『電波メディアの神話』(5-3)

第二部 「多元化」メディアを支配する巨大企業

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第五章 「打って返し」をくう「公平原則」信奉者 3

無線も有線も「すべてエスタブリッシュメント」

 一九九一年末のこと、私は、東京と京都でひらかれた「民衆のメディア国際交流'91」の実行委員をつとめた。東京では三百人ほどの集会が成功したが、目玉企画はニューヨークの市民参加・自主制作ケイブル・テレヴィ局「ペイパー・タイガー」の、自称「メディア・アクティヴィスト」キャシー・スコットらの来日だった。

 ペイパー・タイガーは、アメリカ各地にある約三〇〇のケーブル・テレヴィを衛星通信でむすぶ「ディープ・ディッシュ・ネットワーク」をきずいている。湾岸危機に際しては、全米の約六〇〇〇のジャーナリストや市民運動家に手紙を出してヴィデオを撮って送ってほしいと呼び掛け、各地の反戦運動を報道した。

 キャシーの報告によると、かれらがケーブルテレヴィで週一回三〇分の時間枠を獲得する時に主張した論理は、「公共の公園を使うのと同じく電波にも平等な使用権がある」という趣旨であった。つまりかれらは、先の清水の説明による「通説」の一つ、「パブリック・ドメイン・セオリー」(公共性理論)を逆手にとったわけである。また、ここで理論的におもしろいのは、有線のケーブルテレヴィでは本来、「スケアシティー・セオリー」(希少性神話)が成立しえないということである。キャシーらの先輩にあたる黒人の公民権運動や女性の平等を要求する運動などでは、ハッキリと既存の地上波の使用権を要求していた。つまり、「希少性神話」に真正面から挑戦していたわけである。その際の「公共の電波」という概念が「希少性」をもたないケーブルにも適用され、結果としてケーブルテレヴィへの参入につながったわけである。

 ところが、アメリカでの一九六〇年代から一九七〇年代にかけての運動が日本に紹介された際、堀部政夫(情報法学)の『アクセス権』とか『アクセス権とは何か』などでは、法廷における争点と判例だけにスポットライトがあたっていた。おそらく専門の法律雑誌の記事をもとにまとめたのであろう。私は別の分野の仕事でもおなじような経験をしたことがあるが、こういうアカデミズム流の研究ではややもすると、現場の実際の要求と運動が完全に欠落するものである。

 私は、おなじ時期に、そういう面からのみの紹介の仕方に疑問を感じて友人に問いあわせ、次のように書いて批判したことがある。

「アメリカ駐在の経験を持つ記者に聞いたかぎりでは、黒人と婦人の運動の要求は一貫して、単なる反論の機会ではなく『メディアをよこせ』であったという。つまり、本当のエネルギーを発揮した大衆は、決して現体制の下でのマス・メディアに、一時的な反論の時間枠なり紙面のみを要求したのではなかったのである」(『テレビ腐蝕検証』

 キャシーは私の質問にこたえて、「アメリカでは地上波もケーブルも、すべてエスタブリッシュメントの所有物です」とキッパリ語った。

 支配権力とのたたかいでは、あまえはゆるされない。厳密な現実認識と運動の実践による検証が欠落した理論の下では、未来は展望できない。キャシーらの先輩は本来、「希少性神話」が支配する地上波の放送局にたいして放送時間を要求していた。だからこそ、体制側はゆずらざるをえなくなって、理論的には無限性のある新メディア、有線のケーブルテレヴィによるガス抜きをはかったのだ。「もとめよ、さらばあたえられん」とはいうが、最初からのこりものをねだる運動には、軽蔑しかかえってこないだろう。


(4)「多元化神話」にひそむ電波主権要求ガスぬきの罠