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| 「司法反動」下の労働裁判闘争 ……東京争議団結成25周年を目前にして…… [1985.11.22-24.東京地方争議団共闘会議 第24回総会議案書 第4章「分野別総括(その1)] 二、司法反動攻勢の概略……独占と権力の総反攻…… |
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1.前史……レッド・パージ情勢下…… 戦後司法反動の出発点は、ァメリカの反共世界戦略との関係で、トルーマン・ドクトリンの発表された一1947年初頭ないしは1949年のレッド・バージ、1950年の朝鮮戦争下における半軍事支配下の状況に求めなくてはならないでしょう。 1947年8月には三淵忠彦初代最高裁長官か、「国民への挨拶」を発表し、新憲法下における司法のあり方を強調しました。この長官以下の15人の最高裁判事は、内閣が設置した最高裁判所裁判官任命諮間委員会の答申にもとづいて任命されていますが、同諮問委員会は、この1回限りで廃止されました。 1949年1月1日付で刑事訴訟規則が施行されています。同215条で、「公判廷における写真の撮影・録音又は放送は裁判所の許可がなければ、これをすることができない」とされました。それまでは、傍聴制限や法廷警備もほとんどなく、取材活動も自由だったのです。この刑事法廷にはじまった「規則」による司法反動化の手段は、憲法第77条に定められた最高裁の内部規則制定権を根拠とするものですが、同じく憲法に定められた裁判公開、言論・表現・結社の自由等の基本条項との低触をまぬかれません。本来は司法権の独立、その中心となるべき個々の裁判官の独立と良心の自由を守るための規則制定権が、最高裁自らの手で、裁判所から自由の新風を開め出す手段に逆用されたのです。 しかも、その規則をも乗り越えて、1952年1月25日には、裁判官会同での申し合わせによるものと称し、「マル秘通達(警備方針)」が発せられました。法廷秩序の維持に名を借りるこの越権行為は、以後ますますエスカレートすることになります。 規則制定権そのものについても、他ならぬ最高裁の規則制定諮問委員会規則と裁判所公文方式規則があります。訴訟当事者その他一般国民に関係のある事項、または重要な事項に関する規則は、規則制定諮問委員会に諮問し、かつ官報をもって公布しなげればならないことになっています。ところが、この諮問すら行われていないのです。このような、手続き上も違法不当な規則が無効であることは、いうまでもありません。その上に「マル秘通達」によって、裁判官を拘束し、その「独立」の訴訟指揮権を通達通りに振わせて、結果としては無法の中央集権支配を実現しているのですから、まさに奇想天外の手品です。 なお、刑事訴訟規則と同旨の民事訴訟規則は、1956年6月1日から設けられましたが、ここではさらに進んで、速記も裁判長の許可を要することとされました(山内道生『労働法律句報』1978.11.10.ほか)。 欧米諸国の法曹界には、フィレンッェ・ブロジェクトと呼ばれる共同研究の運動があります。その中心人物のカペレッティ教授は、一般大衆が司法救済の権利を認識しにくい状況にあることを指摘しており、共同研究発表の総論をなす『正義へのアクセス』(有斐閣)という共著の中で、その状況をこう要約しています。 「複雑な訴訟手続、こみ入った書式、おどろおどろしい法廷、それに横柄な裁判官と弁護士、これらに当事者は当惑し、見知らぬ世界の囚人さながらである」 われらが労働弁護士は、決して「横柄」ではありませんが、相手方はしかりです。ともかく全体として、いいえて妙ではないでしょうか。そして日本では、建物ばかりが「おどろおどろしい」石の砦と化す一方で、ますます手続きも書式も、複雑かつ膨大にふくれ上っているのです。 主人公である国民は、知的ェリートであり、かつ、膨大な法体系を操つるテクノクラートである法曹資格者に、下から、オズオズと正義の裁きをお願いすることになっています。しかも、労働事件といえども、事件の進行は基本的に個々人の私的な生活領域を含むものとならざるを得ません。