「司法反動」下の労働裁判闘争

……東京争議団結成25周年を目前にして……

1985.11.22-24.東京地方争議団共闘会議
第24回総会議案書 第4章「分野別総括(その1)」

一、東京争議団の運動経過から

1999.9.24 WEB雑誌『憎まれ愚痴』39号掲載

1. 本年度の緊急命令闘争

……労働委シンポから地裁要請へ……

 昨年度の労働裁判研究会(2.19, 4.2, 4.16)、労働委員会シンポジウム(9.22, 105名))を経て、今年度は労働委員会で勝利した事件の緊急命令闘争が霞ケ関デモをはじめとする新たな発展を見せました。3月末の日本鋼管、チトセの緊急命令(ともに職場復帰)獲得を典型として、大衆的な運動による裁判所包囲の意義は、ますます明確になりました。

 労働委員会制度は、第2次世界戦争の敗戦(1945年)以後につくられた民主的制度の重要な柱のひとつで、労働者の救済を目的とした制度です。しかし、残念なことに、その後の反動期である1949年の法改正により、現在の労働委員会の決定には刑事罰による強制力がありません。かわりに、裁判所の命令によって労働委員会の決定を守らせる制度として、いわゆる「緊急命令」があり、実施例では1日10万円を限度とする違反の罰則が定められているだけです。

 使用者側が労働委員会命令に服さず、裁判所に行政訴訟を起した場合、労働委員会側が被告となりますが、その際、緊急命令の請求権が生ずるのです。

 緊急命令制度は労働委員会制度のかなめであり、制度の趣旨からして、例外なく早期に認容の決定を取る必要があります。

 1964-1975年(昭和39-50)までについてみると、中労委からの申立事件62件中、1ケ月以内に命令が出されたもの22件。ほとんどが3ケ月以内に命令が出されています(『中央労働時報』1984.8)。

 それ以前に唯一の例外は1962年(昭和37)、「鉄の時代社」事件で……偽装解散で使用者を誤認と却下……後述……。

 ところが、1974年に「凍結」がはじまり、1975年(昭和50)以降の却下件数は、すでに10件に達しています。この間、のちにみるような緊急命令闘争が展開されたのです。

 しかも、緊急命令闘争の原型は、さらにさかのぼる歴史をもつものでした。

年____________________認容________却下

_________________(一部認容を含む)

1950-1954(昭和25-29)_____ 12 (2)______ 0

1955-1964(昭和30-39)_____ 92 (3)______ 1

1965-1974(昭和40-49)_____ 93 (3)______ 0

1975-1983(昭和50-58)_____ 67(11)_____10

計_____________________264(19)_____11

(注)1.( )内の数値は、一部認容一部却下であり、内数である。
   2.1950-1958年の却下決定のうち2件は、高裁段階で認容決定されている。
(『中央労働時報』1984.8月号より)

2. 東京争議団の出発点に「司法反動」への深い怒り

……史上初の緊急命令却下と争講団の結成……

 東京争議団が結成されたのは、1960年安保闘争直後、労働運動の谷間でのことでした。

 世にいうケネディ・ライシャワー路線の下、米日反動の一体となった権力は、1960年安保闘争で発揮された日本労働組合運動のおそるべき戦闘性を早期に削ぎ落すべく、拠点崩し、さらには未然防止の活動家排除へと攻撃を集中してきました。

 結果として、労働裁判も激増しました。

 1961年に全国の労働委員会が受けつけた不当労働行為事件は、過去5年間の最高でした。都労委では4年前の1957年の約2倍となりました。1962年にはさらに増大し、しかも、事件の約90パーセントは活動家への不利益処分であり、そのうちの約60パーセントが解雇事件でした。

 当然、ここにこそ、初期争議団の原形のひとつが現われてきます。活動家の解雇事件当事者たちです。組合の支援をえられない守る会争議も沢山ありました。これに中小企業の組合つぶし、倒産・破産による大型争議が合体したのです。

