『煉獄のパスワード』(4-5)

電網木村書店 Web無料公開 2006.6.6

第四章 過去帳の女 5

「北園は処刑されてしまいました」

 しばしの沈黙の後、奈美はまた、ポツリポツリと話しを続けた。

「私は不義密通で処罰されても仕方がない状態でしたが、離縁だけで許していただき、実家に戻りました。父は怒って私を殴り、相手は誰だ、白状しろと責めました。私は、それだけは口にすまいと心に決めていましたので、いくら殴られても蹴られても黙って耐えていました。母は私をかばってくれましたが、父に対しては逆らえずに、ただ泣くばかりでした。女は三界に家なしといいますが、本当に他に行く所はなかったのです」

 奈美の肩は今でも耐え続けているかのように縮こまっていた。当時の法律には密通罪があった。だから、北園家はその告発をせずに見逃したことになる。

「敗戦になって、大急ぎで引き揚げが始まりましたが、私は臨月で動けません。母がお店で働いていた中国人の劉さんに私を預けました」

「お店、というのは」

「西谷薬業商会といいまして、薬種問屋と薬局と医療器械販売店を兼ねていました。父は裸一貫で満州に来ました。最初に日本人の一旗組が皆やったようにアヘン商売で身を立てて、アヘン窟の経営までやりました。阿片からヘロインやモルヒネを作る製薬会社も起こしました。結婚して子供が出来ると、世間体を考えて段々とアヘン関係を減らし、製薬会社と薬種問屋、医療器械販売に切替えていったのです」

「その会社やお店はどうなったんですか」

「何もかも捨値で手放したようです。お店は劉さんに譲って、私とお腹の子供もおまけに引き取って貰ったわけです」と奈美は寂しく微笑んだ。「私は劉さんの娘だということにしてもらい、劉淑琴という名前も付けていただきました。劉玉貴、禄朗さんが生れたのは九月九日でした」

「その間、弓畠さんとはお会いにならなかったのですか」

 達哉は聞き憎いことを聞かなければならない自分が恨めしかった。

「いいえ。一度もお会いしませんでした。処刑があったことを伺った時以来、私も、お会いしてはご迷惑だろうと思いましたし、……」

「弓畠さんの方からも連絡はなかったんですか」

「はい」

 奈美はもう泣かなかった。淡々とその後を物語った。

 敗戦はソ連軍の支配でさらに現実的になった。その次は中国の国共内戦であった。禄朗の乳離れを待って日本に帰る積りが、一日延ばしでそのままになってしまった。

 迷っている時、古くからの店員の李英財からプロポーズされた。李英財は奈美と同い歳である。朝鮮生れだから強制的に日本語教育を受けている。十五歳の少年の頃、満州に仕事を探しに出てきて、西谷奈美の父親の店に住込みで雇われたのであった。李英財にとって奈美はかっての社長令嬢であった。劉家は、二人の結婚を祝福した。今の薬局も劉家の援助で独立して営むようになったのである。二人の間には三人の子供が出来た。劉玉貴は劉家で引取るというので、そうして貰うことにした。玉貴は戸籍上では淑琴の弟になっていたのである。成人するまでは本人にも真実は明かさなかった。玉貴が二十歳になった時、初めて自分が本当の母親だと告げた。

「禄朗さんに父親のことを教えたのは何時頃ですか」

「何度も玉貴からせがまかれましたが、知ってもどうにもならないことですし、ずっと教えなかったんです。私は最初あまり会わないようにしていたのですが、四、五年前から、しきりに日本に行きたいといって相談に来るようになりました。名前まで考えて、……禄朗という名前は、玉貴が自分で考えたんです。玉貴は最初から劉家の息子として育てられましたから、日本名は付けなかったんです」

 奈美の目が宙をさまよった。涙ぐむかと見えたが、そうではなかった。

「ところが、その後に千歳さんが突然いらっしゃって、……千歳さんは訪日調査団の仕事をしておられました。それで、本人が望むのなら父親が誰なのか教えるべきだ、というお考えでした。たとえ難しい事情があったとしても、本当の事を教えるべきだと、……。私はそのお考えに従ったのですが、それが正しかったのでしょうか。玉貴、……禄朗さんは日本に行きさえしなければ、死ぬ事もなかったもしれませんし」

「それは運命でしょう。誰にも先の事は分りませんよ。禄朗さんは、どういう仕事をしていたんですか」

「教師です。小学校の教師でした。もっと勉強して上級の学校の教師になりたいと考えていたようです。ところが、あの文化大革命では大変に辛い思いをしたらしいのです。私も、日本人だというだけで嫌がらせを受けましたが、玉貴の場合は仕事上で辛い立場に立た