経済的には弱者で被支配者階級の一員である個々人が、国家の支配階級から受けた不法行為について、他ならぬ国家の機関に救済を願い出るという矛盾に満ち溢れた構造になっているのです。 当然、わたしたちの場合、当事者たる労働者は、裁判官に対して、卑屈に振舞うよう強要されざるをえません。そして、そこにこそ、さきにふれた裁判官の訴訟指揮権が、まさに法外かつ過大な効果を発揮する基盤があるのです。 しかも、憲法上の文字面による「独立」の身分保証と裏腹に、団結権も団体交渉権も団体行動権も奪われ、実質的には言論の自由さえ行使しえない個々の裁判官の実態があります。裁判官会議による運営という裁判所法の定めも、完全に形骸化しています。そして、何ら反抗の意志を示さない裁判官の会同・協議会における「申し合せ」という形式で、完壁な司法独裁権が確立し、その完全犯罪振りを誇っているわけです。 2.1970年代反動の必死の布陣わたしたちは1960年代の闘いで、それらの反動攻勢を一定程度はねかえしたのですが、その間にも、独占と権力の手は、ゆるんでいたわけではありません。1966年末の労使関係法研究会報告書と、それに呼応して1年半の準備の上で出された1968年6月10日制定の、裁判所庁舎管理規定が、その現われです。 つづく1969年3月25日、西郷法務大臣が、「あそこ(裁判所)だけは手が出せないが、もはや何らかの歯止めが必要」であるとして、攻撃の狼火をあげました。法廷警備も「1970年安保」を利用しつつ強化されました。 長沼事件では自衛隊の合憲性が問われていましたが、最高裁は1969年に、法務省のイデオローグで高検検事だった平賀健太を、札幌地裁所長として派遣しました。平賀所長は長沼事件担当の福島裁判官に、口頭、手紙などで、圧力を加え、これが、いわゆる「平賀書簡」事件として、平賀所長への注意処分、両裁判官への訴追、政府側の福島裁判官忌避、さらには福島裁判官が所属していた青年法律家協会(青法協)攻撃へと発展しました。現在、福島裁判官は「家裁送り」と通称される島流しの眼に会っています。 1971年には、青法協会員の宮本裁判官再認拒杏、阪口修習生罷免、裁判官新任拒否と、全面的なアカ狩り状況が展開されました。 労働裁判との関連でみると、とりわけ、労働委員会制度への敵意が露わになっています。前述の緊急命今に関するデータで明らかなように、戦後30年間に却下がたったの1件であったものが、1975年以降、却下10件と激増しています。凍結期間の長期化と相侍って、独占と権力の側が、緊急命令と労働委員会制度そのものの破壊ないしは抜本的な変質を狙っていることは明白です。 日経連=経営法曹会議は、1976年に欧米視察団を派遣し、「西ドイッの労働裁判所」をモデルに選んでいます。職業裁判官を中心とし、左右に各1ないし2名の労働者側・使用者側素人裁判官が加わるのが、西ドイッの制度の特徴です。現在の日本でも、都労委の会長に元裁判官が送りこまれ、中労委にも労働省高級官僚OBが配置されるようになりました。事態は、すでに着々と進行しているのです。 以上のような1970年代以降に表面化した反動攻勢は、政治的にはアフター・ベトナムを意識しつつ、革新都政・県政・市政等の革新自治体奪還をねらった反動勢力の、必死のまき返しの一環です。 1970年代の遅くない時期に民主連合政府を夢みることのできた時代から、いまは一転して極反動のファッショ体制へと、まわり舞台の激変を迎えました。この問、独占のトッブは、職場の労使関係の「安定」、警察・裁判所・官僚組織の「健全化」が眼目だと公言し、着々と地歩を固めなおしていたのです。 3.日経連=経営法曹の蠢動総資本の労務部としての日経連は、1960年代から争議対策セミナーを開いていましたが、1974年1月には、労働法研究会を発足させました。貴任者は三菱重工の人事部長で、毎年2回の講座には、学者、中労委担当官が招かれています。 以来、経営法曹会議の全国大会でも、毎年のテーマ研究が、さらにくわしく行われるようになりました。その翌年のテーマが「労働争議」への対策であり、半分は「企業の場を利用しない圧力手段」、つまりは企業の外で社会的包囲の闘いを展開せざるをえない争議団の活動を意識したものであったことは、注目に価いします。その際の経曹法曹の討論内容については、「経営側が不当な圧力に屈せず毅然とした態度を示すことが重要だ」という概略説明がなされているのです。 その後のテーマ研究の状況は以下の如くです。 注1No.は、日経連編「労働経済判例速報」のナンバー。 注2人名は基調報告担当の弁護士等。 |
