『煉獄のパスワード』(8-9)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第八章 《時限爆弾》管理法 9

 異例の《いずも》緊急臨時会議は、席上何事もなく終わった。

 事務局提案に対してなんの質問も異論も出なかった。まことに密やかなシャンシャン総会であった。特に、Xデイ《すばる》発動のクーデター計画に陰で関与していたらしいメンバーが、しきりと事務局に気を使う有様は、むしろ気の毒なくらいだった。

 終了後、《お庭番》チームの皆は一様に、〈静か過ぎて、かえって気味が悪い〉という感想を漏らした。かといって少なくとも《いずも》内では、誰かが鳴りを潜めて反撃を用意しているといった気配はなかった。絹川特捜検事は、〈影森参謀総長の政戦略的分析が見事的中しましたね〉という短い講評を皆の耳元に囁いては、独り悦に入っていた。ただし、お得意のポーカーフェイス。周囲には決して気付かれないようにである。

 別口のアングラ情報として、興亜協和塾の新理事会構想が伝えられた。下浜安司元首相らの政治家グループは理事会から退き、道場寺満州男事務局長のほかは全て財界主導の人事になったという。山城総研の瀬高専務は会計監査に就任していた。

 《お庭番》チームは新たな極秘任務として道場寺の時限爆弾の処理を抱えており、一部の関係者から密かな注目を浴びていた。周囲の権力の場のバランスの揺れは一同の皮膚にもピリピリと感じられるほどだった。

 

 翌朝、智樹と華枝を乗せた全航国際便エアバスが、北京に向かって成田国際空港を飛び立った。

 窓越しに日本海が見え始めた頃には、華枝の頭は智樹の肩に寄り掛かったまま静かに揺れていた。安心し切った眠り様であった。

「ト・モ・キ……。トモキと一緒なら、飛行機が落ちて死んでも、私、怖くないわ」

 離陸を前にベルトを締めながら、華枝は甘え声を出していたのだった。

「ハハハハッ……。華枝は良くても、僕はまだまだ死にたくないよ」

「まあっ、幻滅!全然ロマンチックな返事じゃないわね」

「ハハハハッ……」

 智樹は笑いながら、華枝とは違ったことに心を半分奪われている自分に気付き、軽い罪悪感を覚えた。

 野暮なことを考えていたのではない。これも一つのロマンなのだが、口に出して言えば華枝の気分を壊すかもしれないので、つい黙ってしまった。

 智樹はその時、若い頃に感銘を受けた井上靖の小説『天平の甍』の終りに近い一場面を思い出していたのだった。中国から日本に渡る船が嵐で沈む。海中で船荷の縄が切れると、ある日本人留学僧が生涯を掛けて中国各地の寺院で筆写した膨大な仏典の数々が、ハラハラと海底に散り去って行くのである。智樹は、千数百年の時空を凝縮したその描写に引込まれていく自分に、戦慄感を覚えたものだった。

 このエアバスの荷物置場には智樹が預けた旅行カバンが納まっている。外見上は何の変哲もないカバンだが、中身は知るものぞ知る、戦後四十数年の間、軍用行李の中に眠っていた極秘書類の束である。しかもその貴重な証拠資料は、何者かが弓畠耕一の葬儀の当日に最高裁長官公邸に忍込むとか、葬儀の翌日に最高裁事務総長が不可解な態度を示すという異常事態さえ起きなかったら、未亡人弓畠広江の記憶からも消え去り、そのまま地下の隠し部屋に眠り続け、やがては腐り果ててしまったに違いないのである。

〈飛行機事故が起きたら、あのカバンはどうなるだろうか〉

 無意識にそんなことを心配していた自分に気付いて、智樹は苦笑した。『天平の甍』の仏典にも中国側の原典が残っていただろうが、今度の資料については、既に二十部のゼロックス・コピーを日本に確保してある。確かに、智樹が運んでいるのは原本だから、証拠価値は特別に高い。だが、今は電子情報時代だ。裁判でもコピーの証拠能力が認められるようになっている。それに、古代の船旅とは大違いで飛行便の安全性も高いから、荷物だけ送っても良かったのだ。しかし、智樹は華枝を口説いた。出発を数時間早めて北京回りでインドに行くことにした。そうしないと落着いて旅に出る気にならなかったのである。

 北京空港では、千歳弥輔がエアバスの到着を待つ手筈になっていた。国際電話が盗聴される可能性も考えて、荷物のことはなにも話してない。ただ、大事な用があると告げただけだ。空港でインドへ向う飛行機に乗換える間の待ち時間は短かった。千歳と長話は出来ない。智樹は、荷物の中身の重要性をどう上手に説明しようかと考えながら、達哉と一緒に書類を整理した時に覚えた興奮を再び味わっていた。

 

「こいつは凄いぞ!」

 達哉が興奮を押え切れずに、しきりと大声を上げていた。

「生アヘン窃盗事件そのものの関係資料だけじゃないぞ。蒙疆アヘンの生産状況についても極秘資料が揃っている。これは本格的だよ。……ほら、それに、これを見ろよ。背景にあるのは、これだよ。敗戦直前に新しく計画されていた満蒙分離独立の陰謀だよ」

