『電波メディアの神話』(9-6)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.15

終章 送信者へのコペルニクス的展開の道 6

市民トム・ペインと『コモン・センス』の時代

 アメリカ独立革命の思想的支柱となった『コモン・センス』の著者、トマス・ペイン一七三七~一八〇九)も、民衆の側に立つプレスマンの典型だった。というよりはむしろペイン自身が、もともと階級差別のきびしいイギリスの下積みの民衆の一人だった。

 ただしペインの職業を、プレスマンの直訳とすぐわかる「印刷者」とするならまだしも、「印刷工」(『史料が語るアメリカ史』)と訳すのは誤訳にちかい。平凡社の『世界大 百科事典』では「啓蒙的著述家」としている。アメリカ人のハワード・ファーストによる歴史小説『市民トム・ペイン』とその訳注や、『評伝トマス・ペイン』、『トマス・ペイン/社会思想家の生涯』などの資料で一致する点をみると、『コモン・センス』を著わす直前のアメリカでのペインの仕事は、日雇い家庭教師、『フィラデルフィア・マガジン』の雇われ編集・兼・執筆・兼・印刷者であり、それ以前には執筆の経験はあっても印刷の経験はないらしい。ともかく「印刷工」だけではせますぎるし、「印刷者」でも意をつくせない。主著の『コモン・センス』の場合には執筆だけで、印刷と製本は専門の業者にまかせている。

 アメリカにわたる以前のペインの経歴は、家業だったコルセット職人から、私掠船のキャビン・ボーイ、浮浪者、収税吏、煙草工場経営・兼・町会議員(一二人委員会の一員)まで、まさに転々としている。うまれ故郷のイギリスでは郷士の息子たちから半殺しの目にあわされたり、失業して流浪中の旅路では治療費がはらえずに妊娠中の妻を死なせたり、ありとあらゆる下積みの屈辱をあじわってきた。イギリスにはすでに国王を処刑した共和制のピューリタン革命(一六四〇~六〇)から名誉革命(一六八八~八九)までの歴史がある。ペインがいだいた共和政の思想は、ヨーロッパではギリシャ、ローマ以来の歴史的経験をふまえてのことで、マキャヴェリ時代のイタリアにも実例があるし、けっして突飛な発想ではない。だがそれを本心で、生命の危険をもかえりみずにかたり、執筆するには、それなりの自前のいかりが胸の内にもえつづけていなければならない。

 『コモン・センス』は何十頁にもならないパンフレットだが、アメリカ独立革命の最中に出版された。『史料が語るアメリカ史』には「三ヵ月で一万二千部の当時では空前のベストセラー」などと書かれているが、どうやらこれは一桁違いで「一二万部」だったらしい。『市民トム・ペイン』では、印刷屋が「悪夢を見ているような」気分で夜を日についで刷りまくり、「おそらく十万冊以上」出したとある。そのほかに二種の海賊版がでたこともたしからしい。『評伝トマス・ペイン』では全体で五〇万部という推定の数字をあげている。ワシントン将軍がひきいる民兵の総数は、冬は数千、夏は数万と、季節によって変動した。「どの兵士の雑嚢にも一冊、ページのすみの折れた、汚れた『コモン・センス』が入っている」(『市民トム・ペイン』)という状況だとすると兵士だけで数万部だから、大体の勘定はあってくる。

 ペインはみずからマスケット銃を肩にかついで兵士と行動をともにした。それがペインの主義だった。戦局が悪化していた時期にはワシントン将軍がペインにこうたのんだ。

「君の力にすがりたいのだ」「何か書いてもらえるとありがたい」(同)

 ペインはワシントンのもとめにこたえてパンフレット「危機」シリーズを第一六集まで書きつづけた。指導部の大陸会議内部でも外務委員会書記として前線に物資をおくる。憲法擁護派」の立場で「共和主義協会派」の分裂策動をうちやぶる。その後の、のちにのべるような複雑な事情があって、従来のアメリカの公史での位置づけはひくかったようだが、ワシントンやフランクリン、ジェファソンらとペインとの関係は、キューバ革命に例をとれば、カストロとチェ・ゲバラのような関係だった。キューバでもカストロが大統領となり、「祖国なき革命家」のチェ・ゲバラは、南米の奥地で見はてぬ夢をおいつづけて死んだ。


(7)カレー県選出のフランス国民議会議員と恐怖政治