 激増する提訴。しかし、敗北の連続。

 東京争議団結成の1年後、第2回総会報告は、「昨年末労働裁判で、王子製紙、小薬印刷、小林製薬等々の組合が1つ残らず敗北している」、「昨年3月から今年に至る1年間に、都労委で解決をみた61件の不当労働行為事件の中で、組合が全面的に勝訴した事件が僅か3件であった」、と記しています。

 現在、労働委員会の民主化が問題となっています。都労委がとくにひどいといわれ、全国にも悪影響を及ぼしているといわれています。ところが、1960年代初頭における都労委の状況は、右の数字のごとくで、「労働者の権利の墓場」とまでいわれていたのです。

 そして、このような「墓場」をかいくぐって、さらには中労委でも勝利した事件の行手に待ち構えていたものが、現在も最大の課題である「緊急命令」の却下でした。

 東京争議団結成に先立つ1962年2月、「鉄の時代社」事件について、地裁民事11部の駒田裁判長により、「使用者の誤認」を理由とする却下が行われました。戦後はじめての却下です。却下決定そのものは「駒田判決」と通称され、当時の司法反動の象徴となりました。組合側の資料では、全印総連自立経済特信社労組の事件として扱われており、全員解雇・偽装解散・別会社設立という、中小企業における労働組合つぶしの常とう手段による事件でした。当然、「使用者の誤認」などではありえません。

 当事者をはじめ関係者一同は、「たとえ人を殺しても名前さえ変えれば責任はないというのか」、と怒り心頭に発したものです。

 13名の労組の委員長であった斉藤恒雄は、のちに地元の千代田区労協の常幹となり、「放火魔」と仇名されました。まさに万に一つの労働委員会制度下の勝利を手にした時、制度はじまって以来はじめての「緊急命令」却下を受けた怒りは、東京争議団、千代田争議団、地元の区労協内のブロック共闘強化へと、あらゆる社会的手掛りを求め、新しい陣地を築く闘いへと燃え拡がらざるをえなかったのです。

 1962年以来、1974年の「緊急命令」凍結事件までの12年間、再び緊急命令は必ず出されるようになりました。状況判断として、関係各位の御努力はもちろんのことながら、まさに東京争議団共闘の結成にいたる当事者解雇団の決意こそが、労働委員会制度を守ったのだといえるのではないでしょうか。

3. 統一行動の強化と法廷での勝利

……東京総行動を切り開いた力……

 この間、1967年の第6回総会には、「最近では判決、命令が出されるたびに労働者側の勝訴となって来ている」、1969年の第8回総会には、「判決では9割近くが勝訴をかちとっている」と報告される状況がありました。『東京争議団共闘の十五年』(労働旬報社)では、この勝因を2つに分けて、争議団や弁護団側の主体的な前進と、資本の側の「1950年代の感覚」による「粗雑」さによるものとしています。並行する闘いとしては、1966-1967年にかけての「園部裁判官追放闘争」、1966年の「都労委民主化闘争」があり、1966年末に出された労使関係法研究会報告書に対する反対運動、1968年6月10日制定の裁判所庁舎管理令への抗議の闘いがあります。

 まさに逆流に抗しての闘いの最中における勝訴の増大ですが、これらの闘いを通して、1964年 4.17.ストをめぐる分裂状況さえ克服し、争議団は東京地評主催の集会、討論会へも積極参加し、統一行動の足場が拡大されていきました。

 労使関係法研究会報告書は、すでに1960年安保闘争の前年、1959年から共同研究をはじめたもので、1952年の破壊活動防止法、公安調査庁設置法、1958年の警察官職務執行法改悪案(阻止闘争で廃案)で表面化したような、独立日本の反動立法攻勢と相呼応するものです。

 1965年以降は、IMF-JCに代表されるような、国際的な背景を持つ右傾化、分裂の時代でした。その最中にもかかわらず、反撃体制が準備され、しかも、着々と成果を挙げたのです。

 闘争の規模は、右傾化潮流の足元で次第に拡大しました。1971年には、1.28春闘勝利・司法反動阻止中央集会(6000名)、翌1972年には1/29春闘勝利・首切り反対、司法反動阻止大集会(8000名)が、ともに日比谷野外音楽堂で成功を収めました。そして、春闘の反合理化討論会を経て、同年6月20日、第1回目の全国反合理化東京総行動に結実したのです。