 弓畠耕一の遺品の軍隊行李を受取りに行く前に、智樹は達哉と手筈を相談した。万が一のことを考えて、人影がなくて周囲が見わたせる公園のベンチで会った。

 道場寺満州男の時限爆弾と智樹がわらじをはくに至った経過を話した。

 山城総研の瀬高専務は、智樹から小山田警視との密約の話しを聞くと直ちに動いてくれ、智樹と華枝は表面上、退職の扱いとなった。智樹には四十五歳以上を対象とする会社都合の特別勇退制度が適用され、退職金の支給は規定の三倍となった。これで当分は海外で遊んで暮らせる。

 小山田がなぜか〈冗談、冗談〉ととぼけたが、こちらの《時限爆弾》の問題もある。智樹は達哉の身に危険が及ぶのを懸念して、さらに別の人物に銀行の金庫のカギを預けるよう頼んだ。

 最後の問題は、弓畠広江の意外な申し出についてである。

「中身は多分、蒙疆駐屯軍時代の軍法会議の記録だと思う。是非とも何らかの形で発表したいから、受取る前に扱い方を決めて置こう。俺は三日後には旅に出る。それまでに処理を済ませたい。だから時間がないんだ」

「いやに急だな」

「うん。華枝と前から約束をしていてね。飛行機も宿も予約済みなんだ」

「ほう。羨ましい限りだな。行先はインドだろ」

「そうだ。図星だ」

 智樹はいささか照れたが、達哉も心得ていて深追いはしない。

「よし。大体の考えはまとまっているのかな」

「うん。こちらにコピーを確保して置いて、原本は北京の千歳弥輔さんに渡す。その後、彼等が中国の各地で資料を発掘したということにして貰って、逐次世間に発表していく。出来れば、コピーの作業を明日中に終わらせたい。そうすれば、俺がインドに行く前に北京空港を回って、千歳さんに原本を直接手渡せる。こればかりはどうも、人に頼む気にならないんだ」

「そうだな。危険も考えなくっちゃいけないしな。よし、分った。出版社に頼んで全部ゼロックスして貰おう。実録現代出版あたりなら、この種の日中十五年戦争物に熱心な編集者がいるから、無理を聞いてくれると思うよ」

「設備は良いのか」

「それはバッチリだ。ゼロックスの機械は大型で高速のがある。俺もあそこの機械を使ったことがあるんだ。原稿を重ねて入れれば自動的に二十枚のコピーを仕分けしながら取れる。冷却装置付きで連続使用が可能な最新型だよ。なんてったって資料で勝負するのが、あそこの商売だからね。専門の係りもいて手伝ってくれるんだ。問題は先方の都合が付くかどうかだけだ」

「よし。それじゃ、直ぐに連絡を取ってくれ。ただし、電話は盗聴される可能性があるからな。ひとっ走り頼むよ」

 幸いなことに実録現代出版は二つ返事で引き受けてくれた。

 コピーが終ったら詰め換えることにして、旅行カバンも用意した。世田谷の最高裁長官公邸から神田の出版社まで、智樹の車で直行した。念のために終始、尾行の警戒も怠らなかった。怪しい徴候は見えなかったが、荷物の運び込みはなるべく人目に付かないように気を配って急いだ。実録現代出版の裏口は狭い路地に面していた。周囲のビルの窓は全部閉まっていた。誰も見ていない。智樹は後部の荷物入れから軍用行李を運び出す瞬間、路地の両側の出口にも視線を走らせた。その間丁度、誰も通らなかった。少なくとも搬入作業が人目に触れなかったことは確かだ。

 小山田警視が付けてくれている筈の警護の警官の姿は目に止らなかった。この方は特に心配しなくてもいい。だが、なにか怪しまれて、小山田がカバーに苦労するのでは申しわけない。

 用心のし過ぎかなとも思ったが、念を入れるに越したことはない。ゼロックスで複数のコピーを作り、何箇所かに保存してしまうまでは気を抜くことが出来ない。マイクロフィルムの発注もする積りだ。何人もの命の代償として入手した記録である。あと一息の努力なのだから、いささかも辛いとは感じなかった。水泳の最後のダッシュの苦しさとは大違いで、むしろダンスのフィニッシュのような楽しい仕上げ作業だった。

「俺、コピーが終わるまで泊まり込むよ」と達哉がいい出した。

 荷物を運びこんだよろず作業室には、長椅子が二つあって、ベッドの代りにもなるのだった。真中のテーブルの上に書類を広げて整理を続けながら、次々と隣の女性係り員に渡す。その作業をしている内に、達哉は一刻も早く書類の全てに目を通したい気分に駆られ始めたのだ。

 中身はすべて弓畠広江がいった通りの書類であった。少し湿気を帯びてはいたが、保存状態は良かった。一見して、ほとんどが軍法会議の記録と証拠資料であろうと思われた。二人の最初の相談では、コピーをする前に先ずは表題だけで見て、項目別に整理して置こうということだった。だが、関係者の供述調書などは中身を少しは見ないと分類できない。どうしても何ページかは読んでしまう。そして、新しい問題が見付かる度に、達哉が二言も三言も注釈を加えるのだ。

