共謀罪の導入に関しては、議論が刑事法としての整合性や条約との関連に焦点を当てられているように見えるが、実際に問題点を考える場合には、それが適用される現場のことを考慮する必要がある。かつて労働団体や市民運動団体が、公安調査庁の調査対象とされていたという文書が明らかにされた。その文書には、調査対象として、アムネスティやグリーンピースなどの国際的なNGOも含まれていた。当局が、潜在的な調査対象として、国際的な市民運動をターゲットにしていることの表れである。市民運動に対して共謀罪を根拠に捜査がおこなわれること自体、日本社会に市民運動を根付かせようという試みを無にするような行為である。しかし、その危険はない、と政府当局が繰り返しどのように説明してみても、そうではないことを世界各国、あるいはこれまでの日本社会の経験が証明してしまっている。

深刻な人権侵害をもたらす「共謀罪」

市民運動の中でおこなわれる会議などが常に監視されるとすると、自由な活動の契機は失われる。しかし、共謀罪は、まさにそうした捜査を呼び込むものである。実際に、海外でも共謀罪は、最終的な処罰を目指すというより、当局が一方的に容疑があると考えたターゲットを捜査し、逮捕拘束するための口実として利用されている。市民運動をおこなっている立場としては、そうした容疑の一方的押し付けを可能にするような法制度を作ることこそが、最も危険だということになるだろう。

「反テロ」を旗印とした人権への制限の広まりは、治安対策全般にその対象を広げてきている。人権が侵害された際に声を上げるべきなのが市民運動である。その市民運動自体を抑圧する武器として、共謀罪は重要な役割を果たし得るかもしれない。そのような武器を、政府当局に与えてはならない。

共謀罪の新設は、日本の現在の法制度の下では、極めて深刻な表現の自由の侵害その他の人権侵害をもたらす危険性がある。越境性を要件としようとも、また犯罪組織の明確な関与などを要件としようとも、「反テロ」ないし組織犯罪対策の文脈で、認めるべきではない。

寺中 誠

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