 いまや13年の歴史を重ねる東京総行動の開始以来、まさに解決ラッシュの時期が続きました。

 翌1973年の総会報告には、51争議の解決が記されています。中心となった大型争議は、議長を出していた日本製紙。1974年には32争議の解決。中心となっていた大型争議には、幹事を出し総行動オルグの出発点を提供していた大映。1975年には24争議が解決し、議長を出していた報知系3単組の画期的な勝利解決がありました。全員の職場復帰に加えて報知印刷労組での第2組合全面解体は、資本の側の組合分裂攻撃への反撃の狼火となりました。

 政治的背景としては、1967年の革新都政実現、1973年ベトナム解放戦線・パリ協定、1975年サイゴン解放などがあります。

4. 1970年代以降の巻き返しに抗して

 この間、後述するように、1970年ごろを画期として、司法権力に対する明らさまな反動攻勢が強まりました。まず1970年以降、再び敗訴の増加が問題となってきました。しかし、運動全体の高揚期であったため、裁判で敗けても、運動で解決することが可能でした。

 東京高裁には、1969年に札幌地裁所長として平賀書簡問題(後出)を起した本人の平賀健太が、1970年に着任し、つぎつぎと問題のある反動判決を下していました。

 1974年には、東京地裁民事19部の中川裁判官忌避闘争が組まれました。

 1976年以降、東京争議団と自由法曹団東京支部労働部会との定期懇談の場が持たれるようになりました。前年の1975年に青法協会員3名が裁判官任官を拒否されたことなどから、弁護団側の危機意識は高まっていました。労働委員会係属の事件数が増え、平均480日(1965年)が平均600日(1975年)へと、審理の長期化傾向が見られることも、問題となりだしています。

 1978年3月には、弁護人抜き法案が国会に上程されました。東京争議団も独自ビラを作成し、5万枚の駅頭配布を行いました。3.30東京総行動では、弁護団もオルグに奮闘し、当日も弁護団としての最大動員をかちとっています。同時併行して法改正が進んでいた民事執行法55条の「不動産の占有者」という字句が、倒産企業における闘いとの関連で問題となり、法務省へも集団要請行動が取り組まれ、6月には国会行動に発展しました。これら弁護人抜き法案阻止、民事執行法第55条の修正については、ともに勝利することができました。

 同年9月、東京地裁民事11部に、元法務省訟務検事の古館清吾が総括裁判官(部長と通称)として着任しました。

 19部では元最高裁事務総局人事局人事課長の桜井裁判官が、吉野石膏の緊急命令(3名解雇の職場復帰)をなかなか出さず、行政訴訟の弁論にズルズルと入って行き、翌年2月1 日には9ケ月もの延引の上で却下決定を下しました。

 1979年2月9日、右却下決定の8日後には、浜田精機の一円振り込み要請行動への刑事弾圧事件で、不当判決と同時に「人ちがい監置事件」が発生しました。「大資本のイヌだ」というヤジに逆上して別人を7日間も監置決定した小野幹雄裁判官は、元司法研修所教官でした。しかもこの事件ののち、最高裁事務総局刑事局長に昇進しています。

 地裁民事19部の総括裁判官となった宍戸は、元最高裁調査宮でした。

 これらの状況が示すものは、労働運動への刑事弾圧と相待って、労働部を独立させ、特殊政治事件部扱いをしながら、エリート官僚司法官の支配下に置こうとする、最高裁のファッショ的人事政策でした。訴訟指揮は権柄ずくになり、人手不足を理由に、それまでは1日4時間あった証人調べも2時間となり、集中審理は拒否されるようになりました。

 当然、争議団の当事者を中心とする怒りの渦は広がりました。東京争議団法対部は、3月22日に坂木修弁護士の講演を中心とする討論会を持ちました。講演録は労働法律句報に載り、増し刷りのパンフも作成されています。

