『煉獄のパスワード』(4-7)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第四章 過去帳の女 7

「ごめんなさいね。心配させちゃって」

 華枝は智樹が近付くのを認めるとニッコリ。

 いつもの総天然色の笑顔をテーブルのあたり一杯に広げた。

 智樹はウンウンとうなずく。ともかくアイマイな笑顔で応ずるしかなかった。

 今度の事件の危険な要素のことが気になって仕方がない。華枝を危険な目に会わせてはならない。だがそのためには、当の華枝にも事情を打明けないと、二人の仲は気まずくなる。どうしたものか、ずっと迷いっ放しなのだ。いずれにしてもその問題は、今晩の話題が尽きるまで胸にしまって置こう。それが、この店に着く前にまとめてきた考えだった。

 

 智樹が自宅に戻ると、ヒミコの画面に赤い文字が一列点滅していた。

〈留守番電話にメッセージが入っています〉

 録音呼び出しのスタート・ボタンを押すと、華枝からだった。

〈心配させて済みません。お電話下さい。ハナエ〉

 智樹は思わずホッとして、胸を撫でおろした。すぐに山城総研の研究室に電話をして、行きつけの渋谷のロシア料理店で華枝と落合うことにしたのだ。

 

 ワインとボルシチを注文し終ると早速、華枝が意気ごんで話しだした。

「ねえ、トモキ。私が送った資料の中に、東京高裁の海老根判事が最高裁の正面ホールに飛び下りて自殺した事件の記事があったでしょ」

「うん」と表面では軽く受けたが、智樹は華枝の勢いに押され、内心ドキリとしていた。話がいきなり核心に触れてきたからだ。

《お庭番》チームでも議論したばかりの事件のことである。ここで華枝にも、自殺として処理された海老根判事の死に〈他殺の疑い〉ありと告げるべきか否か。また新たな迷いの種が増えてしまった。だが、華枝はそんな智樹の迷いにはまるで気付かなかったように、自分のペースでニコヤカに話を続けた。

「私、あの事件を自分なりに追ってみたの。中央法律文化社が重要事件の判例データベースを出しているのね。あの中に海老根判事の裁判記録がないかどうか検索してみたら、それがバッチリ、……」

 智樹は虚を突かれた思いだった。

「そうか。海老根判事自身の判例……ね」

「そうなのよ」と華枝はいささか得意そうな顔をしていた。「あの雑誌の記事は、学者裁判官といわれた海老根判事の人柄だとか、最高裁の人事権乱用だとかに焦点が合されていて、肝腎の海老根判事の裁判官としての仕事にはそれほど目を向けていなかったのよね。ところが海老根判事は、今から五年前に意外に重要な事件の判決を出していて、それが今の最高裁、つまり、海老根判事自身が選んだ死に場所よね、その死に場所と深い因縁があるのよ」

「死に場所と……」と智樹は合い槌を打ちながら、華枝がいつになく、妙に気を持たせるしゃべり方をしていることに気付いた。華枝はきっと、なにか驚くべき事実に突き当たったに違いない。そんな感じがした。

「末永教授の教科書裁判なのよ。……あの裁判のことはご存知でしょ」

「うん。まあ、名前だけだけど。マスコミでも少しは報道された事件だからね」

「私は判決文だけでなく、新聞のデータベースから当時の記事を探しました。判例の実物を読み通すのは大変だけど、新聞記事にはうまく争点が要約されているでしょ」

「そうだね。分り易い大見だしもあるし、双方の主張や、一審・二審・三審の判決要旨の対照表もあるしね」

「そうなの。まず簡単にいうと、海老根判事は東京高裁で東京地裁の判決を覆して末永教授の訴えを認めました。教授の訴え通りに、文部省の検定による教科書の一部削除命令が不当だと判断したわけ。ところが、最高裁はこの高裁判決をもう一度ひっくり返したのよ。末永教授は一審の地裁で敗訴、二審の高裁で逆転勝訴、三審の最高裁でまたまた逆転の敗訴という結果ね。逆転に次ぐ逆転というわけ」

〈頭の中で良く整理されている話し方だ。華枝は論文のように、総論と各論に分けて話そうとしているぞ〉

 智樹に胸には華枝の熱心さが響いてきた。だが、一方では背中のセンサーが危険を感知しているかのように、ゾクゾクするのだった。一体、なにが出てくるのだろうか。

「争点はいくつもあるんですけど、私が注目したのは、アヘンの問題なの」

 智樹の背中に強圧電流が走った。

「…………」のどがゴクゴクしたが、言葉は出てこなかった

〈やっぱりアヘン問題に触れてきたか。華枝もタブーに踏み込んできたんだ〉

「そうなの。私、このアヘンの問題ではほかの雑誌記事も読んでいたから、予備知識があったのね。だから、ピーンときたの。アヘンって、聞いただけでもなにかドロドロとしてて、犯罪的でしょ」

「うん。犯罪的だ。危険な匂いがする」

 智樹はやっと、〈危険〉という単語を二人の話題の中に投げ入れることに成功した。

「アヘン問題だけ要約すると、……」

 華枝は出来上った文章を朗読するように続けた。

「末永教授は高校用の教科書にアヘン問題を書いていました。

〈日本は国際アヘン条約に違反し、戦争中に内蒙古などでアヘンを大量生産して、占領地の住民に販売した〉という簡単な表現です。これを文部省は〈資料的裏付けが不足〉という理由で削除せよと命令しました。

 一審判決は文部省のいい分をそのまま認めましたが、海老根判事は〈明白な事実〉だという判断を下しました。ところが最高裁第三小法廷はこの二審判決をもう一度ひっくり返しました。理由では〈事実〉と認めながら、〈一般常識化していない〉から削除命令は不当ではないという結論になっています。