 智樹にも達哉の気持ちは良く分った。智樹自身も興奮しているのだ。しかし、時間の問題がある。いずれ全てをゆっくり検討できるのだ、と自分にいい聞かせていた。最少限しか字面を読まないように努力する。

 だが、そういう作業だけでも、この資料の内容の豊富さは驚嘆すべきものだということが充分に分ってきた。

「影森。これはただの軍法会議用の押収物件だけじゃないな。極秘文書が沢山あるし、参考人の供述も必要以上に積極的だよ。どういうことかな」

「うん。これは一種の反乱だね。そんな気配があるよ。俺の想像だが、満蒙でケシ栽培の強制や関東軍の横暴に日頃から不満を抱いていた日系官吏や下級軍人が、この生アヘン窃盗事件に吐け口を見出だして、進んで極秘資料を提供したんじゃないかな。まさにウミが一杯の傷口を針でつついたような状態だね」

「これだけの審理を準備したのは、北園留吉だな」

「そうに違いない。多分、状況を察知した上層部がスキャンダル暴露を恐れて北園排除の陰謀に走った。弓畠耕一は陰謀に荷担し、親友を裏切った。しかし、この極秘文書を捨てずに日本まで持ち返った。それはなぜか」

「きっと証拠湮滅まではできなかったんだよ。やはりどこかで裁判官の誇りを捨て切れなかったんじゃないかな」

「いや、もしかすると、これが弓畠耕一の仲間に対する《時限爆弾》だったのかもしれないぞ。いずれにしても、本来なら、北園文書として公表したいところだよ」

「金井章次という名前が何度も目に付いたけど、確か、当時の蒙疆政権の最高顧問だった男だな」

「そうだ。金井章次はアヘン問題でも満蒙独立問題でも、最初から最後まで要の人物だ。

 最初は満鉄の青年社員運動のリーダーで、満鉄衛生課長在任中に満州青年連盟の理事長になった。満州青年連盟は、満州事変以前から一貫して満蒙独立を唱え、満蒙共和国だとか満蒙自治国だとかの建設綱領を発表していた。これを受けて関東軍が満蒙自由国設立案大綱をつくるわけだ。満州連盟はその後、満州国協和会に発展する。満州のナチ党だな。協和会は朝鮮にも作られる。協和会運動は、日本本土を含めた大東亜共栄圏全体に広がる構想を抱いていたんだ。

 ほら、フランスでも、アルジェリア生れがファッショ化して最後までアルジェリア植民地の放棄に抵抗しただろ。あれと同じで、満州生れの日本人にとっては確かに満州が生れ故郷だし、青少年期から満州育ちの日本人の中にも満蒙は自分達の領土だという意識が強かったようだね」

「満州でファッショ運動の中心だった金井章次が蒙疆政権の最高顧問になったというのは、なにか意味がありそうだな。満州国をさらに本来の目標である満蒙全域に広げるという構想があったのかな」

「そうだろうな。彼等は太平洋戦域で日本が惨敗を重ねていても、まだまだ望みを捨てなかった。反共政権として対ソ連の守りを固め、中共と戦っていれば、アメリカや蒋介石政権との妥協が成立すると信じていたんだ。物資もあった。関東軍特殊演習で七十万名の動員を集中した時に、途方もない量の戦略物資が満州に運ばれ、そのまま備蓄されていた。日本の本土向けの物資も、制海権を失ってからは溜る一方だった。そういう状況が彼等を強気にしていたんだ」

「そういう物資のほとんどをソ連軍が押えて持って返ったんだろ」

「それもある。しかしどうやら、この生アヘン盗難事件をきっかけとして、満蒙独立派の陰謀が決定的に破れたようだね。先ず、本土決戦の際の満州遷都案は潰れた。長野の松代に大本営を移す計画が最優先されて、山の中にコンクリートのトンネルだらけの城が築かれた。関東軍の精鋭師団は既に二年まえから次々に引き抜かれて南方に送られていたが、この事件の後、敗戦の年の五月には満州の四分の三を放棄して朝鮮国境だけを守る作戦要領が決められた。……」

「この事件がきっかけだと断言できるのか」

「いや。まだまだヒントだけだよ。しかし、もしかすると、関東軍や北支那派遣軍のタカ派将校が、この事件への連座の責任を問われて実権を奪われたのかもしれないよ。歴史はまだまだ意外な裏面を隠しているんじゃないかな」

「ハッハッハッ……。お前が真顔でいうから、これだけの斜め読みで良く分るもんだと思って、感服してたのに」

「ハハハハッ……。まあ、俺の留守中にしっかり資料を読みこなして置いてくれよ」

「こいつゥ」

 と智樹の肩をこづいたりしながら、達哉は楽しそうだった。久々に手応えのある資料の山にぶつかった喜びが全身に溢れていた。達哉はやっと、自分の人生を賭けるに値するテーマにめぐり会えたのである。


終章 枯葉の伝言