 東京争議団は、さらに代表者会議での討議の上、この怒りを裁判所に直接示すべし、という決意を固めました。

 4月19日の東京総行動では、霞ケ関一帯の早朝ビラまぎ、10台の宣伝カ-に女性アナウンサ-による訴えの録音テープを仕込み、繰り返し地裁・高裁・最高裁周辺に半日の宣伝行動。100を越えるプラカードをかかげての地裁・高裁前散歩デモ。東京総行動全体の昼デモは、日比谷野外音楽堂での集会のあと、霞門から地裁をにらんで出発と、大いに大衆的な怒りを見せつけました。

 裁判所はもともと、直接の返事をせず、一向に反省の弁をもらさない役所だといわれています。ところが、この行動の直後に、三井製糖と済生会病院の事件で、凍結されていた緊急命令が出てきました。

 同じ年にはじまった古館裁判官追放闘争では、総評、地評も先頭に立ち、「地裁労働部対策会議」という陣型になりました。全国一般微生研分会の団交応諾緊急命令の却下については、全国一般も全力投球して、13万7千名の訴追署名が集まりました。日本テレビ労組の木村解雇事件でも古館裁判官を忌避し、他の係争中の事件当事者、弁護団も総結集。全電通会館での集会など、多彩な行動が取り組まれました。

 古館裁判官は、一般の任期より半年早く、1981年3月に配転となりました。

 この状況下、5名の解雇事件で都労委・中労委の全面勝訴をかちとった全国一般理化電機労組が、弁護団をも拡大強化して画期的な緊急命令闘争を展開。緊急命令のもぎとりとともに、争議の全面勝利をもかちとりました。団体署名860、個人署名12,000、霞ケ関の駅ビラ13回、延べ125名参加、24,600枚配布、裁判傍聴延べ420名、地裁前宣伝行動550名の参加、という大衆行動の積み重ねでした。基本的な姿勢として、「裁判所に対して、いささかの幻想も持たない」、という考えに徹し切ったこと、それと同時に、家族の上申書など、あらゆる角度から裁判官の「良心を励ます」努力がつくされた点が、勝因として挙げられるでしょう。東京争議団も機関紙の特集号を出し、全力で取り組みました。

 翌1982年には、高裁第5民事部の蕪山裁判長追放闘争が組まれ、4月13日に忌避、6月3日には東京争議団結成20周年記念月間行動の一環として設定された司法反動阻止一日共同行動の一翼をにないました。蕪山裁判官は、日立武蔵の田中解雇事件で、結審を控えた時点になって、最大争点の残業拒否に関し、残業命令の原因が田中君本人の業務上のミスによるものではないかという、「求釈明」によるデッチ上げの示唆によって、会社側を助けようとしたものです。拡大された弁護団は、忌避裁判で、最強カメンバーの分担による書面作成等に全力を挙げました。対等会議も強化されました。その結果、忌避裁判の終了をまたず、12月15日、蕪山裁判官は、静岡地裁所長との直接交代という異例の人事で、配転されました。

 この間、12月4日には、最高裁シンポジウムが持たれ、翌1983年には2度の最高裁包囲行動に発展しました。中労委へも1982年以来、十数回の大衆行動が組まれています。

 緊急命令闘争も継承され、高千穂学園の3役解雇事件が、1982年4月20日に緊急命令をかちとり、5月18日には職場復帰、つづいて争議の全面解決へと連動しました。この場合、単産の私教連も加わり、総評の司法反動対策会議の場で、全国一般全学研労組の緊急命令闘争とも共闘を組んだことが、大きな力を発揮しています。対策会議は、地評、東京争議団、私大教連、私教連、当該分会で持たれ、東京争議団機関紙の特集号を1万部増刷するなど、理化電機の教訓を生かし切りました。

 高千穂の闘いでは、教育会館の大集会、杉並総行動・地元集会もまじえ、わずか3ケ月間に、地裁要請20回、文部省交渉2回、霞ヶ関ビラ14回、団体署名1,278、個人署名13,925、350名の知識人、文化人の署名と、理化電機を上まわる行動が成功しました。

 最高裁闘争については昨年の議案でふれましたので省略しますが、巻末別表の如く、それ以後の判決・命令は、一部の例外を除き、すべて勝利になっています。

 ただし、それは必死の抵抗闘争の成果であって、司法反動の状況そのものは、さらに深まっています。

以上で「一」終わり。以下の「二」に続く。


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