 少数意見なし。全員一致の判決です。末永教授側はこの理由付けについて、〈最高裁お得意の逃げ口上に過ぎない。一般常識化していないのは教科書で教えないからだ。論理矛盾も甚だしい〉と手厳しく批判しています」

 華枝はそこで一息入れて、智樹の顔をジッと見詰めた。

 別にわざとジラしている風ではなかった。華枝は、自分が発見した重要な事実を今から告げようとしているのだ。そのための緊張が感じられた。

「第一の問題は、この時の最高裁第三小法廷の裁判長が弓畠耕一判事だったということです。長官になる以前の平判事時代です」

「そうか。そうだったのか」

 智樹は自分の立遅れを痛感した。

 今度の事件は一見複雑に見えたが、調査の進展は意外にも早いのだ。いずれは達哉に頼んで裁判所関係を洗い直す積りだったのだが、弓畠耕一の中国時代に秘密が潜んでいるのではないかということになって、達哉には急遽ハルビンに飛んでもらった。

 華枝の作業は、丁度その隙間を埋めてくれるものになっているのだ。

「なるほど。ここでも弓畠耕一か」と智樹はつぶやく。

「ここでも、って、どういうこと」

「うん」と智樹はもう腹を決めた。華枝に必要な事情だけは話すことにしょう、と。

 智樹は華枝に、それまでの経過の一部をかいつまんで話した。

 達哉が最高裁の図書館で経験した騒ぎ。敗戦直後の生アヘン密輸事件判決のマイクロフィッシュの件。その事件の裁判長が弓畠耕一だったこと。だが、海老根判事の他殺の疑いや弓畠耕一の行方不明については、触れないことにした。それはまだ早いと思った。

「ともかく、これで一つ分ったよ。海老根判事がその敗戦直後の生アヘン密輸事件の判決に関心を持ったのは、自分自身が出した教科書裁判判決のその後の成行きと深い関係があるわけだ。偶然じゃなかったんだ。充分な動機を持つ調査だったんだね」

「そうね。東京高裁でも随一の学者肌の裁判官として知られていたそうだから、自分が判決を書く前にも、自分なりに資料を漁っていたんじゃないかしら。それで充分な自信を持ったから、地裁の判決をくつがえす判断を出したのよ。それなのに、最高裁でそれがまたひっくり返されたわけでしょ。これは執念になるわよ」

「執念か。うん」と智樹は溜息をついて腕を組んだ。

「そう。執念よ。男の執念。女の執念。怖いわよ、執念が燃えると。……」

 華枝の目はワインの酔いで少し赤くなり、妖しく燃え始めていた。案の定、華枝のその言葉の裏には次の意図が隠されていた。

「ベテラン・サーチャーのハナエさんはね、トモキ、そういう男や女の心の奥底でチロチロ燃えている執念をまず探るのよ」と意味ありげにいって、華枝は智樹の目をのぞきこむ。「執念が乗り移ると、ピタリ。ウフフッ……ごめんなさいね、黙ってお話聞いてて。私、もうその敗戦直後の生アヘン密輸事件判決のマイクロフィッシュを見ちゃったのよ」

「えッ」

「だからいったでしょ、ベテラン・サーチャーなんだからって。調べ方にもコツがあるのよ。もおッ、トモキったら、ちっとも私のことなんか信用していないんだから、……」

「ごめん、ごめん」と智樹は手を合せて華枝を拝んだ。

「よし、許す」と華枝はニッコリ。「だってェ、……私のサーチは普段でもコンピュータのデータベースの検索だけじゃないのよ。司書の資格もあるんだからァ、……判決文のマイクロフィッシュをどの出版社が出しているかを捜すぐらい、お茶の子サイサイなのよ。もっとも私は、いきなりその出版元の法曹協会でコピーして貰ったから、最高裁や検察庁や日弁連のコピーを誰かが借りっぱなしにしてるってなんてことは気が付きませんでしたけど」

「お見それしました」と智樹は平あやまりするしか手がない。

「それだけじゃないの」と華枝はまた真顔に戻り、暗唱するようにゆっくり話す。

 華枝は、あらゆるデータベースを検索し尽くして、アヘンに関する資料リストを作った。その中のある本の参考資料リストには『真相追及』という戦後の古い雑誌の記事の名があった。ところが、記事の全文を手に入れてみようと思って国会図書館でその雑誌を借り出してみると、肝腎の記事の部分の数頁だけが綺麗に切り取られていた。そこでさらに雑誌の収集で有名な大竹文庫に行ってみた。すると、ここでも同じことが起きていた。両方とも、そっくり同じ感じの切り口だった。

「きっと、下敷きを挟んで良く切れるカッターで切り取ったのよ」

「酷いことをやる奴がいるもんだな」

 智樹はそういいながら、内心では自分に向って

〈スキャンダル隠しとしてはご同業の仕業だな〉とつぶやいていた。

「いつだったか、帝国興信所のベテラン調査員から聞いたことがあるわ。この種の切り取りはチョクチョクやられているらしいのよ。たとえば、有名人になってから都合の悪い記事を抹殺したくなるとか。分るでしょ。だから今度は国会図書館が作った全国総合資料リストを見て、その雑誌が都立中央図書館にあるのを発見したの。あそこにも結構古い資料が残っているのよ。意外な穴場ね。それで、……都立中央図書館の頁は無事だったわ」

「いやあ、もう完全に降参。尊敬。敬服。……失礼しました。それで、……その記事の内容が今日の話題のメイン・ディッシュだね」

 と智樹は二人のワインを注ぎ足した。


(4-8) 第四章 過去帳の女 8