『電波メディアの神話』(03-9)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 9

アメション・ザアマス型のジャーナリズム論

 アメリカ式ジャーナリズム論には、西部劇さながらのフロンティアにおける特別な事情がある。神話の出発点は、アメリカの独立革命で新聞人がはたした役割だ。当時のメディア技術は活字を一本づつひろってならべる段階だから、「プレスマン」は「印刷工」でもあり「執筆者」でもあった。「著述家」とも「印刷工」とも紹介されるトマス・ペイン一七三七~一八〇九)が書いた『コモン・センス』と題するパンフレットは、出版後の三ヵ月で約一二万部発行、各国語版もふくめて全体では約五〇万部に達したといわれる。当時としては画期的なベストセラーだったようであり、アメリカの植民地の住民がイギリスからの独立を決意するにあたって決定的な影響をおよぼした。なお、トマス・ペインの位置づけについては終章で補足する。

 独立革命の理論的指導者の一人としてもっとも著名なベンジャミン・フランクリン(一七〇六~九〇)は、生涯「プレスマン・フランクリン」を自称した。最初の仕事は兄が営む印刷業の徒弟であり、イギリスにまで渡って印刷技術をまなんでいる。フランクリンはまた、ピューリタニズムの典型であり、「資本主義の精神」の体現者として評価されている。アメション・ザアマス型の神話の原型は、こういう独立自営の「プレスマン」の伝統と、アメリカの歴史の特殊な事情の上にこそなりたっているのだ。だがアメリカのジャーナリズムそのものも、ピュリッツァアー(一八四七~一九一一)とハースト(一八六三~一九五一)とが巨大化と系列化の競争をくりひろげて以後、広告への依存度をふかめ、ますます体制化、資本主義化の一途をたどった。イエロー・ジャーナリズムとよばれた「煽情主義」のハースト系新聞の手法を日本で直接とりいれたのが、のちにのべる正力松太郎社長就任以後の読売新聞である。ハーストはスペインとの戦争(一八九八)をあおった。アメリカはこの時期に大陸内部の西部侵略を一応おえ、米西戦争の勝利によってキューバ、プエルト・リコ、グアム、フィリピン諸島を獲得したのをきっかけに、大陸の外への侵略政策に転じたのである。以後、アメリカ独立革命期の特殊事情は表面からきえうせ、かすかな地下水脈にとどまっている。

 アメション・ザアマス型の最大の弱点、または欺瞞のしくみは、以上のようなアメリカの歴史的経過と現在の実状の完全な無視にある。アメリカ民主主義にもすぐれた点はおおい。その伝統はすてたものではない。しかし、初代大統領のジョージ・ワシントンは黒人奴隷を所有する大農園主だった。アメリカ大陸にはやくからすんでいた人々は、コロンブスらの地理上のかんちがいからインディアン(インド人)とまちがえられたままで、祖先伝来の土地をうばわれつづけていたが、アメリカの独立後にもその事情はかわらないどころか、ますますひどくなった。アメリカ民主主義には、独立当初から白人のダンナ衆の民主主義という限界があったのだ。

 一八三〇年代にアメリカを訪問して研究し、『アメリカの民主主義』を書いたフランスの社会哲学者アレクシス・ド・トクヴィルは、アメリカ人の「心の習慣」を「個人主義」とよんだ。アメリカ民主主義には「白人のダンナ衆の個人主義」の集合としての面が最初からあったし、時代がくだるにしたがってますます資本主義的な変質がすすんでいる

 カナダうまれでアメリカ経済学会会長をつとめたこともあるガルブレイスは、近著の満足の文化』で、レーガンやブッシュらの「富裕階級を優遇する」政治を批判しながら、 かれらの政策が「自らの選挙民である満ち足りた選挙多数派の意志を忠実に反映したものであった」という辛辣な評価をする。「満ち足りた選挙多数派」はいまもなお黒人やヒスパニックなどの「下層階級」の存在を必要としているのだ。それなのに、アメリカの実状をろくにしらべもせずに「アメリカでは」と得意気にきりだす論法がいまだにまかりとおる日本の現状には、あきれるほかはない

 こうした歴史的経過をおおいかくしたまま、「企業ジャーナリズム」にまで「プレスマン」の伝統を一般化するのは、アメリカに関してさえ決定的なあやまりである。ましてや、革命の伝統などこれっぱかりもない日本の大手メディアに、アメリカ式ジャーナリズム 論をあてはめて論ずるのは、机上の空論とか幻想をとおりこして、結局は権力の欺瞞への援護射撃におちいる愚挙である

「権力・メディア・市民」の三極構造という説明の図式もある。メディアまたはジャーナリズムが市民にかわって権力を監視するのだという「通説」である。このように「権力」「メディア」「市民」などと、一応はもっともらしい概念にくくってみせるのは、いわゆる「社会学」というあやしげな新興宗教が開発した手法であって、思想的にはプラグマティズム(実用主義)とよばれている。資本主義擁護の立場の御用学問だから、この「三極構造」の場合にもみごとに「資本」がぬけおちている。私は、プラグマティズムの訳語として「独断主義」をえらび、アメリカ式ジャーナリズム論の基本を「ジャーナリズム性善説」とよぶことにしている。「ジャーナリズム性善説」は、いわゆるアメリカ民主主義へのてばなしの礼賛と基調をおなじくしている。


(03-10)「ジャーナリズム本来」は、そんなに立派な仕事か