されたようです。それで逆に、日本語の勉強を始めました。きっと、日本に行きたいという気持ちが強くなったのではないでしょうか」

「父親に会いたいというよりも、日本に行きたいということですか」

「もちろん、父親のことも知りたがっていました。私はただ、立派な人だとしか教えていませんでしたから、どんな父親なのか、知りたかったに違いありません」

「禄朗さん、いや、劉玉貴さんのご家族は……」

「同じ小学校の教師と結婚して、子供が三人います」

 

 帰り道は夫の李英財が送ってくれた。李英財は奈美になにごとか話した後、白衣を脱いで出てきた。達哉が荷物を置いてきただけのホテルの名をいうと、軽くうなずいて先に立って歩き出した。達哉が、

「方角さえ分れば一人で大丈夫ですよ」

 と遠慮するのに、李英財はまた黙ってうなずくだけで、そのままサッサと進む。四角張った顔の李英財は見るからに実直そうだった。達哉もその場に合せて話題を探すのが下手な方だから、道中は二人とも無言のままであった。ホテルが見えてきたので立ち止まって、

「李さん。有難うございました。奥さんを悲しませて済みませんでした。よろしくお伝え下さい」

 というと李英財も立止まったが、戻る気配は見せない。なにかいいたげである。達哉には李英財の意図がつかめない。どうしたら良いのか分らずに困ってしまった。すると気まずい沈黙を破って李英財が、

「風見さん。貴方こそ、日本からここまで来られて、他人の私達夫婦のためにご苦労さまです。……実は、少しお話ししたいことがあるのです。淑琴のいる所ではいえなかった話です」

 李英財の日本語には朝鮮人特有のなまりがあった。堅苦しい話し方だが、何度か頭の中で文章を練ってから話しているという感じがした。達哉はその話し方に胸騒ぎを覚えた。「そうですか。それで、わざわざここまで、……では、ホテルのロビーにでも」

 だが、ホテルのロビーは狭くて落着かないので、食堂で話しを聞くことにした。コーヒーを一口飲むと、李英財は思い切ったような顔付で口を開いた。

「風見さん。私は朝鮮人です。中国人の国籍を持っていますが、朝鮮民族としての民族意識を強く持っています。お分りいただけますか」

「分ります。私の友人にも在日朝鮮人が何人かいます。韓国籍の人もいますが」

「妻の淑琴は日本人です。私達朝鮮人の日本人に対する気持ちは複雑です。妻は元社長のお嬢さんだったのですから、なおさら複雑です。でも、妻、……昔の名前の奈美には、日本人だからとか、お嬢さんだからという、威張ったところがありませんでした。無邪気な娘でした」

 李英財の顔が少し赤らんでいた。達哉は目をそらすようにして、

「そうでしょうね」

「それで、話は劉玉貴の父親だという弓畠耕一のことです」

「えっ、貴方は弓畠耕一を知っているのですか」

「知っています。向うは気にも留めなかったでしょうが、最初から知っています。西谷薬業商会のビルは一階の表が店で、裏が倉庫と社員寮、二階と三階が西谷一家の住宅になっていました。お嬢さんの縁談というのは皆が関心を持ちますから、北園さんと弓畠さんが現われると直ぐ噂になりました。最初は二人で一緒に奈美さんを誘い出していました。私はそんな姿を横から見ていただけです」

 李英財の目は遠くを眺めているようだった。

「それだけです。最初は印象だけです。私は奈美さんが北園さんと結婚することになったと聞いて、その方が良かったと思いました。これも印象だけです。ところが張家口で北園さんが憲兵隊につかまったという噂が伝わって来ました。風見さん、分りますか。戦争中、日本軍の動きはすぐに噂になって伝わったんです」

「分ります。情報というのは、そういうものです」

「当時の中国の民衆にとっては、情報だけが武器でした。威張っている日本人は、中国人や朝鮮人を人間扱いしませんから、自分がやっていることを見られても聞かれても、気には留めません。中国語や朝鮮語の勉強をする日本人はほとんどいません。だから私達が自分達の言葉で噂話をしたり、情報を交換するのは、それほど危険なことではありませんでした」

 李英財の話は三段階に分れていた。第一は戦争中の体験、第二は戦後しばらくしてからの集団的な歴史学習で聞き知ったこと、第三は王文林、元日本人の千歳に会ってから判明した話である。

 達哉は持参したワープロでメモをしたため、国際電話のファックスで智樹の自宅に送った。本当は、ついでに取材旅行をしたいところだったが、翌日には帰国し、さらに詳しく報告した。


(4-6) 第四章 過去帳の女 6