『電波メディアの神話』(5-6)

第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者 6

情報不足の危険な物真似論議に「ちょっとまった!」

 以上のような「多元化神話」の問題点がみすごされたまま、椿舌禍事件以後、冒頭にも紹介した『アエラ』の記事のように、「アメリカでは放送の公平原則が廃止されて云々」という趣旨の文章がめだつようになった。いかにも日本がおくれている、いますぐ改正せよといわんばかりの例もある。

 たとえば、この例などはまだましな方だが、椿舌禍事件でかなりの論陣をはった『週刊金曜日』(93・12・17)で、同誌編集委員でもある筑紫哲也がつぎのように、「公正」文中「それ」)の判断に関する自問自答をしるしている。

「(前略)いちばん厄介で危険な問題はそれをだれの判断に委ねるか、である。試行錯誤の末にアメリカで辿り着いた結論のように、最終的には国民(視聴者)に委ねるのがよいのだろう。公正さを欠く番組(局)はいつまでもその支持を保つことはないだろう、というやや楽観的な前提あっての話だが」

 最後の「だが」に余韻がのこる。筑紫は決断をくだしかねているのだろう。「だが」、この「前提」は「やや」どころか、はなはだしく楽観的でありすぎる。しかももともと、出発点に設定されているアメリカの「試行錯誤」なるものの実態を正確におさえないことには、この種の議論はなりたたないはずだ。筑紫は別にアメリカについても放送行政についても専門家ではない。しかし超々著名なテレヴィ・ニュウズ・キャスターで、しかも、『週刊金曜日』の編集委員として反権力的スタンスをうりものにする人物が、こういうあまい観測を流すのは非常に危険な徴候である。そういう雰囲気が筑紫の周囲にもたちこめていることのあらわれだからだ。

 椿舌禍事件以後の経過を再度、確認し、問題点を点検してみよう。

 昨年(九三年)十月二十七日には「一橋大学教授・情報法学」の肩書きの堀部政男が、朝日の「論壇」でアメリカの放送の現状をぬきに、いきなり「モデル」のアメリカでは公平原則そのものが廃止されているのである」という実情報告をおこなった。

 続いて郵政省の放送行政局長、江川晃正が、十一月一日の記者会見で椿舌禍事件にふれ、アメリカの事例をひきながら、「現在の放送法にはいろいろと不備な点があるのが分った。内部で十分検討したい」とのべ、みなおし作業にはいることを示唆した。

 十一月七日には、毎日の二頁特集「日曜論争」に、すでに紹介ずみの東京大学社会情報研究所教授(情報法)の浜田純一が登場した。浜田は、「日本の放送法などの公平を担保する条文は、アメリカと比べ非常に抽象的」だといなしながら、「多メディア化、多チャンネル化」を根拠に、「今の地上波放送時代の公平の原則は、例えばNHKに任せておけば十分、とする意見も強まってくるのではないか」などと、江川発言をバックアップした。

 以上がとくに目立ったうごきだが、いままでのところ、つよい反論もみうけられない。

 だがちょっとまってほしい。いかにものまねじょうずのニッポンとはいえ、まねる相手の実態もろくにしらべずに、あいもかわらぬアメション・ザアマス型の議論をくりかえすのは、いささかはずかしくもあるし、乱暴すぎはしないか。へたをすれば言論詐欺になりかねない。


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