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以上のように、経営法曹のテーマ研究は継続して行われており、内容からみて、日経連事務局の判例整理などの作業をうかがわせますが、実務的かつ全般的な研究となっています。 たとえば、現在の悪法ラッシュのなかでも、労働者派遣事業法はその最たるものですが、以上の18大会33テーマ中、いわゆる使用者概念を中心とするものが、6回6テーマという高頻度を示していることは、大いに注目すべきでしょう。すでに1970年のテーマにも、「労働法上の親会社の責任……法人格否認の法理をめぐって」という報告が、ご三島卓郎弁護士によってなされており、以来、使用者概念問題をはらむ判例の逆転現象が目立っています。日経連はこの「労働経済判例速報」を裁判所にも配布しており、その影響は広く深いのです。 またこの間、経営法曹会議は、前述の如く、会員弁護士16名を1976年10月28〜11月12日、欧州労使関係視察に派遣しました。同年12月2日付の「日経連タイムス」主張欄には、「労働裁判所制度の検討を望む」と題して、「西ドイツの労働裁判所の制度とその運用の実態は、わが国における労働裁判所構想を検討するに当ってもヒントを与える点が少なくないように思われる」という提言が掲載されました。もちろん、「一部労働委員会の現状」を云々し、「不当労働行為制度のあり方を検討する」という、反動的な観点に立ってのことです。 背後には、反動的な法学者もいます。御用組合幹部もいます。 法務省や労働省も、こうした日経連の動きに呼応していることは、いうまでもありません。 1978年の民事執行法改定は法務省の仕事ですが、これについては、すでに触れました。つづいて1983年10月17日には、「仮差押え及び仮処分命令及び手続き」に関して、総評などの各界への「意見照会」が、法務省から出されています。その末尾には、なぜか、「労働裁判所」については「照会」の「範囲外」とする記述があります。すでに、微妙な形でのアドバルーンはあげられているのです。 独占の動きは、当然、国際的な実例から、自分勝手な、御都合主義の部分のみを強調することにあります。 制度上でいうと、アメリカの場合、戦後反動期の改悪により、不当労働行為が使用者だけでなく、労働組合に対しても定められています(日本労働協会『アメリカの労働法入門』ほか)。そこからの発想が、国労に対する202億「損害賠償」請求であり、逆転敗訴事件に対するバックペイの「不当利得」返還訴訟であり、雇用関係「不存在」確認請求等の逆襲です。現行法体制を根底からゆるがそうとする階級闘争は、すでに独占の側から仕掛けられているのです。労働戦線の右傾化、分裂状況、等々の下で、『東京争議団共闘の十五年』が予言した「冬の季節」が進行中なのです。 しかし、そうであればなおさらのこと、労働裁判闘争の当事者自身が、自らの責任で、少なくとも司法反動に対する反撃のカウンターパンチを用意せずにいて、だれがことをなすというのでしょうか。 研究活動の組織化系統化も急務です。経営法曹は、1970年を契機として、経営法曹懇談会から経営法曹全国連絡会議、経営法曹全国大会へと3段飛びの組織強化を図りました。経営法曹労働講座が前述の年2回の日経連労働法講座にひきつがれ、やはり年2回の経営法曹全国大会のテーマ研究により、若手の養成も図っています。 労働者側についても、神奈川では総評弁護士団神奈川支部、自由法曹団神奈川支部、神奈川争議団などにより、5者共闘の権利討論集会が定例化し、8回を重ねています。大阪でも民法協を中心として、経営法曹のテーマ研究に対応する分析活動が集団的に行なわれており、単産地本クラスの幹部も積極的に参加しています。 東京における労働裁判研究活動にも、画期的な工夫が必要でしょう。 以上で「二」終わり。以下の「三」に続く。 |
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